危機
あの人はとても醜いけれど、瞳は光を放つ宝石のようにとても美しい。
あの人の言葉は奥深く、心は神や天使のように清らかで美しい。
そして、そのことを知っているのは自分だけだ。
そのとき、どうしたわけかジャンティーの耳に野獣の声が聞こえてきた。
苦しみもがく野獣の声だ。
さらには、地面に突っ伏して倒れる野獣の姿が目に浮かんできた。
それはまるで、すぐ目の前にいるような気がするほどに鮮明だった。
──ぼくにはわかる。あの人の声が聞こえるし、あの人の姿が見える。なんとしてでも帰らなきゃ…!!
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野獣に家に帰ることを許されてから、ちょうど1週間が経過した。
その日の夕食の席は重苦しい空気が漂っていた。
それまでの華やいだ幸福な雰囲気がガラリと変わってしまって、誰もが何か言いたいのを堪えていた。
「……ジャンティー、もう行ってしまうのか」
夕食を終えると、シャルルがぽつりと漏らした。
「……もちろん行くよ」
「そんな…」
「お兄さま!」
ジャンティーの返答に、アヴァールとリュゼも口を開く。
「お父さま、アヴァール、リュゼ。ぼくは帰るよ。野獣はいまは優しいけど、今後どうなるかまではわからない。ぼくたちの運命は野獣の気持ちひとつで変わってしまうんだ。もしここで帰らずに野獣の機嫌を損ねてしまったら、みんなが危ない」
「それは…」
シャルルは口をもごもごさせて何か言いたそうにしていたが、言葉は出てこなかった。
ジャンティーの言うことは正しいとわかっていても、それを認めたくはないのだろう。
アヴァールとリュゼはとうとう黙ってしまった。
「大丈夫だよ。お城でいい子で過ごしていれば野獣は優しいからね。また帰してくれる日が来ると思う。だから、ぼくはお城に戻るよ。みんなの安全のために。ぼく自身のために」
家族にはそう説明して、ジャンティーは夕食を切り上げた。
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夜になり、ジャンティーはベッドに入った。
そして、野獣が説明したとおりに、枕元にもらった指輪を置いた。
一瞬にして、ジャンティーは古城の中に戻っていた。
この時間帯なら、もうじき野獣が部屋を訪れるはずだ。
遅くはなったけれど、約束はたしかに守った。
だから、許してくれるだろう。
断腸の思いで家族を残してこちらに帰ってきた自分を、迎え入れてくれるはず。
そう考えて待ってはみたが、いつもの時間になっても野獣は一向にやって来なかった。
──どうしたんだろう?どうして来ないのかな?
ジャンティーの胸が、不安で埋め尽くされていく。
──ひょっとして、ぼくに怒っているのかな?
それとも自分がいない間に、彼の身に何か起きたのだろうか。
そのとき、遠くから野獣の苦しそうなうめき声が聞こえてきた。
先ほど家にいるときに聞いた、あの声だ。
最初に聞いたときは幻聴かもしれないと思っていたのだけど、やはり野獣はどこかでもがき苦しんでいるのだ。
彼は間違いなくどこかにいる。
どこかで独りで苦しんでいる。
──でも、いったいどこにいるの?
ジャンティーははやる気持ちで、ガウンを羽織って城の庭にさまよい出た。
なぜかわからないが、それまでかけられていた一切の魔法が、ぴたりと止まってしまっていた。
誰もジャンティーの後を追うことがなかったし、ジャンティーのためにドアを開ける者も出てこない。
何か異常なことが、野獣の身に起きたに違いない。
ジャンティーはところどころに設置された庭灯をたよりに、広い庭の中を走り抜けた。
生い茂った木々の周辺を曲がりくねった道が延々と続き、ときおり曲がり角にそびえ立つ彫像がジャンティーを驚かせる。
ベールをかぶる美しい女性、背から羽が生えた天使、鋭い牙を持つ怪物……
さらにジャンティーは、夜の闇の中で激しく水を吹き上げている噴水のある広場に出くわした。
どれだけのあいだ庭の中を走っていたのか、ジャンティーにももうわからない。
そんな中でふと、ジャンティーの耳にサラサラと水の流れる音が入り込んできた。
よく耳をすまして、それをたよりに進んでいくと、冷たい石壁に囲まれた洞窟を発見した。
燭台を手に足を運んでいけば、澄んだ水の流れる小川がある。
野獣はそこにいた。
川のほとりで、野獣が倒れている。
「ウォルター様!いったい何があったのです⁈」
ジャンティーは無我夢中でもがき苦しむ野獣に飛びついていった。
「うん…ジャンティー?ああ…ジャンティー、帰ってきてくれたんだな……」
息も絶え絶えの野獣はジャンティーの腕に抱き起こされながら、嬉しそうに微笑んだ。
「しっかりしてください、ウォルター様。いったい何があったのですか?何があなたをこんなふうにしてしまったんです⁈ 」
「ジャンティー、お前が帰ってくるのは遅すぎた…もう少し早ければ……」
野獣が絞り出すような声で、うわごとのように話す。
「ああ、どうか許してください、ウォルター様。お願いですから、元気を出して!立ち上がってください!」
この有り様では、そんなことはできないとわかっている。
けれど、ジャンティーは叫ばずにはいられなかった。
「ジャンティー、わたしはもう…ダメだ。もし、わたしが人間だったなら、もう一度立ち上がる気にもなれたし……そこから、きみのために生きようという気力も湧いたと思う。けれど…わたしは野獣だ。こうして哀れに私を待つしかない……」
「そんな……そんな心弱いことを言わないでください。お願いですから……そんなの、強く優しいあなたらしくもない!」
ジャンティーは野獣の首に回した腕に力を込めてより強く抱きしめると、ポロポロと涙をこぼした。
「ウォルター様、あなたを愛しています!今さらになって、それがようやくわかったのです。ぼくは、あなた無しではもう生きていけない。だから、どうか起きてください!あなたの妻にでも奴隷にでもなりますから!ぼくのために生きてください!!」
そのとき、ジャンティーの目の前で信じられないことが起きた。
突然、醜い野獣の姿が消え去ったのだ。
そして、ジャンティーの腕の中には、見たことがないほどに美しい青年の姿があった。