◆憎しみの果て◆
セレナにはメアリとしての記憶はほとんどない。
ただ彼女の人生は悲惨であったことを記憶している。
『あのひとは、私がいなくなっても幸せになれるでしょうか。
あの子は、私がいなくなっても新しい主人を見つけられるでしょうか』
夢の中、自分によく似た声が聞こえた。
霞む視界、痛み、失血から冷えて硬くなっていく体。
それは今、生きているセレナにとっては恐ろしい夢だった。
『ごめんなさい』
「――っ」
深夜に目が覚めた。
恐怖から目を見開くと、顔を覗き込んでいるアロイスの姿があった。
「……あの」
「夢見が悪いの?」
ベッドをセレナに譲り、自分はソファで寝ると言っていたアロイスだが、やはり眠れなかったのだろうかと考える。
「あの日もうなされてた」
「?」
あの日とはいつだろうとセレナは思案するが、思いあたらない。
「ねえ、どんな夢? あいつの夢?」
アロイスの質問に、セレナは今しがた見た夢を思いだす。
それはアロイスの夢に近い。
彼に殺される夢だ。
「あなたに、殺される夢です」
そう告げると、アロイスは楽しそうに微笑んだ。
「そっかぁ、メアリの最期の夢だね。あの時はうれしかったなぁ、だって彼女を永遠に誰の物にもできないようにしたんだから」
「……ほんとうに、メアリさんがほかの誰かを愛したから、だけなんですか? あなたが彼女を殺した理由は」
セレナの質問にアロイスはじっと彼女の顔を見つめる。
「どういう意味?」
「いえ、以前あなたがおっしゃっていたことが気がかりで。メアリさんは、あなたに助けられていたと知らなかったって」
「……うん。そう。ずっとメアリを助けてきたのは僕なのに、彼女が選んだのは降ってわいたような男だった。
それ自体は政略結婚だからしようがないけど、メアリはあいつを心から愛していた」
抑揚のない声でアロイスが言う。
「ねえ、メアリの最期はどんなだった? 彼女はなにを想って死んだ?」
「なにを、と言われれば……きっとヴィヒトリ様とあなたのことを想って亡くなったのだと思いますが」
セレナの言葉を、アロイスは信じられないというような顔で聞いていた。
「嘘だ、彼女はいつもあいつのことばっかりだった」
「私が嘘をついてどうするんです」
「……僕のこと、なんて思ったの?」
「新しい主人を見つけて、やっていけるか心配していましたよ」
その言葉に、アロイスは顔を顰めた。
「……」
しばらく黙っていたが、やがてアロイスは窓の外に視線を移した。
「……あぁ」
さきほどよりさらに光をなくした瞳で、無感情な声音で、ただそれだけ呟く。
「……ねえ、セレナは、僕を憎まないの」
「どうして私があなたを憎むんです。でもドロシーさんのことは怒っていますよ、とても」
釘を刺すようにそう言うと、アロイスの口もとに笑みが浮かんだ。
「あなたならそう言うと思った」
「アロイスさん?」
ふらりと立ち上がり、アロイスはかけてあった黒の外套を羽織る。
そしてナイフを手に取った。
「ねえセレナ、僕は思うんだよ。メアリってすごく運の悪い人だったんだって。
でも、あなたはすごく運がいい、だからやっぱり……似てないなって」
「?」
その瞬間、がしゃんと音をたてて窓が蹴り破られた。
飛び散る破片の中、アロイスに手を伸ばす人影を見た。
真っ黒な外套と仮面、アロイスとよく似た恰好の人物。
体躯からして男性二人は、彼のナイフをよけてその細い腕を掴み、腹に蹴りをいれた。
「――なっ、やめて! やめてください!」
思わずセレナは声をあげる。
それに男の片方は視線をこちらに向けた。
怖い、怖いけれどこのままではアロイスが危ない。
「……」
セレナの言葉には何も答えず、男はアロイスの髪を掴むとそのまま壁に叩きつけた。
失神した彼がずるずると倒れこむのを見て、セレナの喉から引きつった悲鳴がもれる。
「やりすぎないでくれ、死なれてはつまらないからね」
しかし、ドアの方向から聞こえた声にセレナはさらに驚いた。
そこにはヴィヒトリとマルクスが居る。
「これは君たちの主人からの命令だ。私の個人的な意見ではない」
「……そうか」
男の片方がそう返事をし、アロイスから離れた。
「……セレナ、怪我は?」
場違いに優しい微笑みで問いかけるヴィヒトリに、セレナは震える声を絞り出す。
「……ヴィヒトリ様、アロイスさんをどうするつもりですか?」
今でも鮮明に思いだす、彼は前にもアロイスを撃つつもりでいた。
では、今回は?
