第二 九回 ①
サイドゥ西塞に気を治めて奸人を退け
サノウ小塞に書を以て大人を欺く
喪神鬼イシャンは、勇んで門内に駆け込んだ途端に陥穽に落ちてしまったが、これこそサノウがナオルに授けた秘策であった。ウリャンハタの七千騎は何が起こったかも判らずに次々と罠に嵌まる。
突如銅鑼が鳴りわたったかと思えば、四方に伏せていたジョンシ、タロトの兵が一度に現れ、混乱する敵軍に雨のごとく矢を射かける。七千騎はいよいよ右往左往するばかり、ばたばたと討ちとられていく。
イシャンが漸く這い出てみればこの有様、為す術もなく呆然とする。
「喪神鬼がそこにいるぞ!」
ナオルの声に応じて一斉にこれを狙い撃てば、
「あっ!」
避ける暇もなく無数の矢が突き立つ。イシャンは目をかっと見開くと、
「豎子に名を成さしめたか……」
そう言って立ったまま絶命した。喪神鬼を討ちとったことで山塞側はおおいに勢いづき、士気は上天を衝かんばかりとなった。逆にウリャンハタ軍の混乱には拍車がかかる。
「それ、この機を逃すな!」
ナオルの合図でみな得物を手にどっと押し出す。主将を失ったウリャンハタ軍は逃げ惑い、壊滅した。
ウルゲンは後方にあったため辛くも難を逃れていたが、前軍が罠に嵌まったことを知るや、これを救うなど思いも寄らす、ほうほうの体で逃げ去った。
ナオルとマタージは軍を収めると一の門を焼き払って、二の門へ退いた。奪った首級は三千を超え、捕虜もまた三千を数える大勝利。
本塞はこの報におおいに沸いた。インジャは二人を労うと、サノウの知謀を讃えた。捕虜は北塞へ送ってズラベレンの三将に預けることにした。サノウは莞爾ともせずに、
「次はミクケル・カン自ら山を登ってくるでしょう」
そこでナオル、マタージと、二の門の守将ドクト、テムルチを呼ぶと、耳許で策を授けた。四将は喜んで退出する。それを見送りつつ、インジャは感慨深げに言うには、
「あの喪神鬼には相当痛い目に遭ったというのに、こうもあっさりと葬ることができるとは、いまだに信じられません。これも軍師のおかげです」
サノウは眉を顰めて、
「いえ、すべてはインジャ様の積徳の賜物です。そもそもインジャ様が義を重んじ仁に厚い英主でなければ、山塞の地の利を得ることができたでしょうか。これほど天下の好漢が集まってきたでしょうか。そしてそのふたつを欠いて、あの喪神鬼を破ることができたでしょうか。私はインジャ様の徳の余慶に与かったに過ぎません。過分な褒辞は無用にございます」
そして居住まいを正すと、戒めて言うには、
「しかもまだ戦は始まったばかり。緒戦に喪神鬼を討ったとはいえ、敵はまだまだ優勢、浮かれているときではありません。イシャン一人が敵の名将というわけではないのですから」
インジャははっとすると、
「軍師の言葉がなければ、大事を誤るところでした」
「そろそろほかの塞でも戦闘が始まっているはず」
その言葉どおり、東塞、西塞、小塞はすでに攻撃を受けていた。
東塞のマジカンは八千の兵をもってジュレン軍一万を、西塞のトシ・チノは三千の兵をもってやはりジュレン軍一万を、小塞のマルケは千騎をもってベルダイ右派とアイヅム氏の連合軍五千をそれぞれ迎え撃っていた。
各塞ともサノウの忠告を遵って塞に籠もり、険阻な地形を活かして乗じる隙を与えなかった。
さて、西塞のトシ・チノはサイドゥに諮って、
「敵は一万、我らは三千。劣勢は覆うべくもない。策はあるか」
「一万といっても太平に慣れた弱兵、しかも良将なく、大将のヒスワも所詮は机上の謀略家、恐れるに足りません。我らは三千あるのみですが、草原の屈強の猛者ばかり。しかもオロンテンゲルの険に拠り、士気も高く、背にインジャ様の援護があります。地を利してこれを守り、機を看て虚を衝けば、策を弄さずとも勝利はこちらのものです」
トシはおおいに喜んで督戦に当たった。敵は数に任せてひた押しに押してくる。サイドゥがさらに言った。
「ご覧なさい。狭い道に一万もの人馬を入れたために、その多くは用を成していません。一見すると大兵力で塞を圧倒する勢いですが、その実まともに攻撃に参加しているのは最前列の一隊のみ、その数は数百に過ぎません。適当にあしらって敵人が疲れるのを待ち、機を捉えて撃って出れば、大勝は間違いありません」
その言葉に頷くと、アネク、カトラ、タミチを呼んで、
「お前らは精鋭千騎を率いて待機し、合図とともに門を開いて撃って出よ。過日の恨みを晴らすのはそのときだ」
三将は拱手して承知する。トシ自身はサイドゥ、ナハンコルジとともに防戦を指揮した。サイドゥの看破したとおり、ジュレン軍は数は多くても、大半は気勢を上げるばかりで戦闘に参加できずにいる。
防御には矢と投石に加えて糞尿、熱湯などが用意され、門を破らんとする敵に浴びせかけられる。みるみるうちに屍の山が築かれる。
朝に始まった戦は、昼になっても同じ調子で続いた。相変わらずジュレン軍は数を恃んでの力攻め、ベルダイ側は手を尽くしてこれを守る。ナハンコルジは業を煮やしてサイドゥに詰め寄った。
「いつまで待てばよいのか。敵は蟻のごとく押し寄せ、一向に減らぬではないか」
「ふふふ、そろそろかな。見よ、後方の敵はすでに戦に倦みはじめているぞ。また前軍は足が鈍りはじめ、士気が目に見えて落ちている。お前は気づかぬか」
言われて敵軍を睨みつけたが、首を捻って、
「俺には同じように意気盛んに見えるが」
「それは見ているようで実は観ておらんからだ。族長、好機となりました。敵には策もなく、戦に倦んでおります。対してこちらは、いっぱいに張った弓のごとく、放てばどこまでも飛んでいきますぞ。さあ、突撃の命を」
トシは大きく頷いて、合図の旗を振らせた。