第三 三回 ② <ツジャン・セチェン登場>
ヒィ・チノ知略を以て不浄大虫を討ち
ホアルン神人を遣わし拓末菲絲を招く
ちょうど空を見上げれば、雁が列を成して飛んでいる。みなにせがまれてやおら弓を構えると、狙いを定めてひょうと放つ。雁は列を乱して大騒ぎ。見れば黒い影がひと筋、ふた筋と地に落ちる。
「誰か見てこい!」
チルゲイが叫べば、あわてて賊徒の一人が駈け出した。戻ってきたその両手には都合四羽の雁が、しっかと握られている。チルゲイはまたも拍手喝采。賊徒どもはますます恐懼して、額が裂けるほど叩頭の礼を繰り返し、忠誠を誓った。
さて三人は心の底から愉快な気分になると、数百の賊徒を従えて意気揚々とアイルに戻った。帰り着くころにはすっかり陽が傾いて、上天は碧く、大地は紅く、遠くは明るく、近くは暗くなっていた。
アイルのものはヒィの帰りが遅いので気にかけていたところ、大勢の人馬を従えて戻ってきたので、おおいに驚いた。
「若様、いったいその軍勢はどこから連れてきなすったのか」
傲然と胸を張ると嘯いて言うには、
「諺にも謂うではないか、『凡夫は出でて帰家を失い、英雄は出でて大功を成す』と」
傍らからチルゲイが、事の次第をおもしろおかしく伝えれば驚かぬものはなく、ヒィ・チノの胆力に感嘆すると同時に、無事に戻ってきたことにほっと胸を撫で下ろしたが、本人は平然としている。
このことからヒィ・チノの豪胆と神のごとき弓の腕前は広く草原に知られることになり、多様な渾名を奉られた。すなわち神箭将、飛虎将、如天雷、穿天空、操風神、呑天狼といった類であるが、くどくどしい話は抜きにする。
さてヒィは、連日チルゲイらと賊軍の調練に明け暮れていたが、その用兵たるや、奇正の相応ずること円環の端なきがごとく、進んでは風のごとく、止まりては山のごとく、あるいは九天の上を翔け、あるいは九地の下に蔵れ、微なるかな神なるかな、まさに転変窮まりなしといったところ。
チルゲイは感心してこれを観ていたが、あるとき尋ねて言った。
「君はどこで用兵の奥義を極めたんだ」
するとヒィ・チノは答えて、
「兵を調練するのは戦に勝つためだ。勝つために当然のことをしているだけで、奥義も何もあるものか」
チルゲイはこれを聞いて、ヒィ・チノが生まれながらの名将であることを悟った。さらに驚いたのは、ヒィが博識多才でありながら目に一片の文字も止めたことがないと知ったときである。
「おやおや、ではどうしてそんなに兵法や故事に精通しているんだ? 私は君ほどの博識に出会ったことがない」
これもあっさり答えて、
「一度聴いたことは忘れないんだ」
「ほう、ほう、博覧強記ってわけか! それでは試してみよう」
そう言って古詩を朗々と暗誦すれば、一字一句の違いもなく復誦してみせる。チルゲイは大喜びでミヤーンに言った。
「この旅で心を動かされたのは、長城でも神都でもない。多くの英傑や好漢と交わりを結んだことだ。大慶、大慶」
ヒィは眉をぴくりと動かして、
「ほほう、世に英傑好漢はそんなにいるものか。俺は生まれてこのかた、これぞという人物をほとんど知らぬ。どんな人物に出逢ったか聞かせてくれ」
そこでチルゲイは咳払いひとつすると、
「まずはダルシェのハレルヤだな。次いでヤクマン部ジョナン氏のムジカ。神都ではイェリ・サノウ、またジョルチ部キャラハン氏のセイネン……」
各々の人となりを細かに述べれば、大喜びで聞き入る。さらに弁を振るって、
「だが何と言っても一番の英雄は、ジョルチ部フドウ氏の族長インジャであろう。その心性たるや、仁に厚く、義を重んじ、礼に則り、智に溢れ、信を貫き、忠に富む。兵を用いては鬼神を欺き、人に接しては寝食を忘れ、上は天下を憂え、下は万民を慈しみ、麾下の勇将はこれがためなら喜んで死地に赴き、帷幕の謀臣はこれがためなら争って奇計を出だすといった具合」
続けて言うには、
「先に言ったサノウやセイネンは、もとよりインジャの臣にして最上の僚友。そればかりかベルダイ氏のトシ・チノもその塞に投じているとか。まことにテンゲリに祝され、エトゥゲンに護られた英雄とは彼のことを謂ったものだろう」
ヒィはおおいに悔しがって言った。
「世の中には好漢というのはいるものだなあ。俺もそのインジャ殿に会ってみたいものよ。かねてより風の噂にはその名を耳にしていたが、はたして名は虚しくは伝わらぬもの、まさかそれほどの人物だったとは!」
するとチルゲイの表情がぱっと明るくなった。ミヤーンは嫌な予感を覚えて止めようとしたが、
「ではヒィよ、会いに行くか!」
あえなく予感が的中して、思わずテンゲリを仰ぐ。ヒィも驚いて奇人の顔を見る。しかしそれもほんの一瞬のこと。
「おもしろい、行くか!」
話は瞬く間にまとまって、三人は慌ただしく旅の用意を始めた。そこに偶々訪ねてきたものがあった。見れば、
身の丈七尺半、双眸にただならぬ光を湛え、精悍な面差しの奥には神算鬼謀を宿し、忠心には浩然の気(注1)を養い、頭蓋には王佐の才を蓄えた一個の好漢。
「おお、ツジャンではないか」
(注1)【浩然の気】物事にとらわれない、おおらかな心持ち。また、天地にみなぎっている、万物の生命力や活力の源となる気。