『天使と悪魔』
前回のあらすじ
夢路
①
天使第10躯、小廻めぐるは孤児である。
嫌いなものは悪。
好きなものは正義。
孤児院での彼女は、一人で大概のことはこなせる要領の良さと、生来の真面目さを持った子供で、誰よりも自分に厳しかった。
自然、誰に言われるでもなく。
彼女は天使に憧れた。
普段は理性的かつ計画的な彼女が、夜中の孤児院を抜け出し、善の神の御前にドロだらけの姿で祈ったのは、まだ齢九つの時だった。
彼女は天使となった。
正しさを絶対的な指標とした彼女の姿勢は、実に模範的であったが、年齢の問題、歯に衣着せぬ言動もあり、しばしば周りと対立した。
その中には戒位第三躯、正端清の姿もあった。
一部の天使に執行権利を完全に委任してしまうのは危険ではないかと小廻が意見した為である。
この後。
紆余曲折あって小廻めぐるは正端清に陶酔。
善の神の教会中で彼女に付き纏い、ことあるごとに握手をして貰っている彼女の姿が目撃されている。
そんな彼女は、正端清を目指して大天使の戒位まで辿り着く事となる。
彼女は日に三回。
善の神に感謝を捧げる。
心の中で決まって想う。
生きる意味をありがとう。
正しき指標をありがとう。
今日をありがとう。
ここまで祈って。
小廻はいつも迷う。
もうひとつ毎日でも感謝をしたいことがあるのだが、それを神に言うのはなにか違うような気がするのだ。
言いたい人は別にいるのだ。
故に。
よし。
と心に喝を入れて。
今日も彼女は世界を駆ける。
神に見下ろされる世界を。
まばゆく見つめながら。
②
これは蛇足なのだが。
前述した彼女の好きなものと嫌いなもの。
これは背伸びした彼女の建前である。
本音は。
好きなものは顔も知らない家族。
嫌いなものは孤独である。
③
ゴぢゃ
それは尾方巻彦が良く耳にする音。
体の一部が削ぎ落ちる音。
再び合間見える筈だった。
大天使のその五体は。
見たまんまに。
半分となっていた。
尾方の視界の端に淡い光が掠った時。
尾方の瞳は真っ赤に染まり。
吸った息が肺の中で燃え上がるように熱くなった。
「―――――ッッッッ!」
声にならない振動は肺の空気を蒸気のように吐き出す。
反射で握った白い羽が、同じ淡い光を放ったが、尾方にはどうでも良かった。
パァンッッッ!!!!!
命を引き換えに選んだ一歩は、容易に光の人形を捉える。
よろけた人形の首を掴んだ尾方は無造作にコレを持ち上げる。
閉輪。
噛み締める様に正装を発動した尾方。
淡い光の人形は瞬時に消滅する。
合わない焦点で顔を上げる尾方の目の前には新たに人形が三躯。
何故こうなったのか。
誰の差し金なのか。
そんな事はどうでも良かった。
戦慄く口で言葉を噛み潰した尾方は。
それでも溢れ出た言葉を口にする。
「死ね」
一瞬、尾方の影が揺らいだ。
瞬間、三体の人形は消滅した。
遅れたように斬空の破裂音と衝撃波が広がる。
血だらけの尾方が人形の残滓の中央に出現する。
「――――ッはぁ、はぁ」
怒りで押し退けられていた感情が尾方に追いついてくる。
それは焦燥感。
それは虚無感。
それは罪悪感。
それは、現実。
「はぁッはぁッはぁッ―――」
半身を失った彼女に目の焦点が合う。
反射的に尾方は一歩踏み出す。
「...お...がた...さ?」
目はもう見えていないのだろう。
耳もどうやら聴こえてない。
天使の身体能力でなんとか命を繋いでいるが。
それはもう消えるのを待つだけの灯火。
「はぁッはぁッ! ッッ! はぁッ!」
息が熱い。
視界が霞む。
だが。
意識は尾方を手放してはくれない。
「こ、小廻ちゃん。 大丈夫。大丈夫だから...俺の知り合いに、奇跡みたいな医者がいるんだ。きっと助かる。助けるから!」
まるで自分に語りかけるように震えた声で語りかける尾方は、携帯を取り落とす。
