【百四十九丁目】「まあ、素敵。宣戦布告と受け取ったわ」
めっきりと春らしくなったある日。
僕…十乃 巡はうららかな日差しを受けながら。
逆さ吊りにされていた。
「…い、以上が『人間社会適合セミナー』の内容です…」
頭に着々と血が上る中、僕は懸命に説明を続けた。
白い糸でがんじがらめにされた僕を見上げながら、一人の色っぽい女性が笑う。
黒い着物を艶やかに着崩した妙齢の女性だった。
白い肌に血のような赤い唇。
金色の瞳に長い黒髪。
特筆すべきは額に並ぶ、二対の金色の白毫だ。
蜘蛛の複眼のように並んだそれが、逆さ吊りの僕をキョロリと見やる。
「ふぅん…なかなか面白そうね」
女性が、僕から手元のパンフレットに目を落とす。
「人間社会を楽しもう!降神町人間社会適合セミナー」と書かれたそのパンフレットには、僕達降神町役場が主催するセミナーの概要や案内が書かれている。
僕みたいな渉外担当の任務に当たる職員は、こうした資料を使って、特別住民の皆さんをセミナーへと勧誘しているのである。
ちなみに今回僕が担当したのは絃女 紬さん(絡新婦)だ。
“絡新婦”は美女に化けることができる蜘蛛の妖怪である。
滝などに棲みつき、やって来た者にこっそりと糸を引っ掛けて、滝つぼに引き込もうとする逸話が有名だ。
絃女さんも、降神町のとある山間部にある滝を棲み処としており、こうして苦労して訪ねてみたのだが…
滅多に人が訪れることも無いゆえか、はたまた妖怪としての習性がそうさせたのか、僕はいつの間にか彼女の操る糸に絡めとられ、こうして逆さ吊りにされてしまった。
最初はびっくりしたが、何とか話は通じそうだったので、そのまま勧誘を続けたのである。
…しかし…いい加減、頭に血が上って苦しくなってきた…
「そ、それでは、僕と一緒に来てくださいますか…?」
「うーん…どうしようかしらねぇ。町での暮らしには興味が湧いたけど、ここでの暮らしも捨て難いのよねぇ…」
艶やかな唇に指を当てて考え込む絃女さん。
特別住民は、古くから存在するものや強大な力を持つものほど、人間社会から遠のく傾向にある。
“絡新婦”である絃女さんは、そこまでの存在ではないが、清流を棲み処にするくらいだから、自然の気が薄い都市部での暮らしに不安があるのかも知れない。
「そ、それなら安心してください…山棲系の妖怪向けに設備が整えられた貸家もご紹介できますし…僕達もサポートさせて…いただきますから…」
だ、だんだんと意識が遠のいてきた…
ここは一気呵成に攻め落とすしかない。
でないと、僕の命がヤバい…!
「…そのサポートっていうのは、貴方がやってくれるのかしら?」
「は、はい…」
「ふぅーん…ねぇ、貴方って彼女いる?」
意外な質問に、僕は慌てた。
「か、彼女ですか!?」
色っぽい笑みを浮かべる絃女さん。
「ふふふ、顔を真っ赤にしちゃって♡」
いや、これは単に頭に血が上り過ぎて、うっ血してるだけだと思うけど…
「いえ、そんなのいません…」
「あら、そうなの?じゃあ、童Tね」
「ほえっ!?」
僕は思わず素っ頓狂な声を上げた。
それに舌なめずりをする絃女さん。
「私は清い流れに棲む妖怪だから、きれいで清潔なものを好むのよ。水なら清水がいいし、人の精気を吸うなら、穢れを知らない童TかS女が一番♡」
確かに、伝承でも“絡新婦”は人の精気を吸う妖怪として伝わっている。
け、けど、精気ってそういう差があるもんなのかっ!?
