いい男
(2)
女は慣れた手つきで煙草を咥えると、冷たい壁にもたれ掛かった。
ひと仕事終えたら一服、いつの頃からか生まれたルーティンだ。
「すっかり慣れちまって。」
小さく鼻を鳴らし、女はカチッとライターを押し込むと煙草に火を灯した。
今年で27、この業界ではもはや引退の年齢だ。
ため息交じりの煙を吐き出し、女は道行く人々を眺めた。
『彼らには帰るべき場所がある、自分とは違うのだ。』
何度とはなしに呟いた言葉を、今日もまた強情なあたしに言い聞かせる。
そして、強情なあたしはこう返すのだ。
『そんなこと、言われなくたって分かってる。』
先の短くなった煙草を壁に押し付け、続けざまにもう1本。
若い女なんて、いくらでも湧いてくる。
あたしも…そろそろ真剣に考えないと。
その時、女はじっと見つめる男の存在に気が付いた。
今日はついてる日らしい。
まだ吸いさしの煙草を吐き捨て、女はゆったりと歩み寄る。
男は目を逸らすことなく女を待ち、するりとその腰に腕を回した。
こういう時、無駄に話しかけてくる男が嫌いだ。
この後やる事なんて決まっているのに情緒を求めてくる。
あたしは、それ用の女として接してくれるだけで十分なのに。
そんな女の気持ちが伝わったのか、男は無言で歩き出した。
どうやら、いい男に当たったらしい。
女は男に身を任せながら、何処に向かうのか考えを巡らす。
身なりからして金は持っていそうだから、久しぶりにベッドで眠れるかもしれない。
弾む心をそっと撫でつけ、女は更に密着した。
予想に反し、男がエスコートした先は雑居ビルだった。
少々拍子抜けしたが、屋根付きで寒さをしのげる場所ならどこでもいい。
女はすぐさま気を取り直し、先を行く男を追った。
カンカンカンカン
甲高いヒール音が薄暗い階段に反響し、徐々に女の息も上がっていく。
男は顔色ひとつ変えることなく3階まで上がると、肩で息をする女を見下ろした。
あたし…何やってんだろう。
噴き出した汗が頬を伝い、音もなく着地する様を見つめふと思った。
こんな寿命の短い商売、なに必死にしがみ付いてんだよ。
酸欠にあえぐ脳内は、されど女に強いるのだ。
“何って、今日の食い扶持を稼いでるに決まってんだろ。”
その瞬間、女の口元には笑みが広がった。
俯いていた顔をゆっくりと上げ、女は妖艶に微笑む。
あたしはいつだってそうしてきただろう。
男は不意に動き出すと、階段わきの部屋へと消えた。
女は手早く身だしなみを整え後に続いたが、部屋は真っ暗なままだ。
思わず電灯のスイッチを探して壁に手を這わせたが見つからない。
「お兄さん、ねぇどこなの?」
しんと静まり返った室内は、まるで最初から男など居なかったかのように錯覚させる。
「ねぇ…いじわるしないで。どこなの…?」
女は忍び寄る恐怖心に目をつぶり、震える足を前に出した。
その瞬間、背中に何か冷たいものが当たった。
「え、」
あたしが覚えているのはここまで。
きっとこの瞬間、あたしは死んだんだと思う。