「......じ、ぶんは、もう、駄目...で...す」
尾方の言葉とは裏腹な小廻の言葉に、尾方は携帯を拾うのも忘れて少女を見つめる。
「大丈夫! 大丈夫なんだ! 死ぬなんてなんのこともない! 俺が代わりに死んであげるからさ!」
ここまで口に出して。
硬直した尾方は。
腕を抱いて丸まってしまう。
「...そんな訳ないだろ...死は絶対だ...俺だって...」
そこまで言って、小廻を縋るように見つめる。
「...なんで俺じゃないんだよ」
尾方の搾り出すようなか細い声は、誰の耳に入る事もなく空気を揺らす。
「...こ...わく...ないです...わた...しは...だい...てん...し...ですから...」
縋るように小廻の声を聴く尾方は、焦点の合わない瞳を伏せる。
「...ただ.........手...を...にぎ...て...」
言われて尾方は慌てて手を伸ばすが、直前でバッと手を引く。
致命傷を負って今だ息があるのは天使の身体能力のおかげだ。
つまり、閉輪状態の尾方が触れると。
そのまま絶命する。
尾方の正装はあくまで残滓である。
コントロールは効かない。
条件がある。
閉輪は一日一回。
一度使うと五分持続する。
解除は、自由に出来ない。
解除まで残り三分。
「ごめん小廻ちゃん!! 握れない!! 出来ない!!」
必死に弁解する尾方だが、その声は既に小廻には届かない。
「...お...がた...さん? いな...い...ん...です...か?」
「居る!! 居るよ小廻ちゃん!! 大丈夫!! 大丈夫だから!!」
ひたすらに自分に言い聞かせる。
行き場の無い尾方の手は空を無造作に切る。
「...て...んし...と...あ...くま...です...もん...ね...こ...れで...い...いん...ですよ...」
「いいわけないだろ!! なにが天使と悪魔だ!!! 君と俺だろ!!!」
届かない言葉に熱を帯びた喉は震える。
選べない。
尾方巻彦には選べない。
小廻の願いを聴いて引導を渡すか。
願いを無視し命を天に委ねるか。
少なくとも。
尾方巻彦は。
前者だけは選べない。
「...ぁ...ぁ」
息が出来ない。
吸う息より吐く息の量が異常に多いのだ。
血が滲むほどに拳を握り込めた尾方は、救いを求めるように携帯を拾い上げる。
開いていた画面は、通話履歴だった。
自然、一つの名前が尾方の目に止まった。
悪道姫子。
少しづつ。
少しづつ。
尾方の目の焦点が合う。
「...夢」
尾方は小廻の瞳をジッと見つめる。
それは、霞みがかった虚ろな瞳であった。
「............ぁ」
それは微かな吐息。
しかし尾方はその空気の揺らぎを聴き逃さない。
「......さ...み...しい...よ...き...よ...せん...ぱい...」
反射だった。
しかし確固たる意志があった。
尾方は、力強く小廻の手を取って握り締めた。
言葉は出なかった。
かける言葉なんてなかった。
でも。
「...ぁ」
小廻の瞳に光が戻り。
小さく、だがハッキリと言葉を放った。
「一緒に居てくれて、ありがとう」
「―――――――」
微かに握り返された手の熱が引いていく。
全身から力が抜け落ち、事実以上の重みを尾方に与える。
「――――ッッッ!!!」
尾方は小廻の傍に落ちていた正装を握り締め、神の方角を睨みつける。
ここから先は一瞬だった。
スタジアムの外から中までの壁を粉砕した尾方がスタジアムに現れ。
瞬く間に神の目に迫り。
周囲にいた人形十数躯を文字通り蹴散らした。
そして。
神に触れた。
スタジアムを吹き飛ばす筈だった衝撃を。
神に叩きつけながら。
尾方はなにやら叫んでいたが、音の濁流に呑まれ、誰も聞き取る事は出来なかった。