第三 二回 ④ <ヒィ・チノ登場>
サノウ山上に理を説いて職制改まり
チルゲイ東原に雄と交わり討賊を議す
このころ、例の奇人チルゲイがどこにいたかといえば、相も変わらずミヤーンと旅の途上にあった。神都でインジャらと別れたあと、すぐに街を出て東行千里、道中格別のこともなくナルモント部のアイルを騒がせた。
ナルモント部は勇猛にして翻天竜の異名を持つダコン・ハーンが治めていた。チルゲイは巧みに言辞を操り、いつの間にかちゃっかり客人になりおおせた。
ここにやはり宿星の運り合わせか、一個の好漢があった。その名はヒィ・チノ。ハーンの嫡子である。覚えている方もおられようか、カミタ氏のオノチに弓を教えた(注1)のが彼である。その人となりはと言えば、
身の丈七尺半、年のころは二十歳を出でず、眼は炎を宿し、口は風を出だし、四肢に気漲りて、所作は躍すること奔馬のごとく、心中に志宿りて、舌鋒は鋭なること名剣のごとし。気は世を蓋うべく、力は山を抜くべく、剣は地を裂くべく、弓は陽を落とすべく、武芸、水練、天文、地理、用兵、故事、ことごとく通暁せざるはない、まさに天下無双の英傑。
チルゲイとミヤーンは、ハーンの命でヒィに預けられることになった。初めて挨拶を交わすとヒィが言った。
「河西から見えたとか。どうだ、おもしろいことがあったろう」
「いかにも。草原の彼方には、魑魅魍魎が渦を巻いて巣食っているぞ」
「ほう、それは仰々しい。話を聞かせよ。無聊(注2)が凌げそうだ」
かくしてチルゲイがおおいに草原の情勢を弁ずれば、ヒィはおおいに喜び、躍り上がって言うには、
「こんな辺境でちまちまと牧地を争うのは、親父の代までで十分だ。俺はさっさとセペート部を滅ぼして河西に繰り出すぞ。漢として生まれたからには、大事を成し遂げねばならん」
セペート部というのは、北東を流れるズイエ河を挟んで対峙する大部族である。ナルモント部とは宿年の仇敵。
それはさておき、チルゲイとヒィ・チノはすぐに意気投合して義兄弟となった。聞けば二人とも同じ歳、しかも同じ冬の生まれであった。
「よし、チルゲイ。今日から俺と君は兄弟だ。ミヤーンもついてこい、出かけるぞ!」
そう言うと真っ先にゲルを飛び出していく。
「よしきた!」
チルゲイもぱっと席を立って、あとを追う。しぶしぶミヤーンも立ち上がって、
「やれやれ。奇人一人でも大騒ぎなのに、また盛んなのが現れた。疲れるなあ」
ぼやいたが、もちろん二人の耳には届かない。三人はそれぞれ馬に跨がって駆け出した。先頭に立つのはヒィ・チノ。彼らを見かけた人衆はみな手を振って、
「若様、お気をつけて」
「若様、早くお戻りになられますよう」
ヒィは笑って、
「陽が落ちるまでには戻るさ! お前らもしっかりやれよ!」
そう言ってさらにひと鞭、騎るは漆黒の駿馬。瞬く間にアイルを遠ざかる。チルゲイとミヤーンはついていくのがやっとの有様。
さて、見渡すかぎりの草の海を、三騎は駆けに駆けた。
「チルゲイ、見ておれ」
そう言うや弓に矢をつがえて天空へと放つ。はっと見上げれば、矢は見事に天翔ける鳥を射止める。二人はおおいに感嘆してその手並みを褒めた。三人は大笑いしてさらに馬を飛ばす。
しばらく行くと、ヒィ・チノが馬を止めて言った。
「ひとつ相談があるのだが」
「何だ、何だ。私にできることならよいが」
「耳を貸せ」
チルゲイが顔を寄せると、そっとあることを耳打ちした。さすがの奇人も驚いて目を見開いたが、やがて満面に喜色を浮かべる。傍らのミヤーンは、どうせろくなことにはなるまいとて様子を窺う。チルゲイが言うには、
「ほほう、おもしろい、おもしろい! 何と大胆なことを思いつく奴だ。で、何人でやるんだ?」
「俺と君、そしてミヤーンの三人だ」
チルゲイはひょうと奇声を発すると、
「ますますおもしろい。たった三人か、ははは、これはいい。いいぞ、いいぞ」
連呼して愉快そうに笑う。彼が笑えば笑うほどミヤーンは不安を増したので、恐る恐る尋ねた。
「何がそんなにおもしろいだ」
「ふふ、いやさ、このヒィ殿が、数百の手下を率いた野盗を三人で始末しようと言うのさ。こんな痛快なことがそうそうあろうか、ははは」
ミヤーンは吃驚して、
「阿呆か! お、俺はやらんぞ! 頭がおかしいのか?」
ヒィ・チノは眼に炎を宿して、
「無理ならそのときは逃げるのさ。嫌とは言わせないぞ。さあ、乗り込もう」
チルゲイは至って呑気な調子で、
「承知、承知。ミヤーン、ついに君の棒が役立つときが来たんだぜ」
「絶対に嫌だ! 君たちだけでやればいい」
「まあまあ、そう言わずに。行こう、行こう」
ヒィとチルゲイは二人だけで話をまとめて、嫌がるミヤーンを急き立てて進んだ。三人はやがて小高い丘に辿り着いた。ヒィがそれを指して言った。
「ここに奴らのアイルがある。主将は『不浄大虫』のバーリルっていうけちな男だ。噂には重さ十五斤の大鉄槌の使い手だそうだが、かまうことはない。そいつさえ討ちとればあとは有象無象の類、取るに足らん」
「君の弓の腕があれば易々と仕留められるだろう」
すると何と答えたかと言えば、
「それではつまらん。しかしどこからかかろうか」
応じて僅かに考える風だったが、
「ふうむ。まことにそのバーリル以外はたいしたことないんだな。ならばことは容易い」
ヒィ・チノの眼がきらりと光る。
「ほう、策があるか」
ミヤーンがあわてて間に入ると、
「とんでもないことを言っているが、俺はまだ承知したわけではないぞ」
「ここまで来て何言ってるんだ。『駆け出した馬からは降りられぬ』と謂うではないか」
「駆け出したのは君たちじゃないか!」
しかし押しきられてやむなく順ったが、これはいつものこと。
さてそこで奇人は指を立てて二人に一計を話しはじめた。このことから好漢おおいに賊徒の肝を潰し、名声四方に轟くといった次第になるのだが、果たしてチルゲイはいかなる策をもって不浄大虫を討ちとるか。それは次回で。
(注1)【オノチに弓を教えた】第二 七回②参照。
(注2)【無聊】退屈なこと。心が楽しまないこと。気が晴れないこと。