【百六丁目】「ふふ…青春ねぇ」
「まあ…」
屋内のお風呂から露天風呂に続く引き戸を引き、私…五猟 沙槻は、思わずそう声を漏らしてしまいました。
ここはお山の旅籠「深山亭」
私達、降神町役場の新人職員一同は、現在、この旅籠で研修のお役目に就いております。
泊りがけの研修では、私にはあまり馴染みのない法律などの修学のほか、接遇…お客様に対する応対を学ぶというものもありました。
私は“戦斎女”として、永らく退魔の修練を積んで参りました。
この身が宿す霊力を高める錬法や、神道は勿論、様々な術法の知識を詰め込み、古今東西の化生あやかしに関する記録や伝承を読み耽り、やがて来たる“魔”との戦いに備え、己を刃の様に鍛え上げる日々を独りで生きておりました。
なので、こうしてたくさんの方々と寝食を共にし、見慣れぬ知識に触れ、新しい作法を身に付けていく事は、とても新鮮でした。
ですが、恥ずかしながら、世事に疎い私の知識は、どうも時代遅れの部分があるらしく…
最初にお迎えしたお客様の老夫婦は、私の立ち振る舞いに目を丸くされておりました。
後で知ったのですが、何でも、いまはお客様に足を洗う湯桶を出したり、三つ指をついてお辞儀をするなど、あまりしないとか。
それでもそのお二人は「気持ちがこもっていて嬉しい」と笑って、温かく受け入れてくださいました。
私にはそれがとても嬉しく思いました。
本来は、お客様に喜んでいただくのが、今の私のお務め。
なのに、お客様だけでなく、ここ深山亭の主様や従業員の皆さま、そして、同じ新人職員の皆さまが、このような世間知らずの私に良くしていただいてくださるのです。
本当に有難い事です。
それに何より…
十乃様もいらっしゃってくださいます。
十乃様とは、私達五猟一族が拠り所とする白神の地で初めてお会いしました。
その時、私は一族と地元の特別住民の皆さまとの諍いに決着をつけるために呼び出されました。
“戦斎女”である私のお役目は「魔」を祓うこと。
なので必然、この時も私に求められたのは妖怪達の排除でした。
正直…私はこのお役目が苦手です。
かつて、五猟一族の長でもあった私の母様は、優れた“戦斎女”で、その血を引く私もその素養は高いようなのですが、私自身はお役目を好んだ事はありませんでした。
理由は簡単です。
自らの手であやかしを滅ぼすあの暗い感覚。
いかに人に仇なす魔物相手とはいえ、あれは何度経験しても慣れるものではありません。
もっとも、こんな事を口にすれば、一族の者に大目玉を食うでしょう。
なので、ずっと私はものを考えない絡繰の様に生きておりました。
そうして、そのまま幾度この手を血に染めてきたのでしょう。
軋みを上げるこの心。
その中に居る本当の私は、母様に教わった唄を歌い、手毬で遊んでいる方が大好きでした。
なので、この時、満男おじさまに依頼されたお役目も気が進まないものでした。
十乃様にお会いしたのは、そんな折りだったのです。
最初の出会いは五猟神社の森の中。
境内の中で迷子になっていた十乃様は、一族の者もあまり近付かない「奥の院」に居た私の元に偶然姿を見せました。
「君、歌が上手なんだね」
何も知らないあの人は、まるで幼い子供の様な笑顔で、そう私に微笑んでくれたのです。
それは。
魔を討つ刃として生きてきた私にとって、恐らく初めて向けられた微笑みでした。
軋んでいた私の心に、不意に優しく染み込んできた一滴の清水。
その鮮烈な感覚は…今も覚えています。
その後、逆神の浜で妖怪達と刃を交える事となった私は、再び十乃様と出会いました。
そして十乃様は、見事その手で諍いを収め、凪様達…逆神の浜の妖怪だけでなく私の心も救ってくださったのです。
