第二 六回 ①
インジャ山塞に入りて新たに好漢を加え
チルゲイ神都に遊んで初めて義君に見ゆ
カオロン河を渡った二万騎は、かつて草原に覇を唱えたジュレン帝国の旗を掲げていた。いかなるものかといえば、真紅の地に黄金の鷹。
中軍には将軍を拝命したグルデイのほか、ヒスワ、サルチン、ヘカトの姿もあった。実質総大将はヒスワであると云ってよい。グルデイは大院で決められた将軍とはいえ、飾りものに過ぎないことは一兵卒に至るまで知らぬものはなかった。
そのころサルカキタンはすでにトシ・チノへの攻撃を開始していた。その数、五千騎。動員できる総兵力である。対するトシ・チノも全軍六千騎を余さず繰り出してこれを迎え撃った。
未明に発した右派軍は、左派の虚を衝いたおかげで有利に戦を進めているようである。先に遣った二人の上卿から次々に報告が来る。ヒスワはそれを聞いてほくそ笑んだ。
「トシ・チノめ、まさか大人にジュレンの助力があろうとは想像もつくまい。きっと無謀にも見える急襲に泡を喰っていることだろう」
ヒスワは渡河を終えた軍勢を三軍に分けると、一斉に銅鑼を鳴らして兵を進めた。草原を幾万もの軍馬が駆けていき、大地を揺るがしたが、その話はここまでにする。
インジャのもとにも右派軍出兵の報が届いた。これは飛生鼠が間断なく放っている間諜からの報せである。諸将はすわ追撃かと色めき立ったが、インジャはあわてずに言った。
「聞けばさらに東を指して駆け去ったという。おそらく彼奴らの狙いはトシ殿だろう」
マタージが声を挙げた。
「お待ちください。右派はどう多く見積もっても五千騎を大きくは超えないはず。対する左派は全軍を糾合すれば、少なくとも六千騎。なぜ不利な戦を挑むのです」
セイネンが呟いた。
「奇襲の利によって兵力差は埋まると考えたのか……。それとも我らの知らぬ秘策があるのか……」
またナオルが言った。
「先のアネク殿のように、遠くに離れている部隊があるのかもしれない」
するとジュゾウは、
「だいたいあの野人が何を考えているかなんて解るもんですか。それを推し量ろうってのが誤りですぜ」
諸将はそれぞれ黙考したが、ナオルが口を開いて、
「いずれにせよ、我らはトシ殿を恃むことができなくなった。この二万の兵をもって駆けつければ右派など軽く蹴散らせようが、それではタロトの人衆を護るものがいなくなってしまう。まずは速やかに山塞に入り、それから情勢を探るのが最善かと思いますが」
最後のひと言はインジャに向かって発せられたもの。これを受けて頷いて、
「おそらくはサルカキタンの軽挙、ならば案ずることはない。きっとトシ殿自ら退けるだろう。ナオルの言うとおり山塞へ向かおう」
そう言うところへタンヤンが戻ったとの知らせ。すぐに招き入れると、傍らに見知らぬ好漢を伴っている。見るからに尋常のものではない。ともかくこれを労って、山塞の様子を尋ねれば、
「ムウチ様はもちろん、みなことごとく山塞に入ってインジャ様の到着を待っております」
それを聞いて喜ばぬものはない。ひとしきり無事を祝うと、漸くセイネンが尋ねて言った。
「ところでタンヤン、君の隣にいるのは誰か」
「おお、うっかりしておりました。このものは……」
紹介しようとするのを遮って、自ら拱手して言うには、
「ベルダイ氏ホイルブン家のトオリルと申します。つい先日までサルカキタンに仕えておりました」
これにはみなおおいに驚いた。セイネンなどはたちまち疑いの眼差しでこれを眺め回す。インジャは、トオリルが非凡な容貌を有しているのに感心していたので、ざわめく諸将を制すると礼を返して言った。
「フドウ氏族長のインジャです。どうしてこちらへ参られたのですか」
「はい。サルカキタンに諫言したところ、怒りに触れて棒打ちの刑を受け、放逐されてしまったのです。まず左派のトシ・チノに身を寄せようとしましたが疑われて用いられず、途方に暮れて彷徨しておりましたところ、運好くここにいるタンヤンに遇い、誘われて参った次第です。どうかお見捨てなきようお願いします」
傍らからタンヤンが口添えして、
「トオリル殿は恐るべき情報を携えております。まずはそれをお聞きください」
疑いが晴れたわけではなかったが、その言葉にみな興味を惹かれる。インジャが尋ねた。
「何ですか、それは」
「はい。インジャ様は、神都が草原を制するべく大望を抱いているのをご存知ですか」
「神都が? いえ、初めて聞きました。セイネンはどうか」
問われたセイネンも目を円くして首を振る。ナオルはじめ諸将も一様に驚いた顔で続きを促す。それを受けて再び口を開いて、
「神都はかつてジュレン部といい、草原に大帝国を築いた部族です。街に籠もってからは通商にのみ心を砕いて、兵事に訴えることはありませんでした」
それは周知の事実。続けて言うには、
「しかしヒスワという男がクシュチになるや、卒かに軍備を増強し、四方に密使を送って盟を約し、虎視眈々と覇権を窺っております。まずはベルダイ右派のサルカキタン・ベク、次いでウリャンハタ部のミクケル・カンがこれに応じ、今やヤクマン部すら動かそうとしています」
さらに続けて、
「先にインジャ様はウリャンハタに敗れましたが、それこそまさにヒスワの計略の一環。サルカキタンが左派を攻めているのも、すでに神都との間に密約があってのこと。遠からず神都から友軍二万騎が合流して左派を破るでしょう。私は先にトシ・チノに警戒するよう促したのですが、笑ってばかりで取り合ってくれず、それで失望して去ったのです」
一同はさらに驚いた。セイネンやナオルですら口も利けない有様。インジャもあまりに話が大きく困惑を隠せない。漸く言うには、
「その話、真ですか? とても信じられない遠大な企図、すぐには理解できません。確かにウリャンハタとは戦いましたが、それがまさか神都の一謀臣の頭のうちから出たものとは、想像もつかなかったことです」
「そうでしょう。しかしこれはすべて紛れもない事実。トシ・チノが敗れれば信じていただけるでしょうか」