◆闇に住む者 前編◆
夢を見ていた。
『なぜ……なぜだ、なぜ君が死ななければならない』
誰かが泣き崩れている。
セレナの体は冷たく硬く動かない。
『――起きてくれ、お願いだから。目を開けて』
頬に触れる手の感触に目が覚めた。
そしてほどなく、セレナは金色の瞳をめいっぱいに開けた。
声は出ない、なぜなら口を強く押さえられていたから。
「……あぁ、やっぱりあなただ」
深夜。
ベッドで眠っていたセレナに覆いかぶさるように黒衣の少年が居る。
顔はフードと仮面に隠れて見えない。
「今度も、もしあなたを殺すのならそう、僕であるべきだ」
少年はうっとりとした声で囁いて、セレナの頬をあいた片手で撫でる。
『あなたを殺すのはそう、僕であるべきだし』
ふと、以前夢の中で聞いた言葉が蘇る。
「ねえ、今は、そう、セレナ」
恐怖で冷たい汗が流れる、震えるセレナの鼻先に、少年が薬品をしみ込ませたガーゼをあてると、彼女は意識を失った。
ほどなくして……。
「また彼女を殺すのか」
聞こえた声はヴィヒトリのもので、少年は即座にセレナから離れて窓辺に移動する。
「あぁ、見つかっちゃった、いやだなあ、いやだ、今回のあなたはずるいよ」
「ずるいのは君も同じだろう」
ヴィヒトリの手には拳銃があり、少年はため息を吐く。
「もともとあったあなたの人格を塗りつぶして、前世に染まるなんてご法度もいいところだよ、普通の世界に生きる人間にはさ」
「誰のせいだと思っているのかな。そもそも君はひとのことを言える立場かい?」
ヴィヒトリはすがすがしいほど美しい作り笑いで銃口を少年に向ける。
少年はセレナを一瞥し、憂鬱そうに溜息を吐く。
「あぁ、もっと一緒にいたかったな、セレナ、セレナ、またあなたの死に顔を見たいなぁ」
少年は窓から飛び出して消えた。
「……あれまでこの時代にいるのか」
息を吐いて銃をおろし、ヴィヒトリはベッドに近づく。
「セレナ」
額にキスを落とすと、背後で気配が動いた。
「申し訳ありませんヴィヒトリ様、まさかここまで進入されるなんて」
ドロシーの声にヴィヒトリは振り返り軽く手を振る。
「今回が初めてだからね。あれの目的はセレナだ、次は迷わず彼女を守ってほしい」
「承知しました。ところで、手鏡はよろしいのですか」
「今は、まだいい」
夜更けの出来事だった。
◇◇◇
翌朝セレナはぐったりとして目覚めた。
なんだかひどく恐ろしい夢を見たような気がする。
「おはようございます、セレナ様。お早いのですね」
ドロシーの声に体を起こすと、彼女はすでに身支度を整えて仕事に励んでいるようだった。
「おはようございますドロシーさん」
「少し疲れておいでですか? まさか体調が悪いのでは」
ドロシーの言葉にセレナは首を横に振る。
「いいえ、そんなことはないのですが。なんだか変な夢を見たような気がして……」
「それはいけませんね、落ち着く紅茶をいれましょう」
セレナからすると、こうしてお世話されるのはもちろん慣れていない。
なので自分ですると言いたいのだが、それではドロシーの立場が悪くなってしまう。
ぐっと堪えて頷いた。
「ありがとうございます」
ドロシーが紅茶の準備をしてくれているあいだに、どんな夢だったろうかと想起する。
黒い人影があった気がする。
以前から何度か耳にしている言葉を言っていたような気もする、夢だが。
(うーん……昔のことでしょうか)
セレナより以前の、誰かの。
「どうぞ、セレナ様」
そんなことを考えて眉間に皺を寄せていると、ドロシーが紅茶のカップをセレナに手渡す。
「……おいしいです」
一口啜ると、とても落ち着く香りと味に不安に陥っていた神経が休まる。
ドロシーは安心したように微笑んだ。
「セレナ様、本日も旦那様がお話をしたいとおっしゃっておられましたが、体調がすぐれないのであれば、私から伝えておきますが」
「いいえ、だいじょうぶですよ」
体調は平気だ、居候の身なのでヴィヒトリの要望に応えたいのもある。
だが、どうしてセレナと話したいと言うのか、いまひとつ納得がいかない。
一目惚れだとヴィヒトリは言ったが、それはセレナにとって納得のいかない理由だった。
