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草原演義  作者: 秋田大介
巻三
127/783

第三 二回 ③

サノウ山上に理を説いて職制改まり

チルゲイ東原に雄と交わり討賊を議す

 さてここからは話が幾手にも分かれるので心していただきたい。


 ウリャンハタの敗北に先んじて(トイ)を引き払ったジュレンの軍勢は、飛ぶように神都(カムトタオ)に戻った。ヒスワはまず征塞を勧めたサルチンを捕らえようとしたが、すでに邸宅を処分して何処かへと逃げ去ったあとだった。


 実はサルチンは塞を攻めるよう進言したあと、商用で(バリク)を離れていた。彼は山塞に三万もの兵がいようとは思いも寄らなかったので攻撃を勧めたのであったが、もし(バリク)にあってそれを知ったなら、この出師(すいし)に強硬に反対したはずである。


 その証拠に(バリク)に戻ってきてそのことを聞くや、あわてて家財(エド)を整理して(ウリダ)へ逃げ去ったのであった。すなわちジュレン軍の敗北を予見(ヂョン)したということである。


 ヒスワはヘカトに行方を尋ねたが、知らぬと言うばかり。諦めて登庁すると元首(ドルチ)(まみ)えた。


「おお、知恵者(セチェン)。首尾はどうであったか」


 問われたヒスワは、満面に笑みを作ると揖拝(ゆうはい)して言うには、


「お(よろこ)びください。大勝でございます。山塞に拠る亡族の小僧(ニルカ)どもはことごとく掃討され、グルデイ以下五名の上卿(クシュチ)(注1)に一万騎(トゥメン)を与えて山塞に残してまいりました。ワラカン様はこのものどもを特に将軍に列し、クシュチは新たにお選びになるのがよいかと存じます。さらにこの(バリク)を守る兵の欠員をすぐに埋めねばなりません。次はいよいよマシゲルを滅ぼすことになりましょう。さてさて今やワラカン様は青史に名を止めるべき名君となられました」


 これを聞いてワラカンは大声で笑い、喜んだ。その場でヒスワに恩賞を下し、ほかの諸将にも行きわたらせるよう命じた。そして言うには、


「クシュチのことだが、誰を選べば良いだろう」


「お(まか)せください。大任に相応しいものを推挙しましょう」


「おお、(たの)んだぞ」


 退庁すると、どっと背中(ノロウ)に汗が噴き出す。しかしすぐに気を取り直してクシュチを選定することにした。


 それから毎日、ヒスワ邸の門前には賄賂を携えた貴族が列を成すこととなった。ヒスワはそれをことごとく蔵に納め、期日になると賄賂の多かったものから順にクシュチとした。いかなるものが選ばれたかといえば、すべて佞臣奸臣の類、いちいち記すには及ばない。


 さらにワラカンには巧みに酒色を勧めた。もともと酒色に溺れていたワラカンは、ヒスワの手にかかるとますますその道にのめり込んでいった。次第に大院(クルイエ)(ヌル)を出すことも減り、やがてまったく臣下に姿(カラア)を見せなくなってしまったが、これこそヒスワの狙いどおり。


 かくして神都(カムトタオ)の政事はすっかりヒスワの私物(エムチュレン)となってしまった。(オロ)あるものはみな他所に逃れ、クルイエには佞臣と無能(アルビン)ばかりが並ぶ有様。


 ヒスワの権勢はここに絶頂を迎えつつあったが、内心ではいつ山塞の軍勢が押し寄せるかと兢々としていたのは言うまでもない。


 強引に兵を募り、他国のものは割符(ベルゲ)がなければ(バリク)に入ることもできなくなってしまった。また城壁(ヘレム)の改修のために商家の子弟を徴発したので、人衆(ウルス)はことごとくこれを恨んだ。


 ヒスワは敗戦が露見するのをもっとも恐れていたが、商人(サルタクチン)が出入りするこの(バリク)では完全(ブドゥン)に隠蔽するのは難しく、やがて(ちまた)に噂が流れることになった。


 そこで密偵を放ち、敗戦について語るものがあれば片端から捕らえて処刑した。これにはみな(アマン)(つぐ)むほかなく噂は鎮静したが、今やそれは公然の秘密(ニウチャ)であった。知らないものがあるとすれば、ドルチのワラカンただ独りであっただろう。


 こうした悪政のおかげで神都(カムトタオ)は商人の往来も減り、すっかり活気を失ってしまった。ヘカトはこれを憂えて、あれこれと訴えたが聞き容れられなかった。そこでヒスワ宛に書状を(したた)めると、出奔してサルチンのあとを追った。