「貴方が定期的に精気を分けてくれるなら、そのセミナーっていうのに参加してもいいわよ?」
「そ、それは…」
困った…
まさか、こういう展開になるとは…
僕は愛想笑いを浮かべた。
「あ、あの~、当役場ではそうした支援は行っていないのでちょっと…」
「あら、残念」
つまらなそうに肩を竦める絃女さん。
が、ホッとする僕に絃女さんはとんでもないことを言い放った。
「じゃあ、ここで一口だけでもいただけないかしら?」
「…はい?」
絃女さんが、チロリと真っ赤な舌を覗かせる。
「久し振りの童Tちゃんだし、貴方、見た目も可愛いし…はっきり言って好みだわぁ♡」
僕はギョッとなった。
「じょ、冗談ですよ…ね…?」
「んふふ…私、野暮な冗談は苦手なの。えいっ」
そう掛け声を放ちつつ、腕をクルリと回転させる絃女さん。
同時に逆さ吊りだった僕の身体が上下に反転する。
頭に上っていた血が引いて行くのを感じ、僕はホッとした。
が、
「さあて…じゃあ、パクッといただくわね♡」
一難去ってまた一難。
がんじがらめにされた僕の身体が絃女さんに向かって引き寄せられる。
その先では、絃女さんが情欲にまみれた表情で僕を見詰めていた。
や、ヤバい!
色々な意味で、身の危険を感じる!
こういう時のために用意してきた「天霊決裁」が懐にあるのだが、両手を縛られているので使うこともままならない。
「ほ、解いてください、絃女さん!」
「うーん、その怯えた表情もそそるわぁ」
「ホントにこういうのはマズいんですってば!僕、公務員ですし!ね?ね?」
「大丈夫ダイジョーブ。こんな山奥だし、他に人目も無いんだから♡」
駄目だ!
まったく聞く耳持たない!
「んじゃ、いただきまぁす♡」
「いやぁぁぁっ!!」
と、僕が悲鳴を上げた時である。
「…ソ…ツ」
流れ落ちる滝の音に混じり、かすかな声が響いた。
低い男の声だった。
「え?」
「なぁに?」
それに気付いた僕と絃女さんが、周囲を見回す。
「テ…ウ…ツ」
再び聞こえる謎の声。
これは…何かの呪文か…?
そう思った瞬間、
「うわわっ!?」
僕を捕らえていた絃女さんの糸が、緩まっていく。
地面に降りた僕は、絃女さんを見やった。
絃女さんは、今までとは打って変わった厳しい顔を見せていた。
「坊や、下がりなさい」
「えっ?」
「早く…!」
切羽詰まったような絃女さんの声に押され、僕は一歩退いた。
代わりに前に出る絃女さん。
その視線の先に、一つの影があった。
付近に漂う滝の飛沫か。
はたまた霧なのか。
視界が徐々に曇り始めたせいで、その正体がはっきりとしない。
「テ…ソ…ツ」
再び響く、低い声。
それは今までに聞いたこともない奇妙な声だった。
「これは…随分と不思議な妖気ね」
言うや否や、絃女さんの背中から八本の蜘蛛の足が伸びた。
同時に、その足先に小型の蜘蛛が這い回る。
小蜘蛛たちは、その口から紅の火を吐いていた。
妖力【縄煉蜘蛛】…彼女の足によって操られた小蜘蛛により、相手を糸で捕縛したり、火炎で攻撃したりする妖力である。
見た目は非力な女性に見えるが“絡新婦”である絃女さんは、なかなかの強者なのだ。
あからさまに戦闘態勢をとる絃女さんを、僕は慌てて制止した。
「待ってください、絃女さん!相手が誰なのか分からないのに、いきなり喧嘩はダメですよ!」
すると、絃女さんは一瞬呆気にとられた顔をしてから肩を竦めた。
「随分と優しいのね、坊や。でも…あちらさんは不穏な妖気をバリバリ放っているけど?」
「妖気を放ってるってことは、あの人も特別住民なんでしょう?なら、少しでも話し合う余地は…」
「ある…と言ってあげたいけど、ああいう妖気を放つ相手に、無防備に近寄るのはお勧めしないわ」
絃女さんが固い口調で続ける。
「それにこの山に棲むどの特別住民ともつかない妖気なのよね。恐らくは新入りか…」
瞬間。
影が何の予備動作も無く、空中に跳躍した。
絃女さんが叫ぶ。
「縄張り荒らしかしらね…!」
咄嗟に僕を小脇に抱えると、大きく飛び退く絃女さん。
そして、僕達のいた場所に、人影が激しい地響きと共に着地した。
