第 三 回 ③
インジャ一たび草原に永えの盟友に遭い
ムウチ二たび天王に芳しき御酒を賜う
インジャを送り出してから、ムウチは気が晴れる日とてなく、鬱々として暮らしていた。氏族のためと自らに言い聞かせはするが、母の心境がいかようなものであったか察するに余りある。
そんなある日のこと。ついうとうとしていると何ものかに肩を叩かれて、はっと目が覚めた。顧みれば見覚えのある礼装の女性。おや、この人は誰だったかと記憶を辿ってみればいつぞやの天王の使い。
「天王様が、あちらに酒宴の用意をして待っておられます」
そう言うので、あとについて表に出ると、そこは見たこともない花が咲き乱れる美しい庭。言うべき言葉も知らないでいると、女は先に立って手招きする。
彼方に白い幕で囲われたところがあって、女はその中に消えていった。続いて足を踏み入れると、すでに卓上には豪勢な料理が並んでおり、上座には天王が座している。
あわててムウチが平伏すると、左右に侍る女官が助け起こして天王の対面に座らせた。
「ムウチ殿、お久しぶりです。お変わりありませんか?」
「はい、天王様の加護を賜り、インジャともども息災にしております」
「それは何よりです。では、心ゆくまで楽しんでいってください」
女官が杯に馬乳酒を注ぎ、料理を勧める。馬乳酒は得も言われぬ芳香を放ち、料理もかつて口にしたことがないほどの美味。また別の女官が胡弓を弾いて興を添える。
「ムウチ殿」
勧められるままに幾杯か飲み干したころ、天王が言った。
「聞けばインジャ殿は草原で暮らしているとか。幼子と離れて、さぞかし心を痛めていることでしょう」
ムウチはそっと杯を置くと、溜息混じりに答えて言うには、
「天王様には包み隠さず申し上げます。インジャはまだ六歳、心が痛まないと言えば嘘になります」
「そうでしょう。しかし今は辛抱しなければなりません。決して一時の衝動に駆られてはいけませんよ。十年、辛抱なさい。きっとインジャ殿が自ら迎えに来るでしょう」
「十年!」
ムウチは気が遠くなりそうになったが、ほかならぬ天王様の言葉、しかと胸に刻み込んだ。そのころにはインジャは十六歳になる。きっと族長の子たるに恥じない壮士になっているだろう。
あとは取るに足らない雑談の類、いちいち記すまでもない。
ムウチは杯を重ねていくうちに、いつしか寝入ってしまった。
「はっ、失礼いたしました!」
とて、がばと跳ね起きるともとの一室。思わず大声を挙げたらしく、エジシが様子を見にやってきた。かくかくしかじかと夢の内容を話せば、エジシもまた首を捻った。やがて思いついて言うには、
「ご夫人が日々嘆き憂えているのをご覧になって、夢にお姿を現されたのでしょう。天王様が十年待てとおっしゃったからには、そのとき必ず迎えがあるはず。それまでは辛抱なさることです」
「そのとおりですね。天王様にまでお気を遣わせるとは、まったく不明の至り。謹んで待つことにいたします」
爾後、ムウチはあれこれ思い煩うことをやめたが、この話はこれまでとする。
インジャが八歳になったある日のことである。ナオルと二人で並んで釣りを楽しんでいるところに何と豺狼が現れた。豺狼は家畜を襲う猛獣である。人が多いアイル(注1)に近づくことはほとんどないが、たまたま迷い込んできたのだろう。
先に気づいたナオルは瞬時に血の気を失って、インジャの袖を把んだ。
「い、インジャ……」
しかしインジャは眉ひとつ動かさず、泰然として言うには、
「しっ! じっとしていたほうがいい」
「えっ、でも……」
「静かに!」
小声で言うと、それまでと同じように釣り糸を垂れる。それを見てナオルも心を決め、なるべく豺狼を見ないようにして息をひそめた。それでも手は細かく震え、額には脂汗が浮き出る。その手をインジャがそっと握る。すると不思議と安堵を覚えた。
しばらく経って、インジャが囁いて言うには、
「いなくなったよ」
ふうと大きく息を吐くナオルに、
「行こう、アイルに豺狼が出たことを知らせなきゃ」
馬を繋いであったところに戻ったが、そこには一頭の馬の死骸が横たわっているばかり。もう一頭はどこにも見えない。ナオルは目を瞠って、
「さっきの豺狼の仕業に違いないよ」
「しかたない、走ろう」
二人は駈け戻って豺狼のことを伝えた。早速大人たちは得物を携えて狩りに出る。首尾よくこれを討ち果たして帰ってくると、みな二人をおおいに褒めたが、ナオルにしてみれば己はインジャに護られて震えていたばかり、何とも情けない。
そうして鬱ぎ込むことが多くなったので、心配したシャジが事の次第を聞き出して、ハクヒに話した。驚いたハクヒが機会を捉えてインジャに尋ねてみたところ、
「真に勇気があるのはナオルだよ。僕はじっとしていれば襲われないことを人から聞いて知っていたから平気だったんだ。ナオルはそんなことは知らないのに堪えることができたんだからすごいよ。僕だったら何と言われてもじっとなんてしていられなかったさ」
ハクヒはこれを聞いておおいに感心した。インジャの言うとおりナオルの胆力もさることながら、いくら知っていたとはいえインジャも尋常ではない。
ともかくこれをシャジに伝えると、ナオル本人に届いたかどうかはさておき、二人はこれまで以上に親しくなったが、この話はここまでにする。
(注1)【アイル】集落、部落の意。幾つかのゲルが集まってアイルを形成する。