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◆伯爵家へ◆

 その日もセレナは昼間青果を売り、夜に帰宅して、夕食をとり眠ろうとしたのだが。

 珍しく小屋にやって来たアデリーナと継母からとんでもないことを突きつけられた。

「そら、これを着てあんた自身を売っておいで」

「はいっ?」

 さすがのセレナも理解が及ばなかった。

「体を売ってこいと言っているのよ」

 アデリーナの言葉に今度こそ理解する。


 まあこんなことを言い出すかもしれないとは思っていたが、まさか本当に。

「さっさと行っておいで!」

 追い出されて小屋を飛び出した。

 よほどにセレナがヴィヒトリに招待されたことが不服と見える。

 それも一度ならずこれからも、というのが。


(うーん、どうしましょう)

 適当に時間をつぶして戻る、あるいは酒場で雇ってくれれば給仕の仕事をして戻っても……。

 服装はまったくもって娼婦のようだが、服は借りるなりなんとかすればいい。


(よし、決まりです。酒場に行きましょう)

 とりあえずそれなりのお金を用意しなければならない。

 歩き出そうとした矢先、路地裏からごつごつとした手が伸びてきて引きずり込まれた。

 セレナの体を壁に押し付けて舌なめずりをするのは体格のいい見知らぬ男。

「お嬢ちゃん、一晩どうだい?」

(これは、ちょっと、まずいですね?)

 セレナは運のなさを呪った。

「すみませんが、これから帰宅するのですよ」

「馬鹿言っちゃいけねえよ、おまえらみたいな生業の奴らはこれからが稼ぎ時だろう」

 服に手をかけられ、眉間に一撃をお見舞いするか、急所を狙うか、いずれにしても恨まれるだろうから今後の生活に関わるのだが、このままではまずいと思考する。


 その矢先。

「あん? なんだ兄ちゃん、いまイイトコなんだ邪魔すんな」

 フードを目深にかぶった青年が男に何かを渡す。

 それを見て、男の目の色が変わる。

「おぉっ、なんだこりゃあ!」

「そこの彼女、これで買おう」

 男は嬉々としてセレナから手を放し、走り去っていった。


 大男からは解放されたが、セレナにとっては相手が変わってしまっただけだ。

 しかし、この男性には悪いが逃げるのみ。

 そう決断して駆けだそうとした、その肩を強い力で捕まれひっぱり戻される。

「っ」

「セレナ、君はこんな仕事もしているのか?」

 冷ややかな声だった。

 聞いたことのあるような気がする声でもあった。

「え?」

 フードの下に綺麗な碧眼がのぞく。

(え、あら? まさかっ)

 セレナの背を嫌な汗が伝う。

「まあいい、話は屋敷で聞こう」

 どうしてこんな時にこの方に遭遇してしまうのかと、セレナはやはり運のなさを呪った。


 馬車に乗せられ、着いたところは案の定アムレアン伯爵家。

 フードつきの外套を脱いだ青年は、紛うことなき当主のヴィヒトリその人だった。

「おかえりなさいませ、旦那様」

「彼女に服を」

「承知しました」

 以前会った時とは別人のように無表情のヴィヒトリに、セレナは内心、怯えていた。

 畏怖を感じさせるような、冷たく凍った雰囲気だった。


 屋敷に通されると黒い髪に茶色の瞳を持つメイドの少女がセレナを部屋に案内し、手際よく準備を進める。

「すみません」

 思わずそんな言葉がこぼれると、メイドの少女は手を止めて苦笑した。

「セレナ様、あんなに機嫌の悪い旦那様はめずらしいのです、ですから、どうか言動にはお気をつけて」

「……忠告ありがとうございます」

 メイドの少女はどうやらセレナのことを心配しているようだった。

 安心させるような声音に少しばかりの安堵を覚える。


 濃い青のワンピースを身にまとい、ヴィヒトリの部屋に通されると、彼はソファに腰かけて目を閉じていた。

「……セレナ、先ほどの質問に答えてもらおう」

 氷のように冷たい碧眼が開き、睨まれるようなその状態にセレナは小さく震える。

(ええと、いけません、ここで取り乱しては……質問とは、娼婦の仕事をしているのかということですよね)

