◆アウェンミュラー公爵◆
その後の伯爵家の日常は平和だった。
庭ではケントが植木の管理をしていて、屋敷ではドロシーが凛としてメイド業に勤しんでいる。
マルクスも忙しく働いているなか、セレナは執務室にいて、自分を膝にのせて微笑んでいるヴィヒトリを見つめた。
「あの、ヴィヒトリ様。私もなにかお手伝いしたいのですが」
「婚約もしたのになぜ君は後ろめたさを感じるんだい?」
「それが私の性分です」
とはいえ、人に知られては困る、ヴィヒトリの立場が悪くなってしまうだろう。
市井で育った小娘だからと思ってもらえればいいのだが。
「……しようがない、ドロシーの手伝いくらいならさせてあげてもいいよ。簡単なものならね」
「ありがとうございます、ヴィヒトリ様」
「君はまだ私に敬称をつけるんだね」
不満そうな彼に、セレナは頬を赤く染めて視線をそらした。
「っ、だって……はずかしいん、ですもの」
この状態だって恥ずかしくてしようがないのだ。
セレナは異性に免疫がなく、恥じらって視線を泳がせる。
「君がそう可愛いことばかり言うから、私の悩みは尽きないよ」
「?」
小さなため息を吐いて、ヴィヒトリはセレナを抱きしめた。
問題が起きたのは、セレナがヴィヒトリの許しを得て、久しぶりに市場へ出向いた時のことだった。
道に迷っているのだろう長身の青年を見かけて、声をかけた。
「どうなさいました?」
セレナが声をかけると、困り果てていたのか青年の表情が明るいものになる。
茜色の短髪に紫色の瞳を持つ人だった。
「あぁ……道に迷ってしまって、ここから貴族街へは、どう行けばいいのだろう?」
セレナは驚いた、どうやら彼はお忍びの貴族であったようだ。
「それなら、ご案内しますよ」
「助かる……その、私はわけあって名乗ることができないのだが、無礼を承知であなたの名前を聞いてもよいだろうか?」
「セレナです」
そう答えると、青年は優しく微笑んだ。
「そうか、いい名前だ」
「ありがとうございます。では、行きましょうか」
ここから、セレナやヴィヒトリにとって大きな困難が始まった。
「ここからなら、道が分かりますか?」
案内して、青年に問うと、周囲を見回して彼は頷いた。
「あぁ、ありがとう、分かるよ」
「そうですか、それでは私はこれで」
伯爵家へ向かおうと足を踏み出した時、声がかかった。
「待ってくれ! 君も貴族だったのか?」
「――え、ええと」
貴族と言っていいのだろうか。
というより、セレナの立場は今、とても不安定だ。
「どこの方なのか、教えてくれないか?」
「……クロヴェル男爵家ですが、今はわけあってアムレアン伯爵家でお世話になっています」
「ヴィヒトリのところに?」
どうやら知りあいのようだ。
「……そうか、いや、失礼した。ありがとう、セレナ嬢」
その時は、ここで終わったのだ。
問題はこの先にあったのだが。
それから数日後、ヴィヒトリはなにやら悩んでいるようだった。
というより、厄介ごとが起きてめずらしくいらついているようだ。
部屋を訪れても気づかず、窓の外を見て何か考え込んでいる様子のヴィヒトリに、セレナは首を傾げて声をかけた。
「ヴィヒトリ様、なにかあったのですか?」
「……セレナ」
彼はセレナに視線を移すと、憂鬱そうにじっと見つめる。
「あ、の、私が原因なんでしょうか?」
なんとなくそう思って問うと、彼は首を横に振った。
「君のせいではない。ただ、君に関係のある問題、かな」
「?」
「セレナ、あまりふらふらと男に声をかけるものじゃないよ。勘違いするやつもいるんだからね」
「な、なんです? きゅうに」
「というより、身分の高い男にとって君のような子は新鮮なんだよ、あぁ、たぶんそうだったんだろうね」
「もうっ、私に非があるのならきちんと説明してください!」
怒ると、ヴィヒトリは席をたってセレナに近づき、そのやわらかい頬をふにふにとつねった。
「っ、な、んれすか」
「君はこのあいだ、貴族の男に道案内をしたろう?」
「……ひゃい」
「彼はアウェンミュラー公爵家の長男だったんだよ。君に会わせてほしいとやかましいことこのうえない」
「公爵家……でも、それの何が問題なんです?」
ぽかんとしているセレナに、ヴィヒトリはまた彼女の頬で遊ぶ。
「君に気があるのだろうっていう話だよ。相手の身分が身分なだけにね、私も少々困っている」
「そんな、考えすぎ――いひゃぁっ」
強くつねられて、セレナは「痛いです」と頬をさすった。
「君は彼のことを知らないからそう思うのだろうけどね……とにかく、向こうがその気になれば君との婚約を叩き潰して、さらっていくのは簡単だっていうことだよ」
それとも、とヴィヒトリはセレナの頬を両手ではさんで顔を近づけた。
「君は公爵家に嫁入りするほうがいいのかな?」
「……意地の悪いことをおっしゃらないでください」
む、と眉を寄せて反論する。
地位になんて興味はない、ヴィヒトリを選んだのは彼のことが好きだからだ。
そして同時にほうっておけない人だったからだ。
「私はどこへも行きません、あなたのことをほうっておけませんし、アロイスさんのこともありますから」
「ここであいつの名前までだすとはね」
ヴィヒトリはセレナにキスをして、じっとその金色の瞳を見つめる。
「セレナ、私は君が思っているより嫉妬深く独占欲が強いんだよ。あまりほかの男のことばかり話していると、ひどいことをしてしまうかもしれない」
「……は、は……い」
冗談とは思えない表情と声音に、セレナは頬を真っ赤に染めて頷いた。