そして、この時以来、私の心にある変化が訪れました。
この一件で、私の心の中には、常に十乃様が居るようになったのです。
それは不思議な感覚でした。
寝ても覚めても、思い描くのは十乃様の笑顔。
そのうち「いま、十乃様は何をなさっているのだろうか?」とか「十乃様は、どんなものがお好きなのだろうか?」ということが頭から離れなくなりました。
そこで、私は一番仲良くしていた一族の女官…山吹に相談する事にしたのです。
「あぁん?そりゃあ、恋だよ恋!めでたいじゃん、赤飯炊いとく?」
一族からも恐れられ、疎まれている私に唯一対等に接してくれる山吹は、あまり素行が良くないものの、世事に詳しく、よく私に外の世界の事を話してくれる姉の様な存在でした。
山吹は、私に十乃様に気に入られるよう、いくつか忠告もしてくれました。
本当に有難いことです。
同時に、彼女の話を聞いているうちに、私はある決心をしました。
そう…「この方と結ばれたい」という強い想いをこの身に宿したのです。
そして「一人の女として、十乃様との新しい生命をこの身に宿したい」と。
「ふう…」
白い湯気に覆われた露天風呂に浸かると、自然に声が漏れます。
私達が“天逆毎”である乙輪姫様に出会う前、この付近の山々から温泉が湧きだしたという話を聞きました。
この「深山亭」の湯もその源泉から引かれており、湯浴みに使われているという事です。
何でも疲労回復以外に、病や傷を癒し、六根を清める効能もあるとか。
はふぅ。
成程、こうして身を浸けていると心身が充実していくようです。
「いやあ、いいお湯だねぇ…」
「ロケーションもサイコー♪」
一緒に湯浴みに誘ってくれた女子職員の皆さまも、湯の心地よさに満足されているご様子。
そして、皆さまが仰るように、叢雲が掛かるものの、空には美しい秋月が姿を見せております。
その白光が温泉の湯気をおぼろに光らせ、実に幻想的な風景を見せていました。
真紅の紅葉が、遠くは月光に照らされた山々、そして、いま私達が入っている温泉の周囲にも鮮やかに燃え上がっています。
湯殿にひらひらと舞い落ちた紅葉は濡れて輝き、まるで燃え落ちた焔の欠片の様に見えました。
「どうよ、沙槻ちゃん。温泉楽しんでる?」
同じ班の女子職員…織原 真琴様が、そう笑い掛けてきます。
そして、その影にもう一人。
確か、早瀬 水愛様でしたでしょうか。
十乃様と同期で“コサメ小女郎”という特別住民です。
早瀬様は、何故か少し脅えた様な様子で私を見ています。
私は、自らの身体の火照りを確かめる様に、頬に手を当て、お二人に微笑み返しました。
「はい。こんなにきもちのいいおんせんはひさしぶりです」
すると、織原様は、無言のまま、呆けた様な表情になりました。
?
私、また何か変な事を口走ってしまったのでしょうか…?
「あの、なにか…?」
「え?あ、いやー…やっぱ、沙槻ちゃんはいい女だなーって、思わず見惚れちゃった」
「はあ…『いいおんな』ですか?わたしが?」
「うん。だって、可愛いし、性格も良いし、家事も出来て、おまけにプロポーションもいいし。まさに“大和撫子”だよね」
苦笑する織原様に、私は戸惑いの表情を浮かべました。
「そう、でしょうか…?」
「あ、信じてない?」
「そういうわけではありませんが…」
私は湯煙に霞む月を見上げました。
「わたしは…じしんがないのです」
「自信がない…?」
「はい…」
織原様は、何かを思い出した様に手を打ちました。
「あー、もしかして十乃君のこと?」
「…はい」
私は頷きました。
「わたしは、とおのさまのことを、おしたいもうしあげております」
ガサッ!ガササッ!