 眩暈がする、継母達を多少この件でも恨んでしまいそうだ。


「あれは……偶然、というか、普段はあんな仕事はしていません」

「では私が見たものはなんだったのか説明してくれるかい?」

 ヴィヒトリの言葉に、セレナは決意する。

 正直にすべて話してしまったほうがいい。

「お母さま達に追い出されて来たのです、私はそのあと酒場で働いて必要分のお金を稼ぐつもりでいましたが、そうしたら……運悪く物好きなかたに捕まってしまって、ですから、ヴィヒトリ様からも逃げようとしましたでしょう」

 じっと青い目がセレナの瞳を見つめている。

 それは観察するような視線だった。


 少しして、威圧感のような空気が霧散する。

「……そうか。君が追い出されてきたというのには、私が君を招待した件も絡んでいるのだろうね」

 以前会った時と同じ柔和な雰囲気だ。

 ここまで変わるものかとセレナは少しばかりの恐怖を覚えた。

「どこまでご存じなのです」

 ヴィヒトリの物言いにひっかかりを覚えたセレナが問うと、彼は綺麗な笑みを浮かべて答える。


「君が前妻の子であり、今もあの屋敷でいい扱いを受けていないことくらいだよ」

 林檎売りの件も今回の件も知っているのだから、つまりほとんどすべてだ。

「今回のこともあって、君をクロヴェル邸へ帰すわけにはいかなくなった」

「はいっ⁉」

 驚くセレナに、ヴィヒトリは綺麗すぎるほど整った笑みを浮かべる。

「逆に聞こう、帰るのかい? 次は誰かが助けてくれるとも限らないのに?」

 嫌と言わせない雰囲気だったが、セレナにも譲れない理由があり、負けじと震える唇を開く。


「いいえ、それは困ります。私はどうしても帰らなければならないのです」

「理由を聞かせてほしいな、納得のいくものなら譲歩しよう」

「それは……」

 これを話したことが知れたら、母の形見がどうなるか分からない。

「聞かせてくれないのなら君を閉じ込めるだけだ」

「な」

 絶句した。

 なぜこの人はここまでしようとするのだろう。

 しかし冗談のようにも聞こえない。


「――お母さまの、形見の手鏡をとられてしまったのです……帰らなければ、どうなるか……」

「なるほど」

 ヴィヒトリも納得したようだ。

「それならその手鏡のことも私に任せてほしい」

 それはもし取り返してくれるのなら願ったり叶ったりだが、不安と疑心は残る。

 それに、この人は変だ。


「……なぜそこまでしていただけるのでしょう?」

 セレナは疑問に思っていたことを問う。

 この人に、そこまでしてもらう理由がない。

 というより、最初からそうだった。


 ヴィヒトリは少なくとも、幼い頃に会った時は友好的でなかった。

 セレナの髪色を気味が悪いと言っていたのだし。

 それがどうして今、こうなっているのかセレナには分からない。


「以前、君に興味がある、と言ったね。けれどあれは正確ではない。

 出会ったばかりでいきなりこんなことを言われても困るかもしれないが、私は君のことを女性として好きなんだよ」

「はい?」

 混乱した頭でセレナは考える。

 好き? 女性として?

