【十五丁目】「せめて、迷いがなくなるまでは」
数カ月前、その銃口は暗闇の中、僕の後頭部に当てられていた。
今は、うっすらと明るい森の中で、僕の背後から心臓に向けられている。
ああ、こういうのって見えない方が怖くないんだな、と呑気なことを、僕はボンヤリと考えた。
「私は人間が嫌い」
猟銃を構えたまま、砲見さんが言った。
突然のことに停止していた思考が、やっと戻ってきた。
しかし、指一つ動かすことができない。
「自分勝手で、欲深で、自然を汚す」
「……」
「でも、一番嫌いなのは、弱いくせに妖怪達より先に行こうとするところ」
引き金に指が掛かる。
「私達は、そんな人間の同情なんか望んでない」
銃口は一ミリもぶれていない。
それが強烈な反論であることを知った。
人間は弱い。
種として霊長に立っているとしても。
妖怪は強い。
種として衰退の中を進んでいながら。
僕は最初、樹御前をうまく説き伏せようと、画策した。
次にその悲哀を知って、同情した。
最後に向き合うことを止め、幕を引こうとした。
懐柔も。
同情も。
諦めも。
僕はまだ、全てを人の側から見ていたのだ。
見くびるな、と砲見さんの瞳が告げていた。
人に憐みを乞うほど、妖怪達は弱くない、と。
「…それでも君はこの仕事を続ける?」
引き金に掛けた指は離れていない。
僕は、身体ごと砲見さんに向き直った。
「まだ、迷ってます」
「…そう」
「だから…やめません」
まっすぐに。
相手を見据えて。
向き合おうと、思った。
「せめて、迷いがなくなるまでは」
「…やっぱり、人間だね」
砲見さんは銃を降ろした。
片手でクルリと回して、背中に背負う。
「弱いくせに、未来に行こうとする」
気のせいかもしれないが。
背中を向けようとした瞬間、彼女の口元が少しほころんでいた気がした。
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「意外としつこいのう」
呆れた、というよりも何故か興味深そうに樹御前は、しげしげと僕を見た。
僕達はあれからすぐに引き返し、クスノキの大樹の元に舞い戻った。
「…そなたは先程隠れていた妖怪じゃな」
砲見さんに目を向けて、樹御前が言う。
今回、砲見さんは隠れることもなく、僕の隣に立っていた。
樹御前の言葉から察するに、彼女とこの森が一心同体であるということは間違いないらしい。
でなければ、隠れていた砲見さんの存在を知ることはできないはずだ。
「御前様、もう一度考え直していただけませんか?」
僕は一歩踏み出した。
「貴女の気持ちは十分分かります。しかし、このままでは地元の人も貴女も不幸になるだけです。僕達はそれを止めるのが仕事です」
「人の子よ」
樹御前は溜息をついた。
「妾の話は聞いていたと思うが…」
「聞いた」
今度は砲見さんが答える。
「彭候、譲歩はお互い様」
「お互い様じゃと?」
怪訝そうに聞く樹御前。
砲見さんは頷いた。
「妖怪である貴女が人間に搾取されてきたように、妖怪も人間から搾取してきた」
「どういう意味じゃ?」
「昔、妖怪は時に人を襲っていた」
少しうつ向く砲見さん。その表情には陰が差していた。
「そして、命を奪うことも」
僕も樹御前も声を失う。
それは事実だろう。
妖怪の伝承には、血生臭いものも多い。
砲見さんにしたって、深山で旅人を襲い、その血を吸う妖怪「野鉄砲」である。
「少なくとも、私はそうした妖怪を見てきた」
樹御前はしばらく無言だったが、静かに問い掛けた。
「そなたは人間が好きか?」
しばし躊躇った後、砲見さんは首を横に振った。
「嘘が下手じゃな」
にっこりと笑う樹御前。
そして、遠い彼方を見る目で続けた。
「妾はな、人間が好きじゃ。確かにそなたが言うように、彼らは自分勝手で、欲深で、妾の森を奪っていった不届き者よ」
僕と砲見さんは顔を見合わせた。
えっと…
さっきのやり取りを聞かれていた…?
そう言えば、彼女はこの森の主…いや、森そのものだ。
僕らは彼女の懐で、会話をしてきたと言うべきか。
「じゃが、春の訪れに喜び、夏の田畑で笑い、秋の実りを祝い、冬の寒さに微睡む…見ていて飽きぬ輩でもある。特に、秋には妾への感謝と称して、神楽を奉納してくれる。驚け、千年も前からじゃぞ?」
樹御前は目を閉じた。
「ふふ…全く、律儀な連中よな。短い命でやれることは少なかろうに…のう、そうは思わぬか?星宿の子よ」
「えっ?」
思わず声を上げる僕。
僕達の背後に目を向ける樹御前。
その視線を追うように振り向いた僕達の前に、古多万神社の宮司、星宿さんが立っていた。




