第三 〇回 ②
トオリル東塞に妙計を用いて衆を奔らせ
ミクケル西塞に威信を懸けて戦を挑む
ベルダイ軍が俄かに反転したかと思うと、左右からどっと喊声が挙がり、無数の旗が翻る。
「な、何!?」
あっと驚いている間に、左からも右からもタロトの精兵が駆け降りてくる。飛び来たる矢は天空を埋め尽くし、ジュレン軍はどっと浮足立つ。
「それ、敵は計に嵌まったぞ!」
アネクらは再び猛攻を加える。三人の上卿の顔は青ざめ、生きた心地もしない。為す術も知らずただ喚くばかり。タロトとベルダイはともに力を併せて、縦横無尽に敵軍を分断する。
「援軍を、誰か本営に知らせに……」
プラダがそう言いかけたとき、どこからか矢が飛んできて、その額に突き立った。声を挙げる間もなくどっと落馬して息絶える。
将兵はさらに動揺し、ボルゲの制止も聞かず思い思いに逃げはじめる。勝ち戦は転じて、今や軍の体裁も整わない。
「駆けよ! 退け、退け!」
今さらながらにボルゲが退却を命じる。
「逃すか! これでも喰らえ!」
アネクは鉄鞭を収めて弓を取り出すと、きりりと矢をつがえた。ひょうと放てば、狙いは違うことなくボルゲの背に突き刺さる。ぐっと呻くと鞍の上に突っ伏して、見当違いの方角に駆け去った。
一方、ジエンはやっと血路を切り開きつつあった。と、突然自軍の前方がどっと崩れる。
「どうした? 今度は何ごとじゃ!」
「新手です! 退路はすでにアイヅムの二千騎に固められております!」
「何だと……」
ジエンは言葉を失った。見ればたしかに迫り来るのはアイヅムの旗。顧みれば背後はタロト、ベルダイの旗ばかり。
「おお、もはやこれまでじゃ」
ジエンは剣を握り直すと、自ら喉を貫いて果てた。将を失ったジュレン軍は散々に追い散らされる。逃げきれぬ兵の多くは下馬して降った。
アネクらが兵をまとめてみれば、ほとんど兵を失っていなかった。
「大勝だな!」
ナハンコルジが言うと、トオリルが言った。
「敵は大軍、なれば分散して撃破するのは用兵の常道。敵は勝ちに逸って深追いしすぎたのです。さあ、東塞へ向かいましょう。残る敵は一万前後、東塞にある兵と併せれば我らのほうが勝っております」
これを受けてマジカンが言った。
「では参ろう。アネク殿、先陣をお願いしたい」
「お待ちください。私に一計がございます」
とて、トオリルが説いた計とは、
「我らの旗を隠し、ジュレンの旗を押し立てて近づくのです。さらに兵の一人にジュレンの身なりをさせて、こう報告させるのです。『ベルダイはことごとく掃討しました』と。さればヒスワは警戒を怠りましょう。気づいたときには我らはすでに指呼の間に迫っております。容易く撃破できるでしょう」
諸将はおおいに喜び、早速兵の一人にジュレンの鎧を着せて先に遣った。そして自らの旗を隠してジュレンの旗を集めると、堂々の隊伍を組んで、東塞への道を登りはじめた。
さらにトオリルは言った。
「敵を攻める際、退路を断ってはなりません。退路を断てば必死になって反撃してくるでしょう。ここでは敵の陣形を乱して退却に追い込むだけで十分です。ジュレンは不利になれば脆い軍隊、道を空けて退かせれば、追う我らは労なく大勝を博することができるでしょう」
一同は感心してトオリルの献策に順うことにした。
さてヒスワはボルゲらの帰還を待ち侘びていた。そこへ一人の兵が帰ってきたとの報告を受けて、早速引見すれば、
「ベルダイはことごとく掃討しました。まもなく戻られます」
とのこと。ヒスワはこれがトオリルの計とも知らず、おおいに喜んだ。ときを置かずしてジュレンの金鷹紅旗が麓のほうから粛々と現れると、期せずして歓声が挙がった。
続々と登ってくる軍を眺めていたヒスワは、ふと眉を顰めた。
「妙だな、あれはまことにジュレンの兵か?」
そのときである。卒かに銅鑼が打ち鳴らされたかと思うと、ジュレンの旗がさっと棄てられた。そして帰還してきた友軍のはずが、一斉に突撃してくる。先頭に立っているのは何とベルダイの女傑チハル・アネク。
「しまった、謀られた! む、迎え撃て!」
ヒスワが吃驚して叫んだが、すでに山塞勢はジュレン軍に雪崩れこんでいる。今の今まで友軍と思って歓声など挙げていたジュレンの兵は、おおいにあわてて得物を構える間もなく蹴散らされる。
「ぐう、小娘が! ええい、立て直せ、早く、早く!」
声を嗄らして叫ぶが、一旦崩れた態勢はなかなか元に戻らない。さらに背後で喊声が挙がったと思うと、セイネンが城門を開いて撃って出てきた。
ジュレン軍は完全に浮足立ち、山塞軍はさらに勢いに乗って揉みたてる。散々に陣を乱され、糸を抜かれた衣のような有様。
「やむをえん、退け、退け!」
退却の銅鑼を鳴らさせれば、無我夢中で麓へ続く道に殺到する。もはや軍としての体裁もなく、ただ逃げ惑うばかり。あわてて落馬して味方に踏み殺されるものまである。
「よし、追え!」
アネクの命令一下、整然と追撃を始める。ジュレン軍には殿軍も何もなかったから、追いつかれる端から次々に討たれていった。
逃げ続けること二十余里、ついに麓まで至り、そこで漸くひと息吐くことができた。軍の大半を失う大敗であった。ヒスワは青ざめた顔で山から離れるよう命じると、肩を落として馬を進める。
八人いたクシュチのうち、先にボルゲ、プラダ、ジエンを失い、今またグルデイ、ビリクが討死していた。結局さらに二十里後退して営を構えた。