時折見せる冷たい瞳といい、抜け目ない雰囲気といい。
(一目惚れはありえたとしても、それに熱をあげるような方に思えませんし。
なにか理由があるのでしょうけれど……気になりますね)
好意を持ってくれているようには感じる。
だが、それだけではないというのも感じる。
「セレナ様? なにか悩んでいらっしゃいますか?」
ドロシーの声に、意識が現実に引き戻される。
「ヴィヒトリ様はどうして私と話したいとおっしゃるのかと思いまして、ここまでよくしていただいているのも、不思議で」
「? 一目で恋に落ちたとおっしゃっていましたが」
貴族の世界で言えば、バッドエンドしかないような言葉だとセレナは思う。
セレナが居たような下流の世界にも一夜の恋の果てに捨てられるなんて話は時折流れていて。
またアデリーナの話を聞いていてもそういうことは多いようだ。
(うーん……あの方の場合はどうなんでしょう)
「旦那様が信用できませんか?」
「えっ」
ドロシーの核心を突いた言葉に思わずびくりと体がこわばる。
「旦那様は少なくともセレナ様に悪意を抱いているわけでも、遊び半分にちょっかいをかけているのでもありませんから、あまり心配なさらなくて大丈夫ですよ」
「……そう、ですか」
そこまで見抜かれているとは、よほど疑っているのが表にでてしまっていたのだろうかと、セレナは頭を抱えたくなった。
昨日とは違う、黄色のワンピースに着替えてヴィヒトリの部屋へ向かう。
今日はあいにくの雨だ。
(なぜ着替えになる服があるんでしょう……ちょっと疑問ですね……)
なにかと謎が多い屋敷だ。
「ようこそ、セレナ」
部屋に入ると、ヴィヒトリは入口まで来て綺麗な笑顔でセレナを出迎えた。
(うーん……なんでしょう、綺麗すぎて違和感を感じるのですよね、この方の微笑みは……)
などと考えていると、彼の青い瞳が開く。
「私の顔に何かついているかい?」
「いいえ、お招き頂きありがとうございます、ヴィヒトリ様」
「……セレナ」
名前を呼ばれ、顔をあげると彼は微笑んだまま首を傾げた。
何か間違いがあったろうかとセレナも首を傾げる。
「あの……?」
「敬称はいらない、そう言ったはずだよ」
「そんなわけにはまいりません」
「どうしても?」
拗ねたような声だ。
そう言われても困ってしまう。
「……しかたない、君を困らせたいわけではないからね。いましばらく我慢するとしよう」
ヴィヒトリは悲しそうな顔をして、セレナにソファへ座るよう案内する。
向かいあったソファにヴィヒトリも座る。
「悪い夢を見たと聞いたが、どんな夢を見たのか聞いてもいいかい?」
(どこから伝わったんです)
早すぎやしないだろうかと考える。
「昔からよく見る夢なんです」
きっとその延長だとセレナは考えている。
いつも見る夢の。
「楽しい話ではありませんが、私が誰かに殺されてしまう、それだけの夢ですよ」
ヴィヒトリは興味深そうにセレナを見つめる。
「誰か特定の相手に殺されるのかい?」
「ええ、いつも決まって小柄な少年です」
「それは……恐ろしい夢だね、かわいそうに」
「もうずいぶん長い間見ていますから、慣れていますよ」
セレナが微笑むと、ヴィヒトリは心配そうな顔をした。
「ほかにも、なにか夢を見る?」
「ほか……ですか?」
すぐには思い浮かばない。
だが、先日見た夢を思い出した。
「少し前、誰かが泣いている夢を見ました、私の体は動かなくて……」
「泣いている相手の姿は? 覚えている?」
「――え」
ふと違和感を感じた。
どんな人だっただろう。
もちろん記憶はすでに曖昧だ。
ただ……。
(この方に、似ていた、ような)
口ごもってしまったセレナに、ヴィヒトリは眉を寄せた。
「すまない、嫌な夢だったかな? つらいなら無理に思いださなくていいよ」
「……はい。ですが、なぜ私の夢に興味を?」
「君のことをひとつでも多く知りたくてね、つい」
「っ」
一目惚れだと言われて昨日の今日だ、さすがに意識してしまう。
同時にどこか冷静な面で、なにか裏があるのだろうと勘ぐってしまう。
「そうだセレナ、今日は少し変わったお菓子を用意させたんだよ」