ドスッ!ゴスッ!
不意に。
湯殿を囲む生垣の向こう側から、かすかにそんな音がしました。
同時に何か肉を叩くような鈍い音が続きます。
はて、何の音でしょう?
温泉もあるし、もしかしてお山のお猿さんでもいるのでしょうか…?
「どうしたの?」
首を傾げる織原様に、私は首を横に振りました。
「いえ、なんでもありません」
「ふーん…でさでさ、十乃君とはその後どうなのよ?進展はあった?」
「しんてん?」
首を傾げる私。
それにニヤつく織原様。
「手を繋ぐとか、デートするとか、色々よ」
「ああ、でしたら」
私は「六月の花嫁大戦」の後、間車様(朧車)や摩矢様(野鉄砲)達みんなでの「でえと」を思い出し、両手をポンと合わせて笑いました。
「そのどちらもさせていただきました」
ゲシッ!ゴリッ!ドスッ!!
再び、生垣の向こうからそんな音がしました。
…随分と元気なお猿さんがいるようです。
「ほほー、なあんだ、やることはやってるじゃん。結構結構」
「はぁ…ですが…」
「なあに?何か心配事でもあるの?」
織原様がそう聞いてきます。
私はそれに頷きました。
「はい。とおのさまとのかんけいは、とてもよいほうこうにむかっているとおもうのですが…」
そこで溜息を吐く私。
「なぜか、こづくりだけは、かたくなにことわられております」
「こ、子作り…って」
躊躇いなくそう告げた私に、何故か織原様は盛大にたじろぎました。
大人しく話を聞いていた早瀬様は、耳まで真っ赤になっておられます。
何故でしょう?
この話をすると女性の方は、ほとんどこういう反応をされます。
私、何か変な事を言っているのでしょうか?
女の身であるならば、想いを寄せる殿方と結ばれ、子を宿すのが自然な習わしだと山吹にも教わりました。
もっとも、そのやり方については、何故か「自分で学びな」と、頑なに口を閉ざしておりました。
その後、十乃様や他の皆さまに伺っても「それは絶対他人に聞くな」とか「自然に分かる」とか、要領を得ない答えが帰って来るばかりです。
「…たぶん、わたしになにかみじゅくなぶぶんがあるからだとおもっております」
首を垂れる私に、お二人は顔を見合わせ、クスリと笑いました。
「…やっぱり、沙槻ちゃんはいい女だよ」
と、織原様が、今度は優しく笑ってくださいます。
早瀬様は相変わらず大人しいままですが、しっかり頷いてくださいました。
心なし、先程までの緊張感が薄らいでいるように感じます。
良かった。
理由も分からず避けられたり、恐れられたりするのは、慣れっこではありますが、悲しくもありますもの。
「好きな男がいて、そいつへの想いをここまで純粋に言葉にできるんだもんね…ちょっと大胆過ぎる部分はあるけど」
「おふたりには、そういうかたはいらっしゃらないのですか?」
私がそう尋ねると、お二人は再び顔を見合わせて、
「あはは、あたしはいないかな。目下、募集中ってトコ」
あっけらかんと笑う織原様は、ふと、傍らの早瀬様に目を向けました。
「…」
それを避ける様に、早瀬様は鼻まで湯船に浸ります。
「…水愛…あんた、まさか…」
織村様が驚愕の表情を浮かべ、ワナワナと震え出しました。
「誰!?誰よ、一体…!?」
「…お、教えないもん」
「『もん』じゃない!言え!吐け!初心なネンネだと思っていたのに、いつの間に色気づきやがったのよ、あんた!?」
「お、おちついてください、おりはらさま!」
荒ぶる織原様を、咄嗟に羽交い絞めにします。
しかし、織村様は鬼気迫る表情で、
「離してよ、沙槻ちゃん!こらぁ、水愛、誰なのか教えなさいよ!お母さんはそういう娘に育てた覚えはありませんよ!?」
「そ、育てられた覚えもないよ…!」
「おのれ、口応えするか!どうせその魅惑のツルペタ☆ロリィなボディ目当ての、ロクでもない悪い変態男にイカレてるんでしょ!?」
と、織原様のその一言に、大人しかった早瀬様は、突然ザバァッと湯船から立ち上がり、
「七森君はそんな人じゃないよ…!」
しーん
静まり返る湯殿。
私も織原様も、呆然となって硬直しました。
一瞬の後。
早瀬様の顔が、紅葉の様に真っ赤になります。
そして。
ボグッ!ドシャッ!ガキッ!ボキッ!!
