第三 六回 ④
ヒィ南進して好漢と大いに歓を交え
ムジカ東征して獅子と初めて兵を合す
待機していたムジカらも、突然現れた敵騎に驚いて為す術もなかったが、タゴサが真っ先に我に返って、
「何してるの、二人を見殺しにするつもり!?」
そう叱咤すれば、ムジカもはっとして、
「敵には備えがあった。さすがは獅子と感心しているときではないな。オンヌクド、丘の右手に回り、敵を牽制せよ」
オンヌクドは頷くと、すぐに一隊を割いて駆けだした。さらにムジカは、
「全軍を挙げてまずは二将を救い出す。ことが成ったらすぐに退く。合図があるまで足を止めてはならぬ。殿軍は私が自ら引き受けよう」
迷うことなく断を下すと、突撃の合図を出した。全軍一糸乱れず丘に向かって駆けだす。駆けながらもムジカは様々な指示を伝える。金鼓が鳴り、次々と陣形が変わっていく。その際も決して乱れることはない。ともに駆けながら、チルゲイは感心して呟いた。
「まるで己の手足のようだ。こんな見事な用兵は見たことがない」
その思いは丘の上のギィも同じであった。傍らの将に言うには、
「見ろ、敵の将はただものではないぞ」
「しかし機はこちらにある。打つ手を誤らなければよい」
そう答えたものこそ客将ゴロ・セチェン。
「たしかに……。コルブ、いつでも下れるよう用意しておけ。金鼓が鳴ったら突っ込め」
「承知」
例の軽弓の名手(注1)、コルブである。彼は葦毛に跨がって数歩、前に出た。
さてジョナン軍は丘に達したかと思うと、するすると左翼を伸ばし、端から駆け登った。称して「薙ぎ払う鞭の勢」。これがマクベンらと揉み合うマシゲルの前軍に斜めに斬り込んでいく。混乱していた二将もやっと己を取り戻し、兵をまとめはじめた。
さらに右手ではオンヌクドが敵の間に割って入る気配を示す。マシゲルの兵はこれにも気を取られる。
「ヒィ殿、嘱んでよいか」
「もちろん。百騎ほど借りるぞ」
そう答えると、何も聞かずに一隊を率いて駆けだす。矢のごとく進み、友軍の間も一瞬に駆け抜けてそのまま敵軍に突っ込んだ。先頭を行くヒィ・チノは空を飛ぶがごとく駆け回り、誰一人当たりうるものがない。
「さすが神将、見事だ」
ムジカは感嘆すると、さらに中軍を押し出した。
マシゲルの陣からも盛大に金鼓が鳴り響く。それを受けて一斉に駆け下ったのはコルブの一隊。乱れた前軍を救うべく、突出した敵の左翼に襲いかかる。ジョナン軍は新手の参入で陣形を乱す。ためにヒィ・チノの勢いもやや衰えた。
「殆うい、殆うい。あの突っ込んできた将は何ものだ。機を失うところだったわ」
ギィは額の汗を拭った。ゴロも驚きを隠しきれずに言う。
「名のある将に違いない。コルブの投入が遅れたら、まずいことになっていた」
頷いたギィは、ちらと丘の左手を見る。そこにある敵の一隊は先ほどから奇妙な動きを示している。徐々に丘を登りながら、突入する機を窺っているようにも見えるが、結局は矢を射かけるばかり。
「ゴロ、あれは?」
「ふふ、おそらくは牽制のみ。我々と前軍の間を断とうとしているかのようだが、そんな賭けには出るまい。だが、前軍の将兵にしてみれば気にはなるだろう」
「では、牽制の兵を牽制しておくか。バラウン、あの目障りな隊を何とかしろ」
待ってましたとばかりにバラウンジャルガルが例の大弓(注2)を構えて、鏑矢を放った。矢は唸りを挙げてオンヌクド隊の頭上を掠めていく。
驚いたオンヌクドがはっと見上げれば、一軍がじわじわと下ってくる。先頭の将が再び大弓を引き絞っている。オンヌクドは後退してこれに備えざるをえない。
かくして両軍は互いに牽制しつつ対峙した。そのおかげでマシゲルの前軍は勢いを取り戻して攻勢を強める。
「よし、全軍をもって一挙に蹴散らすぞ」
ギィはそう言って、右手を高々と挙げようとした。そのとき、ヤクマンの銅鑼が天地を揺すらんばかりに轟きわたった。
「何?」
訝しんで、挙げかけた手を中途で止める。見ればヤクマンの前軍が次々に戦場を離脱していく。代わって中軍が前面に出てきた。
長く伸びていた左翼も、まさに翼を折りたたむように整然と退いていく。余分な動きは一切なく、コルブらは思わず足を止めた。
ヤクマン軍は長槍隊をどっと押し出し、余の軍勢はその隙に後退すると再び陣形を整える。
「退くのか、そうはさせぬ」
ギィは突撃の命を下した。マシゲルの中軍が喊声を挙げつつ丘を下る。
「来たか」
かたやムジカはぐっと顔を引き締める。
「今は退くな、押し返せ!」
応じてわっと喊声を挙げて迎え撃つ。マクベンらの手勢はすでに後軍に回っている。正面に展開するのはすっかり中軍である。
ここに初めて中軍同士がぶつかった。どちらも大将自ら率先しての攻防。虎か、獅子か、はたまた龍か、狼か、いずれが勝るとも知れない。戦場はすでに丘ではなく、麓にまで降りてきていた。ゴロは内心思うに、
「ほほう、いつの間にか地の利が薄くなっているか。しかし丘を背にした我らの優位はまだ動かぬぞ。どう出るかな」
ヤクマン軍にあってもっとも活躍しているのは神箭将ヒィ・チノである。得物を操り、当たる端から敵兵を葬っていく。やがてばったりとギィに出くわした。
「そこにあるのは獅子マルナテク・ギィと見た、勝負しろ!」
「おや、先の将だな。よし、我が腕前を見せてやろう、名乗れ!」
「ナルモント部の神箭将ヒィ・チノとは俺のことだ!」
「何!?」
驚いた瞬間、すかさずヒィが斬りかかる。ぱっとこれを躱すと、ギィも目を瞋らせて朱塗りの槍を持ち直す。
ここに草原に冠たる双傑が相見え、互いの奥義を尽くすことになったわけだが、森羅万象ことごとく震え、有象無象も等しく息を呑むといったところ。かたや神箭の威は天空を駆け、かたや獅子の勇は大地に轟く。果たして二人の勝負はどうなるか。それは次回で。
(注1)【軽弓の名手】(注2)【例の大弓】ともに第一 九回④参照。