第 四 回 ①
ハクヒ涕して族史を語り宿命を悟らせ
インジャ初めて草原に戦い魔軍を走らす
ハクヒはインジャに向かって語りはじめた。
「我が氏族、フドウについて知っていただかねばなりません」
「フドウについて……」
「はい。フドウ氏はじめジョルチ部の祖先は遥か昔、遠くオロンテンゲル山の北に連なるシェンガイ山嶺からやってまいりました。名をジョルチ・チノという全身を銀の毛で覆われた狼です」
「……狼?」
意外さを禁じえず呟くと、
「はい。ジョルチ・チノは大地の王たる白き狼の四番目の王子にあたります。チノは太陽の消えた忌まわしい日にシェンガイを離れました」
「なぜだ?」
「チノは、やはり同じ銀の髪を持つ乙女に恋をしたのです。乙女の名は、ネイメイ・タイエン。チノはネイメイのあとを追って山を下りました。ちょうど天王たる太陽がお怒りになって、昼の最中に突然消えたので、その暗きに紛れて無事にシェンガイを離れることができたのです」
「…………」
「チノはほどなくネイメイを見つけると、夜になるのを待ってこれを襲いました。ネイメイは子を孕み、月が満ちて六人の子を産みます。それがジョルチ部の各氏族の祖です。すなわちベルダイ、ジョンシ、アイヅム、そして我がフドウ、キャラハン、ズラベレンの六氏。我がフドウ氏の祖たるフドウ・ジョルチは、四番目の子にあたります」
ここで一旦話すのをやめて、インジャの顔色を窺う。
「続けよ」
「はい。チノはまもなく死にましたが、あとに残された六人の兄弟はよくネイメイを護り、中原に広大な牧地を獲得いたしました。以後、子孫は互いに婚姻を重ね、代わる代わる有能な族長を輩出し、輔け合いながら草原をところ狭しと駆け巡ってきたのです。ところが……」
その口調が俄かに暗鬱な色を帯びる。
「ところが、どうした?」
「二十数年ほど昔のことになります。草原の南にトオレベ・ウルチをハーンに戴くヤクマン部なる部族があるのですが、奴らが中華と手を組み、我が部族の結束を崩しにかかったのです」
そこでインジャが制して言うには、
「今、中華と言ったが、何だそれは」
「ご存知ありませんでしたか。草原の南方に彼らの築いた長城があります。その向こうに彼らの国があるのです。中華の民は日ごろ馬に騎らず、定住して穀物を育てております。エジシ様によると、現在の中華は『梁』を姓とする一族が治めているそうです」
「なるほど。……中華というのはタムヤの連中に似ているな」
「中華は昔から卑劣な策謀を好みます。このたびも巧みにトオレベ・ウルチを抱き込み、草原の民を相争うよう仕向けたのでございます。無念にも我が部族はまんまと計略に嵌まり、まず最大の氏族であるベルダイ氏が分裂、その争いは他の氏族にも波及しました。ジョルチは幾つもの勢力に分かれて戦い、急速に衰えました」
「……………」
「インジャ様の父であるフウ様は、何とか部族を在りし日の姿に戻そうと努めましたが効なく、そうするうちにヤクマン部とナルモント部の連合軍に攻め込まれて四散してしまったのです」
とて無念の表情を浮かべる。
「ハクヒも、その戦に出たのか」
「はい。しかしあれは戦などと呼べるものではありませんでした。ハーンの呼集に応じた兵は寡く、その兵たちもみな命に従わず我先に戦う始末。これでは勝てる道理がありません。あっという間に蹴散らされて、ハーンも戦死してしまいました。我々もフウ様を護って逃れるのがやっとでした」
「……その後、ジョルチ部はどうなった」
「敗戦にも目が覚めず、数少なくなった人衆の中でさらに争いは続きました。……そして、十六年前のことです」
ここでハクヒは大きく息を吐いた。
「ふ、フウ様が、盟友と恃むアイヅム氏のテクズスに、騙され、こ、殺されたのです!」
「……父が、……盟友に⁉」
インジャはしばし言葉を失った。
草原では、盟友は血よりも濃い絆で結ばれたまたとない友、これを殺すなど親を殺すよりも恥じなければならぬ悪行である。インジャは、ジェチェン・ハーンにそのことを繰り返し教えられてきた。その盟友に、父が殺されたというのだ。
つい先日、インジャ自身がナオルと盟友の誓いを交わしたばかり。セルヂム(潅奠儀礼)(注1)して天地に誓って言うには、
「常に良き友たれ。己を擲ってこれを助け、たとえ命を失っても悔いることなかれ。大ズイエの流れが逆流しようとも、天地の王に誓って互いに背くことなかれ。盟友にあるまじき行いあらば、子々孫々に至るまで災いあらん」
また唱和して、
「かくあれかし!」
とて、慣習に倣って互いの宝を交換した。インジャはナオルにハーンから賜った金絲の帯を、ナオルはインジャに父カメルから貰った鐙を与えた。かくしてインジャを兄、ナオルを弟とする盟友の誓いは成った。
フウがテクズスに殺されたことは、譬えていえば自分がナオルに殺されるようなもの。ありえないこととしか思えない。
「さぞかし父は無念であったろう……」
「……はい。その後、我々はテクズスの手から逃れるため西へと向かいました。しかし道半ばにして追撃を受けてあえなく壊滅、漸くエジシ様を恃んでタムヤに難を避けました。ほどなくして若君がお生まれになり、今に至るという次第です」
ハクヒは、はらはらと流涕して、
「是非ともフドウを再建し、憎きテクズスおよびトオレベ・ウルチを討ってくださいませ。それが我々の悲願であり、若君に課せられた宿命とお考えください」
「そうか、そのようなことがあったか……。力足りぬかもしれんが、父の仇をそのままにはしておけぬ」
かくしてインジャは己の宿命を悟ってますます鍛錬に心を砕いたが、くどくどしい話は抜きにする。
(注1)【セルヂム(潅奠儀礼)】潅奠。酒に浸した薬指を弾いて、天地人に捧げる習俗。