もうもうと立ち込める土煙。
その中から、人影がその正体を見せる。
「テン…ソウ…メツ…」
「貴方は…!?」
僕は目を見張った。
人影は異様に肩幅の広い僧形の男だった。
発達した上半身に、頭部がめり込んでいるようにも見える
かなりの巨体で、奇怪にも両足をボロボロの布で一本に縛っていた。
頭には編み笠を被っており、その顔は髭面であること以外伺い知れなかった。
「天…送…滅…!」
編み笠の奥の目が赤く光る。
そして、まるで仇でも見るように僕達に向き直った。
物凄い威圧感だ。
「…そこの女子…妖怪と見受けた…」
僧形の男が重厚な声で誰何する。
それに絃女さんが薄く笑った。
「妖怪だったら何かしら?」
僧形の男は、パン!と両掌を合わせた。
「天・送・滅……妖怪はすべからく『天』へと『送』り『滅』するのみ」
「まあ、素敵。宣戦布告と受け取ったわ」
止める間もなく、絃女さんが操る小蜘蛛達が炎を吐く。
紅蓮の炎はまっすぐ僧形の男に伸び、その全身を覆い尽くした。
「やめてください、絃女さん!いくら何でもやり過ぎですよ!」
慌てて僕がそう制止するも、絃女さんは躊躇った様子も見せず言った。
「あいにくと、棲み処に殴り込みをかけられて、黙ってられるほどおおらかじゃないのよね、あたし」
立て続けに八匹の小蜘蛛が炎を吐き散らかす。
僧形の男は、炎の中で苦し身悶えるように身を捩っていた。
が、
「天・送・滅…!」
パン!と男が再度両掌を打ち合わせる。
同時に、その身体が勢いよく跳ね上がった。
両足を縛ったままなのに、物凄いジャンプ力だ…!
その身を焼き焦がしていた炎が、その上昇スピードで一瞬で掻き消える。
そのまま急降下する先には…
「危ない、坊や!」
「え!?」
ドスーーーーーーン!
僕の目の前すれすれに着地する僧形の男。
編み笠の下の赤い目が、ジロリと僕を見下ろす。
「人間…その身をもらい受ける」
そう言うと、僧形の男は再び両掌をパン!と打ち合わせた。
「【山気憑身】」
瞬間。
男の姿が霧状に変化する。
そして、その霧は僕の鼻や口に侵入してきた。
な、何だ、コレ!?
僕の身体を今までにない間隔が襲う。
全身が金縛りになったかと思うと、一気に意識が硬直する。
代わりに、意図しない感覚で、僕の身体が動いた。
「坊や!?」
視線の彼方に絃女さんがいる。
まるで潜望鏡を覗いているような見え方だ。
何だ…これ…!?
そして、僕の口がひとりでに動き、声を発した。
「入れた入れた入れた…」
それは味わったことのない違和感だった。
意識ははっきりしているが、視覚や聴覚は遠い彼方で感じているような感覚だ。
一番異質だったのは身体の感覚…触覚である。
まったく自由が利かない上に、勝手に動いているのが知覚できるのだ。
まるで、何者かに身体の自由を乗っ取られたようだった。
「あんた、坊やに何をしたの!?」
絃女さんが険しい表情で僕を睨む。
それに、僕の口角が上がり、薄笑いの表情を作った。
「身体をいただいた」
「何ですって!?」
絃女さんが驚きの表情になる。
同時に、僕も驚愕した。
以前、とある事件で、死者の魂をこの身に受け入れたことがある。
あの時は、一つの身体に二重の魂が存在することになり、僕の意識は半ば眠る状態になることで、死者の人格を表に表すことが出来た。
が、今回はかなり状況が違う。
僕の意識ははっきりとしているのにもかかわらず、身体の自由が利かず、恐らく僧形の男が身体を操っているのだ。
通常、あり得ない憑依だった。
「もはや、お前に打つ手はあらず。この男の身体を傷付けられたくなければ、無駄な抵抗はせぬことだ」
僕の声で、僧形の男がそう語る。
絃女さんは、鋭い視線を僕に向けたまま、考えあぐねているようだ。
「この世に妖怪はもはや不要。潔く滅ぶべし」
僕の唇が物騒な言葉を吐く。
無論、男の意思でだ。
「天・送・滅…!」
よく分からないが、僧形の男は何かをしでかすようだ。
でも、僕自身の体が人質になっているせいで、絃女さんは戸惑っている。
このままでは、とてもマズい…!
