【百四十八丁目】「…気は済んだか?」
頬に当たる地面の感触に、僕…十乃 巡はうっすらと目を開けた。
ぼやける視界の中、周囲で起きている乱戦が目に入ってくる。
黒い怪物…“木偶”と戦っている大妖達や飛叢さん(一反木綿)達は、どういう訳かそれぞれの妖力を取り戻したようだ。
…良かった。
皆が妖力を取り戻したなら、いくら百を超える“木偶”達でも蹴散らせるだろう。
そう思った瞬間、意識の覚醒と共に右腕に焼けつくような感触が走る。
その時になって、僕はようやく思い出した。
僕は太市君(鎌鼬)に腕を切られてしまったんだっけ。
そして、大量の自分の血を見て、ショックで貧血状態になり、倒れてしまったんだ。
どこか非現実的な感覚の中、僕は自分の傍らに立つ人影に気付いた。
一体いつからそこにいたんだろう?
僕は懸命に首を動かし、人影の正体を探ろうとした。
見上げたその視界の中で、凍りついた滝のような銀髪が流れる。
そして、眼鏡越しに僕を見下ろす冷たい目があった。
「しばらく見ないうちに、ずいぶんと酷いザマになりましたね、十乃さん」
「あ…な…たは…」
「ここまでされても、貴方はまだ他人を憎まないのですか?」
冷然と言い放ったのは、何と三ノ塚さん(舞首)だった。
かつて、内閣府特別住民対策室に新規採用隊員として潜入し、僕のことを狙ったエージェントである。
そして、特別住民達に害意を持って動いている「K.a.I」の実行部隊として暗躍している妖怪だ。
彼女は三つの異なる人格と姿を使い分け、状況に応じて活動している。
そのため、特別住民対策室で指名手配中にもかかわらず、未だに拘束されていない。
そんな彼女が、何故この場所に…!?
しかも、何故か誰一人として彼女には気付いていないようだ。
三ノ塚さんは、どことなく怒っているような雰囲気で続けた。
「以前、貴方を折るのは私、と言いましたよね?その前にもう折れてしまいましたか…?」
「…そ…れは…」
グッと歯を噛み締めつつ、僕は上体を起こした。
右腕の痛みを堪えつつ、彼女を見上げる。
すると、三ノ塚さんは少しだけ笑みを浮かべた。
「上等です。そんな目が出来るなら、ね」
そう言うと、彼女は不意に地に落ちていた僕の右手を拾い上げた。
凄惨なものにもかかわらず、三ノ塚さんは顔色一つ変えない。
「今日の私の任務はコレを持ち帰ることです」
そう言うと、三ノ塚さんは僕の右手の手首に巻かれていたものを取り上げた。
それは黒い石が連なる腕輪念珠…「夜行珠輪」だった。
かつて、異界寺院「夜光院」を訪れた際、北杜さん(野寺坊)から預かった代物だ。
北杜さんの話では、それを使うことで「夜光院」と通信が可能になるということだが、実はまだ一度も試したことはない。
三ノ塚さんは、血に濡れた夜行珠輪を手に取ると、ためらわずそれを胸元へしまい込んだ。
「確かにいただきましたよ…“鵺”の卵を」
…え?
いま、何て言ったんだ?
僕は腕の痛みも忘れて、目を見開いた。
「ど、どう…いうこと…です…!?」
「あら、ご存じなかったんですか?」
意外そうな顔になる三ノ塚さん。
「神無月とかいう妙な便利屋が教えてくれたんですけどね。十乃さんも知っている顔ではありませんか?」
「神無月さんが…!?」
僕は驚愕の声を上げた。
そ、そんな馬鹿な!?
神無月さん(紙舞)とは「絶界島」事件では「K.a.I」の企てに、共に立ち向かった間柄だ。
先の「夜光院」での一件の時も「K.a.I」の実行部隊の動向を危険視し、わざわざ僕に忠告もしてくれた。
そんな彼が「K.a.I」に協力するなんてあり得ない…!
「嘘だ…!」
僕は思わず立ち上がりかけたが、よろめいてそのまま再度倒れ伏した。
その眼前に、三ノ塚さんが僕の右腕を投げてよこす。
「どう思おうと貴方の自由ですが、現に私はここにこうして現れた…真実か否かはそれだけで、十分でしょう?」
そう言うと、不意に三ノ塚さんは取り出した呪符を翳し、素早く呪文を唱えた。
「符転剛垣!急急如律令!」
瞬間、翳した符が一瞬で厚い壁となる。
ほぼ同時に、その壁に黒く巨大な槍のようなものが突き立った。
「こんな場所で何をしていらっしゃるのですか?」
声のした方を見ると、そこには今までに見たこともない厳しい顔をした沙牧さん(砂かけ婆)が立っていた。
その姿を見た三ノ塚さんが、鋭い目つきになる。
「砂鉄の槍…砂使い…!まさか“砂の魔女”!?」
「直接顔を合わせるのは初めてですね“CERBERUS”」
周囲に砂鉄の粉を舞わせつつ、沙牧さんがゆっくりと近付いてくる。
二人は互いを知っているだろうか?
