◆外伝:ヴィヒトリの過去◆
過去の彼には結婚を誓いあった女性がいた。
名前はメアリ。
公爵家の一人娘で、燃えるような赤い髪と星のような金色の瞳が印象的な少女だった。
幼いころから権力闘争の道具として扱われてきた彼女は、彼女の両親が望む通り、王位継承権第二位にあった彼と婚約することになる。
地位からすれば、随分と純朴な少女であった。
花を好み、宝飾品やドレスにも、男にもあまり興味はないようで。
政略的な婚約ではあったものの、メアリは彼を愛そうとつとめてくれた。
彼もまた、周囲にいなかった純朴な少女に興味があった。
兄や弟はつまらない女だと言ったが、彼にとっては不思議で、惹かれるものがあった。
次第に二人は心から愛し合うようになった。
けれどそれをよく思わない者があまりにも多かった。
それは最初から分かっていたことであるし、メアリを危険から守るために最善を尽くしてはいた。
その頃、貴族も名もなき市民も恐れさせた暗殺者が居た。
頼まれれば誰でも殺すという。
人間とは思えないほどに素早く、容姿は大男だとか、子供だとか、はっきりとしない噂が流れていた。
嫌な予感は、していた。
そしてそれは当たってしまったのだ。
彼がその日、夜になってメアリの部屋を訪れたのは偶然だった。
会いたかった、彼女の声を聞きたかった、そうして彼女の部屋へ向かう途中、衛兵と思しき悲鳴が聞こえた。
眩暈がして、鼓動が早鐘のように鳴る。
走った、そしてメアリの部屋の扉を開けると、むせかえるような血の匂いがした。
「――あーあ」
月明りに照らされたその人物は、血まみれのメアリを組み敷いたままこちらを見た。
仮面をした小柄な少年だった。
「なんだ、せっかくの逢瀬なのに、邪魔しにくるなんて」
「おまえ、は……」
視界がぐらつく、メアリの首には深い傷があり、心臓にも腹部にも大量の血が滲んでいる。
あれでは……もう……。
「あげない。誰にもあげない。この人は僕だけのものなんだから。誰にも、あげやしない」
「メアリ」
少年はゆらりとメアリの上から退くと、開いた窓から飛び降りて消えた。
「なぜ……なぜだ、なぜ君が死ななければならない」
ベッドに近づいて、最早彼女が息をしていないことを悟る。
「――起きてくれ、お願いだから。目を開けて」
血に濡れた彼女の頬に触れると、冷えた体温が伝わってくる。
ただ目を開けて、また笑ってほしかった。
その願いは永遠に果たされることはなかった。
メアリは死んだ、そして彼は望まぬ結婚をすることになる。
淀んで濁った感情は彼の死までつきまとう。
自ら命を絶つことは許されなかった、彼はそういう立場であったから。
◇◇◇
ヴィヒトリ=アムレアンという少年はひどく臆病で、卑屈な少年だった。
両親も呆れるほど何事も要領が悪く、恵まれたものは容姿だけだった。
それがある時を境に、豹変していくことになる。
セレナ=クロヴェルという少女が屋敷にやってきて、しばらくしてからのことだった。
彼は毎晩悪夢にうなされるようになった。
それは誰かの一生だった。
愛した人を殺されて、望まぬ結婚をし、そして憎しみと失意の中で死んでいった誰かの。
多くの人を恨み、憎み、嘆きの中に居たその人はしかし、ヴィヒトリが憧れるような才能に恵まれた人間だった。
こんなふうになれたらいいのに、そう思い始めたのが、もともとあったヴィヒトリという少年の最後だった。
こんなふうになれたら、両親も自分を愛してくれたかもしれないのに――。
◇◇◇
成長した後のヴィヒトリという人は、何事もそつなくこなし社交的であったが、何物にも興味がないという欠点があった。
そんな彼が初めて、偶然通りかかった市場で見かけた少女に興味を示した。
彼女はメアリにあまりにもよく似ていた。
ヴィヒトリが「彼」に酷似していたように。
もしかするとメアリも、同じように生まれ変わっているのか?
それは一縷の希望だった。
かくして、彼女、セレナ=クロヴェルとヴィヒトリは再会することになる。