何か…
何か手はないのか…!?
と、その時、天啓のように脳裏に閃いたものがあった。
しかし、それを実行しようにも、今の僕の意識は体から切り離されてしまっている。
(とにかく、一瞬でも体の自由を取り戻すことができれば…!)
そう思った瞬間、不意に好機は訪れた。
僧形の男が両掌を打ち合わせようと手を持ち上げたのだ。
それは男が何度も見せている動作だった。
(いまだ…!)
硬直した意識を総動員させ、右手へと向けた。
そして、切れてしまった体と意識の線を強引に復活させようと、思い切り念を込める。
向こうから動いてくれた千載一遇のチャンスだ。
これを逃すことはできない。
特別な力など無い僕だけど、元々、この体は僕のものだ。
一瞬でも元のように自由に動かすことができれば、この状況を打破できるはず…!
果たして、それは実を結んだ。
「む!?」
僕の体を完全に乗っ取り、僧形の男も油断していたんだろう。
右手は左手と打ち合わされることなく、すれ違い、背広の胸ポケットへと伸びる。
そして、その中にあった物を握りしめた。
『我がここに在るのは、上意也!!』
「何!?」
僕の意識の声と僧形の男の肉声が重なる。
同時に、胸ポケットにしまわれていた「天霊決裁」の効果が発動した。
そう。
僕自身に向かって。
発動の文句を唱えるや否や、凄まじい霊力が発現し、僕の体が吹き飛ぶ。
「坊や!?」
驚いた絃女さんが声を上げた。
僕はヨロヨロと身を起こす。
「あいたたた…」
僕の口が、僕の思った通りの言葉を紡いだ。
ああ、何か感動だ。
今までごく当たり前に思っていた「自分の思い通りに体が動くこと」が、こんなにもありがたいことだなんて…
「…ふ、不覚。うぬ、霊具を隠し持っておったのか…」
重厚なその声に振り向くと、全身から煙を立ち昇らせて地に伏す僧形の男がいた。
「天霊決裁」に込められた霊力は、人間の僕には何ら影響は及ぼさない。
が、人ならざるモノである僧形の男には絶大な効果を発揮しただろう。
現に、その体は徐々に形を失っていく。
「だ、大丈夫ですか!?」
「坊や!?」
慌てて駆け寄る僕に、絃女さんが制止の声を掛ける。
が、構わず僕は僧形の男の傍に膝を突いた。
「すみません…あのままでは、大事になると思ったので、つい…」
そう謝罪する僕に、僧形の男が驚いたように目を見開く。
「…うぬ、我を恨んでおらぬのか…?」
「はあ…まあ、いきなり体を乗っ取られたのはビックリしましたが、僕も強引な方法で貴方を弾き出しちゃいましたし…」
僕達、降神町役場の人間の職員が所有する手形「天霊決裁」には、ある高位の神霊による勅令文と刻印が刻まれている。
これは、強大な力を持つ妖怪に相対した時、彼らに危害を加えられそうになった場合のみ使用が許可されている支給品だ。
特定の文言により発動する「天霊決裁」は、強大な霊力を放ち、その霊圧により対象の動きを封じることが可能になる。
それをゼロ距離でまともに浴びたのである。
妖怪の類であれば、相当な衝撃だったはずだ。
「…分かっておるのか?我はうぬを妖怪を滅するために強引に利用したのだぞ…?」
「勿論分かってます」
僕は僧形のに肩を貸そうとした。
そして、続けた。
「でも、貴方にはそうしなければならない理由があったんでしょう?なら、何も聞かずにそれを責めることはできないじゃないですか」
その言葉に。
僧形の男は沈黙し、しばし瞑目した。
そして、
「…うぬ、名は何という…?」
「僕は、十乃 巡と言います。降神町役場特別住民支援課の職員です」
「その名…覚えておこう」
そう言うと、僧形の男は僕から離れ、白煙を上げる体を強引に起こすと、大きく後ろに跳び退った。
「我は蛮嶽という」
そう言うと、蛮嶽さんの姿は再び霧の中へと溶けていく。
「うぬ、我らが妖怪を滅する理由があろうと言ったな…ならば、教えてやろう…」
最後に声だけとなり、山嶽さんは消えた。
「…妖怪はいずれこの世を乱す。故に在ってはならぬモノなのだ…」