 もちろんヘカトはその行き先を知っていたのである。書状には神都(カムトタオ)の現状を憂えて、細々と献策が(つづ)られていた。ところがヒスワはそれを読むなり燃やしてしまい、ますます暴虐を極めたが、その話はここまでにする。




 ミクケル・カンは、ヒラトらに守られてメンドゥ(ムレン)を渡り、西原のアイルに戻った。それからはひたすら(ボロ・ダラスン)に溺れて政務を顧みなくなった。やむなくヒラトらがそれを請け負ったが、ミクケルはことあるごとに彼らを罵り鞭打ったので、怨嗟の(ダウン)は野に満ちた。


 ウリャンハタ軍はタムヤも撤退と同時に放棄した。そこでタムヤの長老(モル・ベキ)は集まって話し合い、自衛団を組織して英主の登場を待つことになった。エジシは請われて自治に参加することになったが、その学識を(かんが)みれば当然のことである。


 もっとも哀れだったのは、ジョンシ氏のウルゲンである。彼はともにメンドゥを渡ることを望んだがヒラトらの反対に遭い、中原に弱兵千騎(ミンガン)を与えられて残されることになった。


 ウルゲンは泣いて懇願したが、誰も(チフ)を貸さなかった。もともと猜疑心の強い彼はおおいに荒れ、暴君と化したのでさらに人が離れていった。


 一度、クル・ジョルチ部がウリャンハタ部に(ソオル)を挑んできたが、カントゥカらのはたらきで退けることができた。ヒラトは諸将と(はか)ってカントゥカに(ホイン)の備えを託したので、クル・ジョルチ部も迂闊に攻め込めなくなった。


 ミクケルの堕落は日を追って酷くなった。ヒラトは、スク・ベク、シン・セクといった若い諸将と密談を交わすようになったが、この話もここで止める。




 ウリャンハタ撤退後、中原には有力な部族(ヤスタン)消えた(ブレルテレ)ので、南方の小部族(ヤスタン)が次第に北へ勢力を伸ばした。小は小なりに分裂統合を繰り返し、その間隙を縫って野盗(ヂェテ)の類も猖獗(しょうけつ)(注2)を極めた。


 かくして草原(ミノウル)は、かつて例のないほど混沌の様相を呈し、乱世ここに極まれり、とても商人などが往来できる状態ではなくなった。神都(カムトタオ)へ向かう商旅が減ったのにはこのような背景もある。


 しかし放浪部族ダルシェは、相変わらず自由(ダルカラン)に駆け巡り、出遭ったものをことごとく殲滅(ムクリ・ムスクリ)していった。


 またヤクマン部のトオレベ・ウルチがこの状況を看過するはずもなく、着々と勢力を伸張していったのは言うまでもない。小部族(ヤスタン)の中には自ら進んで投じるものも数多く、その牧地(ヌントゥグ)は日に日に増大していった。それはまるで染料が衣に染みていくがごとくであったが、この話もここまで。




 さてマシゲル部の内乱(ブルガルドゥアン)はどうなったかといえば、(ゾン)が終わりに差しかかるころに再燃し、また激しく干戈を交えることになった。


 しかし叛いたチャテク家にはすでに分裂の兆しが見えていた。諸氏の間では常に(いさか)いが絶えず、あるときは牧地を争い、あるときは功を競い、またあるときは布陣(バイダル)に異を唱えるといった有様。当初は勢いもあって結束していたが、(ようや)くそれぞれの利害が噴出したのであった。


 かたやジャクー家は獅子(アルスラン)マルナテク・ギィを中心に連帯(ヂャンギ)を深め、これを機に旧弊を打破し、軍を再編して客将のゴロや、コルブ、バラウンジャルガルなどが上将に任命された。ギィは全軍を掌握し、(エチゲ)であるハーンはすでに名ばかりの存在となっていた。まさに俊傑(クルゥド)ギィの本領発揮といったところ。


 兵力はいまだ拮抗していたが、次第にジャクー家が優勢になりつつあった。しかし好事魔多く、とかく(ソオル)は思うままにならぬもの、この内乱がいかなる顛末(ヨス)を辿るかはのちにお話しすることにする。

(注1)【五名の上卿(クシュチ)】いずれも戦死したものの名を挙げたのである。


(注2)【猖獗(しょうけつ)】好ましくないものが蔓延(はびこ)って、勢いが盛んであること。

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