「?」
嬉しそうなヴィヒトリがメイドに指示をだすと、セレナの前にグラスに入った棒状のお菓子が置かれる。
スナック菓子にチョコレートでコーティングがしてあるようだ。
持ち手の部分だけはチョコレートがない。
「喜んでもらえるといいんだけど」
子供のように楽しそうなヴィヒトリに、セレナはそのお菓子を手にとって口に運ぶ。
「……おいしいです」
少し冷やしてあるのか、ぱきぱきとした食感もいい。
思わず口もとが笑みを描く、と、ヴィヒトリは青い瞳を細めて微笑んだ。
「よかった。君は甘いものが好き?」
裕福ではないため、食べ物ならなんでも好きだとは言いだせず、一つ頷いた。
「ですがヴィヒトリ様、ん」
あまり気をつかわないでほしいと言いかけた時、彼はお菓子を一本取ってセレナの唇にあてた。
「君の笑った顔が好きなんだ」
にこにこと微笑んでいる彼はとても幸せそうだ。
(なぜなんでしょう)
ぱくりと、さしだされたお菓子を口に含む。
まるで餌付けされているようだ。
(うーん……さすがにおかしいですよね)
聞いてみたとしても、彼からまっとうな回答が得られるとも思えない。
「セレナ?」
考え事をしていたせいか、ヴィヒトリが不思議そうに顔を覗きこんでくる。
「少しぼうっとしてしまいました、ヴィヒトリ様は食べないのですか?」
笑ってごまかし、お菓子を勧めると彼は首を横に振った。
「私は甘いものが苦手でね、君の食べる姿を見ていたいな」
「それならばよけいに、私などのために――」
「君が幸せそうに食べている姿なら、ずっと見ていたいよ」
「……」
頬が熱くなっていくのを感じる。
(こ、この人は好意だけではなくて、なにか裏があるはずなんです、なのに私ったら)
この人は、なぜこうも平然とこういうことを言えるのだろう。
誰か助けてほしいと思っていると、執事のマルクスが入って来た。
「旦那様」
呼ばれただけで内容を察したのか、ヴィヒトリの表情がひどく冷たいものへ変わる。
「またか……しようがないな」
ヴィヒトリのこういう姿を見るたびに、セレナの疑いは強まる。
「すまないね、セレナ。この続きはまた明日」
「はい」
申しわけなさそうにそう告げると、彼は部屋を出て行った。
(……どうしましょうか)
セレナは彼の不可解な行動について考える。
いつまでここに居ることになるのかも疑問だ。
これだけ世話をしてくれるということは、ただで帰してもらえるようにも思えない。
ドロシーが入れ替わりに入ってくるまで、セレナの苦悩は続いた。
一方で、ヴィヒトリは窓の外を見やって忌々しげに眉を寄せた。
窓の外には馬車がひとつ。
そこから降りて来たのは金色の髪に青い瞳の少女だった。
セレナの義妹、アデリーナ=クロヴェル。
「……いっそ」
呟いた声は不穏な響きで、マルクスが口を開く。
「旦那様、いかなる理由があろうとも、あの方の気持ちも考えてさしあげるべきでしょう」
「……今の彼女は私のことなど覚えていない。覚えていたとしても、彼女には元から愛などない」
「お互い様でしょう」
「あぁ、それはそうだね。私にはメアリだけだった。そのメアリを奪ったのも、彼女だ。殺しても許せるものではない。
まさか、「あいつ」をけしかけたのもアデリーナではないだろうね?」
「今のあの方にはそれほどの力もありますまい」
「どうかな。彼女は前も狡猾な女だった」
ヴィヒトリの青い瞳に光はささず、ただ冷酷なものだった。
「旦那様、さしでがましいようですが、セレナ様は純粋な方でおられます」
「あぁ、彼女は見ていてあきないね」
「で、あればこそ、旦那様のことを覚えていらっしゃらないのは、セレナ様も同じであると、どうか心にとどめておいていただきたいのです」
「……」
それには答えず、ヴィヒトリは玄関ホールに向かい、扉をくぐってやって来た少女、アデリーナに綺麗すぎるほど整った微笑みを向ける。
「ようこそ、アデリーナ嬢。本日はどのようなご用です?」
ヴィヒトリの言葉に、アデリーナも笑顔で答える。
「姉を迎えに来ましたの、やはり、愛する姉がともに居ないのは寂しいもので」