 それはつまり。


「なぜそうなるんでしょう!」

 否応なく顔が火照るのを感じる。

「一目惚れ、かな?」

「一目惚れって、そんなはずありません。からかわないでください、ヴィヒトリ様は私の――」

 髪が嫌いでしょう、と言いかけて口をつぐんだ。

 相手は覚えていないかもしれないのに。


「君が言いかけたのは、私が以前、君の髪色についてひどい言葉をかけたからかな?」

「覚えて、いらっしゃったのですか」

 ヴィヒトリは首を横に振った。

「すまない、忘れていた……というのは正しくなくてね、先日執事のマルクスに聞いたんだ。

 ひどい言葉を吐いたとね」

「?」


 忘れていたのではないが、覚えていたわけでもないということだろうか。

 セレナは疑問に思ってヴィヒトリの青い目を見上げる。

「私はわけあって幼少期の記憶がない、今の私は君と最初に出会った時よりあとからということになる」

「記憶を失っていらっしゃるのですか?」

「それに近しいかな」

 それは気の毒に、とセレナは眉を寄せる。

「だから、君を傷つけてしまったことを今の私は申し訳なく思っている」

「いえ、いいのです、もう昔のことですし」

「そう言ってもらえると助かるよ」


 結局セレナは屋敷から出してもらえなかった。

 部屋が与えられ、先ほど着替えを手伝ってくれたメイドのドロシーが眠るための準備を進める。


「セレナ様、本日はゆっくりとおやすみください」

「ありがとうございます」

 黒い髪に茶色の瞳を持つドロシーに頷いた矢先のことだった。

「あ、セレナ!」

 窓際から声がしてそちらを向くと、ケントが外から手を振っている。


 それにセレナが返事をする前に、鬼の形相でドロシーが言う。

「ケント、セレナ様はクロヴェル男爵家のご令嬢であり、旦那様のお客様です。身分をわきまえなさい」

「えっ、令嬢? 旦那様のお客様だっていうのは知っていたけど貴族だったの?」

「お客様だということを知っていたならそれで充分です、よろしいですか、以降気をつけるように」

 冷ややかなドロシーの言葉に、セレナは慌てて口を開いた。


「いいのです、ドロシーさん。私が黙っていたのですから。ケントさんは悪くないんです」

「――セレナ様が、そうおっしゃるなら……」

 ドロシーはいささか納得いかない様子ではあるものの、小さく頷く。

「ドロシーさんもあまり気をつかわないでください。

 えっと……こんなこと言ったら困らせてしまうかもしれませんが、私は貴族と呼べる者でもありませんから」

 それに対してケントが言う。

「そうかな? セレナ様は仕草も上品だし、とても普段市場で――」

「ケントさんっ!」

 セレナが慌てて止めると、ケントは頬を掻いた。


「そんなに気にしなくても、ドロシーだって知ってると思うよ? ねえ?」

「えぇっ⁉」

 驚くセレナに、ドロシーは困ったように視線を泳がせる。

「ええ、何か事情がおありなのだろうと思っておりましたが」

「そ、そうなのですか……」

 なんてことだろうとうなだれるセレナに、ドロシーが声をかける。


「お気になさらないでください、事情がおありなのは分かっておりますゆえ。

 それに、私はセレナ様に助けていただいた御恩があるのです、誠心誠意尽くさせていただきます」

「え? 私がですか?」

「はい。いつかお話いたしますよ」

 優しく微笑んだドロシーに、セレナは疑問に思いつつも頷く。


 一方そのころ、クロヴェル男爵邸では知らせを持ってやって来た老齢の執事マルクスに、アデリーナも継母も怒りに身を震わせていた。

「体調を崩されていらしたセレナ様を保護いたしまして、つきましては旦那様の意向にて、しばらくこちらで看病させていただきますゆえ」

「いいえ、いいえ! 伯爵様の手を煩わせるまでもありませんわ! 姉をすぐこちらへ返してください!」

 アデリーナの言葉に、マルクスは穏やかに微笑んだまま告げる。


「それならばそれでも構いませんが、よろしいのですか? あなたがたがしてきたことが明るみになれば、この男爵家もどうなってしまわれるか」

「――な」

 けれどもアデリーナに代わって継母が言う。

「まあまあ、そんなこと。そちらこそよろしいの? あの子が大事にしていた母親の形見がどうなってしまっても!」

 マルクスは笑みを崩さない。

「ええ、構いません」

「なんですって?」

 憤る継母に、優雅に礼をするマルクス。


「それでは、お話はこれまでということで。セレナ様のことはお任せくださいませ」

 彼が去っていくなり、継母もアデリーナも怒り狂って屋敷に戻った。

 行きずりの男に犯されて泣き叫べば良いと思って送り出せばまさかこんなことになるなんて。

 セレナが無事であることも気に入らなければ伯爵家で世話になるなんていうことも気に入らない、それにセレナが出稼ぎにでなければ、我が家はどうなるのか。


 怒りが収まらず、いっそのこと言う通りあの手鏡を壊してやろうと継母は部屋にある机の引き出しを開けたのだが。

「……ない」

 小さな呟きだった。

 引き出しをあさる継母の手が止まる。

「ない、ない、ないっ!」

 どこを探してもない、部屋中を探したが見当たらない。

「どういうこと⁉」

 あれがなくなっては、セレナが戻って来たとしてももう顎で使うことはできない。


 結局、手鏡は消え去ってしまった。

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