第三 二回 ③
サノウ山上に理を説いて職制改まり
チルゲイ東原に雄と交わり討賊を議す
さてここからは話が幾手にも分かれるので心していただきたい。
ウリャンハタの敗北に先んじて営を引き払ったジュレンの軍勢は、飛ぶように神都に戻った。ヒスワはまず征塞を勧めたサルチンを捕らえようとしたが、すでに邸宅を処分して何処かへと逃げ去ったあとだった。
実はサルチンは塞を攻めるよう進言したあと、商用で街を離れていた。彼は山塞に三万もの兵がいようとは思いも寄らなかったので攻撃を勧めたのであったが、もし街にあってそれを知ったなら、この出師に強硬に反対したはずである。
その証拠に街に戻ってきてそのことを聞くや、あわてて家財を整理して南へ逃げ去ったのであった。すなわちジュレン軍の敗北を予見したということである。
ヒスワはヘカトに行方を尋ねたが、知らぬと言うばかり。諦めて登庁すると元首に見えた。
「おお、知恵者。首尾はどうであったか」
問われたヒスワは、満面に笑みを作ると揖拝して言うには、
「お慶びください。大勝でございます。山塞に拠る亡族の小僧どもはことごとく掃討され、グルデイ以下五名の上卿(注1)に一万騎を与えて山塞に残してまいりました。ワラカン様はこのものどもを特に将軍に列し、クシュチは新たにお選びになるのがよいかと存じます。さらにこの街を守る兵の欠員をすぐに埋めねばなりません。次はいよいよマシゲルを滅ぼすことになりましょう。さてさて今やワラカン様は青史に名を止めるべき名君となられました」
これを聞いてワラカンは大声で笑い、喜んだ。その場でヒスワに恩賞を下し、ほかの諸将にも行きわたらせるよう命じた。そして言うには、
「クシュチのことだが、誰を選べば良いだろう」
「お委せください。大任に相応しいものを推挙しましょう」
「おお、嘱んだぞ」
退庁すると、どっと背中に汗が噴き出す。しかしすぐに気を取り直してクシュチを選定することにした。
それから毎日、ヒスワ邸の門前には賄賂を携えた貴族が列を成すこととなった。ヒスワはそれをことごとく蔵に納め、期日になると賄賂の多かったものから順にクシュチとした。いかなるものが選ばれたかといえば、すべて佞臣奸臣の類、いちいち記すには及ばない。
さらにワラカンには巧みに酒色を勧めた。もともと酒色に溺れていたワラカンは、ヒスワの手にかかるとますますその道にのめり込んでいった。次第に大院に顔を出すことも減り、やがてまったく臣下に姿を見せなくなってしまったが、これこそヒスワの狙いどおり。
かくして神都の政事はすっかりヒスワの私物となってしまった。心あるものはみな他所に逃れ、クルイエには佞臣と無能ばかりが並ぶ有様。
ヒスワの権勢はここに絶頂を迎えつつあったが、内心ではいつ山塞の軍勢が押し寄せるかと兢々としていたのは言うまでもない。
強引に兵を募り、他国のものは割符がなければ街に入ることもできなくなってしまった。また城壁の改修のために商家の子弟を徴発したので、人衆はことごとくこれを恨んだ。
ヒスワは敗戦が露見するのをもっとも恐れていたが、商人が出入りするこの街では完全に隠蔽するのは難しく、やがて巷に噂が流れることになった。
そこで密偵を放ち、敗戦について語るものがあれば片端から捕らえて処刑した。これにはみな口を噤むほかなく噂は鎮静したが、今やそれは公然の秘密であった。知らないものがあるとすれば、ドルチのワラカンただ独りであっただろう。
こうした悪政のおかげで神都は商人の往来も減り、すっかり活気を失ってしまった。ヘカトはこれを憂えて、あれこれと訴えたが聞き容れられなかった。そこでヒスワ宛に書状を認めると、出奔してサルチンのあとを追った。
もちろんヘカトはその行き先を知っていたのである。書状には神都の現状を憂えて、細々と献策が綴られていた。ところがヒスワはそれを読むなり燃やしてしまい、ますます暴虐を極めたが、その話はここまでにする。
ミクケル・カンは、ヒラトらに守られてメンドゥ河を渡り、西原のアイルに戻った。それからはひたすら酒に溺れて政務を顧みなくなった。やむなくヒラトらがそれを請け負ったが、ミクケルはことあるごとに彼らを罵り鞭打ったので、怨嗟の声は野に満ちた。
ウリャンハタ軍はタムヤも撤退と同時に放棄した。そこでタムヤの長老は集まって話し合い、自衛団を組織して英主の登場を待つことになった。エジシは請われて自治に参加することになったが、その学識を鑑みれば当然のことである。
もっとも哀れだったのは、ジョンシ氏のウルゲンである。彼はともにメンドゥを渡ることを望んだがヒラトらの反対に遭い、中原に弱兵千騎を与えられて残されることになった。
ウルゲンは泣いて懇願したが、誰も耳を貸さなかった。もともと猜疑心の強い彼はおおいに荒れ、暴君と化したのでさらに人が離れていった。
一度、クル・ジョルチ部がウリャンハタ部に戦を挑んできたが、カントゥカらのはたらきで退けることができた。ヒラトは諸将と諮ってカントゥカに北の備えを託したので、クル・ジョルチ部も迂闊に攻め込めなくなった。
ミクケルの堕落は日を追って酷くなった。ヒラトは、スク・ベク、シン・セクといった若い諸将と密談を交わすようになったが、この話もここで止める。
ウリャンハタ撤退後、中原には有力な部族が消えたので、南方の小部族が次第に北へ勢力を伸ばした。小は小なりに分裂統合を繰り返し、その間隙を縫って野盗の類も猖獗(注2)を極めた。
かくして草原は、かつて例のないほど混沌の様相を呈し、乱世ここに極まれり、とても商人などが往来できる状態ではなくなった。神都へ向かう商旅が減ったのにはこのような背景もある。
しかし放浪部族ダルシェは、相変わらず自由に駆け巡り、出遭ったものをことごとく殲滅していった。
またヤクマン部のトオレベ・ウルチがこの状況を看過するはずもなく、着々と勢力を伸張していったのは言うまでもない。小部族の中には自ら進んで投じるものも数多く、その牧地は日に日に増大していった。それはまるで染料が衣に染みていくがごとくであったが、この話もここまで。
さてマシゲル部の内乱はどうなったかといえば、夏が終わりに差しかかるころに再燃し、また激しく干戈を交えることになった。
しかし叛いたチャテク家にはすでに分裂の兆しが見えていた。諸氏の間では常に諍いが絶えず、あるときは牧地を争い、あるときは功を競い、またあるときは布陣に異を唱えるといった有様。当初は勢いもあって結束していたが、漸くそれぞれの利害が噴出したのであった。
かたやジャクー家は獅子マルナテク・ギィを中心に連帯を深め、これを機に旧弊を打破し、軍を再編して客将のゴロや、コルブ、バラウンジャルガルなどが上将に任命された。ギィは全軍を掌握し、父であるハーンはすでに名ばかりの存在となっていた。まさに俊傑ギィの本領発揮といったところ。
兵力はいまだ拮抗していたが、次第にジャクー家が優勢になりつつあった。しかし好事魔多く、とかく戦は思うままにならぬもの、この内乱がいかなる顛末を辿るかはのちにお話しすることにする。
(注1)【五名の上卿】いずれも戦死したものの名を挙げたのである。
(注2)【猖獗】好ましくないものが蔓延って、勢いが盛んであること。