そう言えば、沙牧さんは以前、裏社会でエージェントをしていたって紅刃さん(酒呑童子)が言っていたけど…
三ノ塚さんが不敵な笑みを浮かべた。
「私の“気配遮断”の術を見破るとは…さすがですね」
「その人から離れなさい。でなければ三枚におろして差し上げますよ?」
砂鉄を固めて、数条の刃を作り出しつつ、沙牧さんが静かに告げる。
それに、符を取り出しつつ、後退る三ノ塚さん。
「生憎ですがそれはご免被ります。せっかく任務も終えたところですしね」
それを見た沙牧さんが、素早く腕を振るう。
同時に舞っていた砂鉄の黒粉が変化し、数条の縄と化して三ノ塚さんの身体に巻き付いた。
しかし…
「符転黒幕!急急如律令!」
三ノ塚さんの身体を中心に暗黒の闇が広がる。
砂鉄の縄は、その闇をすり抜けるように貫通し、霧散した。
(とりあえず、伝説のエージェントにお会いできて光栄でしたよ。では、今日のところはこれで)
そんな声が響くと共に、広がっていた闇が消失していく。
すると、既にそこには三ノ塚さんの姿は無かった。
「…大丈夫ですか、十乃さん?」
普段どおりの微笑みを浮かべて近付いてくる沙牧さんに、僕は辛うじて頷いて見せると、三度倒れ伏したのだった。
-----------------------------------------------
「一気に形勢逆転じゃなぁ」
群がる“木偶”達を粗大ごみから創造したもう一つの巨腕で薙ぎ払いつつ、阿久田こと「古王」骸世(塵塚怪王)が太市を見上げつつそう言った。
「お若いの、ここいらが幕の引きどころだと思うがのぅ」
「…」
好々爺然とした笑みを浮かべる骸世に、未だ巨腕に捕縛されたままの太市がわずかに歯噛みする。
「悔しいけど、あんたの言う通りかも知れないね」
視線を巡らせる太市の目に、ほぼ殲滅された“木偶”達の姿が映る。
おまけにここ…屋外練武場「破天」へと近付いてくる無数の妖気が感じられた。
恐らく、異変に気付いた「木葉天狗衆」だろう。
飛叢達だけならまだしも、大妖達に百戦錬磨の木葉天狗達が加われば分が悪すぎる。
それに、どういう訳か気付くのが遅れたが、間近に「K.a.I」の実行部隊らしき女の気配も感じとれた。
(ここいらが引き際か…さあて、どれだけサンプルが採れたかな?)
「圏!」
そう唱えると同時に、太市の周囲に大気の渦が生じた。
それを見た骸世が、わずかに眉をひそめる。
「こりゃあ、たいした妖力だなぁ」
その台詞が終わらないうちに、粗大ごみで出来た巨腕が見えない球体に抉られたように霧散する。
その中心に浮かびながら、太市は骸世を見下ろした。
「…出会えて光栄だよ、古王。そして、あんたの存在を忘れていた自分を反省する」
骸世の乱入…このイレギュラーが無ければ、事はもう少し大きな成果を生んでいたはずだ。
しかし太市自身、この「妖サミット」に参加する大妖達の中から、彼の存在を失念してしまったのだ。
その結果がこれだ。
太市は骸世を見下ろしつつ、空中で優雅に一礼した。
「今日はここで失礼するよ、古王」
「そう簡単に帰れると思ってんのか?」
不意にかけられたそんな声に、振り向く太市。
その視線の先には、飛叢がいた。
太市に高度を合わせて滞空しつつ、飛叢は挑みかかるように続けた。
そこには静かな怒りがあった。
「太市…自分が一体何をしたか分かってんだろうな…!?」
「…勿論、分かっているつもりさ」
感情を込めない声で太市が答える。
その瞳にも、何ら感情が映っていなかった。
そんな太市の態度に、飛叢は激昂した。
「そうかよ…釘宮に続いて巡まで…テメェ、そこまで堕ちやがったか…!」
「…」
無言のままの太市に、奥歯を噛み締めた飛叢が襲い掛かる。
「何とか言えよ!!」
弾かれたような猛スピードで殴り掛かる飛叢。
しかし、それを紙一重で避ける太市。
続く回し蹴り、伸ばされたバンテージすらも太市は簡単に避けて見せる。
しゃにむに攻めたてる飛叢の攻撃は一度もかすることなく、かわされてしまった。
“一反木綿”である飛叢は、高い空戦能力を持っている。
おまけに、両腕に巻かれたバンテージは、銃弾をもつかみ取る精密な動きを可能とするものだ。
ことスピードにおいては、飛叢に勝るものはそういない。
しかし、太市はその全てを凌駕していた。
「…気は済んだか?」
攻め疲れて息をきらせる飛叢を見下すように、太市は再び感情を込めない声で言った。
それを睨み返す飛叢。
「太市ィ…!」
「…そう言えば、役場のセミナーでは俺はいつも派手に動くお前の影に隠れがちだったな。だから、お前はいつも俺を格下に見てただろう?」
「…」
「けど、今は違う。この通り、俺は完全にお前を越えた世界にいるんだよ。お前がまったく手の届かない高みにな」
そう言うと、太市は背を向けた。
「今日はもうお前と遊んでいる暇はないんでね。これで失礼させてもらうよ」
「ま、待て…!」
追いすがろうとする飛叢を、片腕で風を巻き起こし、弾き返す太市。
「…十乃に伝えておいてくれ。『次は腕だけでは済まない』とな」
次々と地面へ染み込むように消えていく木偶達と共に、太市もまた風の中に消えていった。