「なぜ、そんなことを君が気にするんだい?」
「あたりまえです! まさか、殺してしまうつもりではありませんよね」
「大丈夫、悪いようにはしないよ」
微笑みながら告げられた言葉を嘘だと思った。
ヴィヒトリは先ほど、死なれてはつまらない、と言ったのだ。
ふと、セレナの中で一つの答えにいきつく。
(このかたは、今も憎んでいるのですか。アロイスさんを、アデリーナを)
ヴィヒトリが時折見せる冷酷な顔を思いだすと、それが一番しっくりくるような気がした。
「っ」
セレナはベッドから降りると、落ちたガラスの破片も気にせずヴィヒトリに歩み寄る。
それに彼は驚いて何かを言いかけたが、その前にセレナがヴィヒトリの襟首をつかんだ。
「アロイスさんを殺すつもりなら、私も死にます。アロイスさんを傷つけるなら、私も同じだけ傷つきます」
「――」
セレナの血に濡れた足を見て、ヴィヒトリは眉を寄せる。
「命は、そんなに簡単に奪っていいものではありません。どんなに憎くても、復讐から生まれるものはありません」
必死の訴えだった。
ヴィヒトリはきっと、誰かと同じように自分の命も軽んじているし、誰かを傷つけるのと同じように平気で自分を傷つけてしまう人だ。
そんなことは、きっとメアリも、そしてセレナも望んでいない。
「もういい、セレナ。傷の手当をしなければ」
「よくありません。アロイスさんの身の安全を保障をしてくださらないのなら、ここで死ぬのもいといません」
「……分かったから、おとなしくしていてくれ」
「嘘でしたら、許しませんよ」
「分かっているよ」
ヴィヒトリは疲れたような表情でため息を吐くと、セレナを抱きかかえた。
「自分で歩けます」
「だめだ、それをするなら約束は無しだよ」
そう言われては無理にともいかず、セレナは黙り込んだ。
◇◇◇
伯爵家について、傷の手当を受けたあと。
ヴィヒトリはセレナの向かい側のソファに座って、怒ったような表情で彼女を見すえた。
「セレナ、金輪際こんなことをしないように」
「あなたがアロイスさんにひどいことをするからです」
「……」
それにヴィヒトリはひどく冷めた目をした。
「君はなぜ彼を庇うんだ」
「もしもアロイスさんとあなたの立場が逆であったとしても、同じようにしますとも」
「私に彼らを許せと、君は言いたいのだろうね」
「許せないものを許すことはありません、ただ、報復をするのは違います。私はアロイスさんにも傷ついてほしくありませんが、同じだけあなたにも傷ついてほしくありません。報復とは、そういうことです」
きっぱりそう告げると、ヴィヒトリは小さなため息を吐いて瞳を閉じた。
「君の言っていることはきれいごとだ」
「約束、しましたでしょう」
セレナの言葉にヴィヒトリは頷いて瞳を開いた。
その目はひどく疲れているように見える。
「……私はメアリが死んだあと、メアリを殺した女と結婚した。耐えがたい日々だったよ。権力に目の眩んだ女が愛しい人を殺し、そしてその女と夫婦にならなければならないなんてね。
いつ殺してやろうかと、思い続けていた」
セレナは黙って、ヴィヒトリの言葉に耳を傾けた。
「許せなかったよ、アロイスも、あの女も、他の人間も、メアリが何をした? 彼女は最初から最後まで、家の道具として扱われてきただけだ」
「……ヴィヒトリ様」
彼がどれほどメアリを大切に想っていたのかが伝わってくる。
そして同時に、それはセレナに埋めようのない虚しさを与えた。
セレナは、メアリではない。
うつむいたセレナに、ヴィヒトリは瞳を細めた。
「……セレナ、君はきっと、何か勘違いしている」
「はい?」
「私が君をメアリの代わりとして扱っていると思っているんだろう?」
その通りだが、返事をする勇気はなかった。
ヴィヒトリは呆れたような悲しげな、そんな様子で言葉を続けた。
「セレナ、最初に君を見たとき、メアリに重ねていたのは事実だ。
だけどね、メアリは食べ物にさほど興味を示す子ではなかったし、君ほど強情でもお転婆でもしたたかでもなかったよ。
つまり、君とメアリは似ていない」
「……それはほめ言葉でよろしいのでしょうか?」
セレナの表情が思いきり引きつる。
「私は君を君として想っていると、何度も告げているはずなんだが」
「信じろとおっしゃるのですか」
「信じてくれないと困るな。私にあんなふうに真正面から怒ってくれる人は君くらいしかいないし。
君がいてくれないと、またいつ復讐に走ってしまうか……アロイスのことも、私がつい殺してしまわないように、君が見張っていてくれればいい」
「冗談ではないのですよ」
セレナが怒ると、彼は困ったように笑った。
「分かっているよ、けれど私も冗談で言っているわけではない」
「それは困ります」
はあ、とため息を吐いてセレナは席を立つと、ヴィヒトリの隣まできて、彼を抱きしめた。
「分かりました。アロイスさんのこともありますし、手鏡のこともあります、あなたの不安定さも心配ですし、私が傍にいます」
「それなら、これを返してもここに居てくれるね」
「はい?」
さしだされたのは丸い……丸い……。
「いっ、いつから持っていらしたんです⁉」
形見の手鏡だった。
「任せてほしいと言ったその日にはあったんだけどね、返したら君が出て行ってしまうだろうと思って」
手鏡を受け取ると、セレナはヴィヒトリから離れた。
しかし言い返せない、もっと早く返してくれていたら、セレナは確かに迷惑をかけられないと屋敷を出て行ったかもしれない。
「……ヴィヒトリ様はやっぱり嘘つきです」
セレナは不服げにそう呟いたのだった。