生垣の外からは、三度、破壊的な音が響いて参りました。
お猿さん、生きているのでしょうか?
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「悪かったって。そろそろ機嫌直してよ、水愛。この通りだから…!」
頬を膨らませて温泉の隅っこに潜水したままの早瀬様に、織村様が拝むように両手を合わせています。
私はそんなお二人の様子を見ながら、内心、首を傾げました。
早瀬様が怒っている理由。
織原様が謝っている理由。
それは、どうやら「想い人が誰なのか、暴かれてしまった」事に起因しているようです。
ですが、果たしてそれは怒ったり謝ったりしなければいけないものなのでしょうか?
想い人への気持ちは、誰にも口にせず、秘すべき事なのでしょうか?
それが…分かりません。
(やはり、わたしはまだまだみじゅくなようです)
ようやく機嫌を直されたのか、浮上してきた早瀬様に、織原様が抱き付いていらっしゃいます。
そんな二人を見守っていると、
「ふふ…青春ねぇ」
不意にそんな声が隣りから聞こえて参りました。
目を向けると、そこには私と同じようにお二人を見詰める女性が一人。
長い黒髪をまとめ、怖いくらいに赤い唇をした美しい女性です。
湯を通して浮かび上がる、雪の様な白い肌。
そのとても艶めかしい姿に、同性の私も一瞬目を奪われてしまいました。
何となく、黒塚様に似た雰囲気を持つ女性です。
女性は、私の視線に気付くと、ニッコリと笑い掛けてきました。
「おさわがして、すみません」
慌ててそう頭を下げる私に、女性は人を引き付ける様な笑顔のまま、首を横に振りました。
「いいんですよ。とても面白いものを拝見させていただきました」
そう言いながら、彼女は早瀬様をチラリと見て、
「彼女には災難だったかも知れないけどね」
クスクス笑うその様に、私も思わず口元を綻ばせました。
「こちらにおとまりなのですか?」
「ええ。先程、チェックインさせてもらったばかりです」
道理で接客時に見なかった訳です。
これ程見目麗しい女性なら、記憶にない筈がありません。
「初めて来たのだけれど、いい宿ね、ここ」
「ありがとうございます」
私がそう言うと、女性は少し驚いた様に、
「あら、お嬢さんはここの関係者なの?」
「いいえ。わたし…あちらのおふたかたもそうですが、おりがみちょうやくばのしょくいんです」
と、女性の眼が僅かに細めました。
「降神町役場の…職員?」
「はい。こちらにはけんしゅうでとうりゅうさせていただいております」
「…そう」
女性はうっすらと微笑みました。
何故でしょう。
今度は背中がゾクリとするような感覚がありました。
「失礼だけど、お嬢さん、貴女の名前は…?」
「あ、わたしは『ごりょう さつき』ともうします」
「五猟…成程。成程ね」
女性は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと私に近付いてくると、右手を差し出しました。
言い得ぬ感覚に硬直する私に、女性が艶然と微笑みます。
「握手をしましょう、五猟さん」
「あ、はい…」
その手を握ると、女性は告げました。
「私は烏帽子。烏帽子 涼香というの」
女性の舌が、その赤い唇をチロリとなぞりました。
「よろしくね♡」




