私と彼の寝起き
「寒かったでしょう」
彼が言いごく自然に私の手をとって引っ張る。
自動ドアが開き中へ入りそのままエレベーターまで連れて行かれた。
広いロビーに辺りを見回す。
「ここは自社なのですか」
そう尋ねるとエレベーターの上の階数表示を見ていた彼はこちらを見て頷いた。
「出来たばかりなんだ。2年前くらいかな」
このご時勢にこんなの建てちゃうなんてすごいなー。いいなー。
チーンとエレベーターが止まり手を引かれたまま中へ入る。
手袋を忘れてすっかり冷えた手も彼のおかげであったかくなった。
そっと申し訳なくてその手から逃れる。
ちらりと彼は私を見たまま何も言わなかった。
エレベーターは最上階へ止まりドアが開くと長い廊下の置くにドアがふたつ。
彼の後に続いて左側のドアに入る。
そこは目が眩むほど明るくなっていて一瞬目を閉じた。
中からは彼がいつもつけている香水の残り香が部屋から漏れてきている。
「さ、どうぞ」
「お邪魔します」
そっと部屋へ入り勧められたままソファへ座る。
体が沈みすぎず、柔らか過ぎず固過ぎず、絶妙なバランスを保った本皮の黒いソファは、びっくりするほどすわり心地がよかった。
「珈琲しかないけどいい?」
マグカップ二つ持ったまま彼は戻ってきて私の向かいに座った。
ブラック珈琲とミルク珈琲。
それぞれの前に置かれ彼を見る。
「ミルクと砂糖でよかったんだよね」
両手で持ち上げ頷いてからありがたく頂く。
冷えた体に珈琲が染みていく。
いまこうしてこうなっているのはあの電話でそうなったから。
佐久間さんはお詫びなら今からここに来れないかと聞いてきた。
タクシー代はこちらで払うから、と付けて。
一瞬迷ったものの何もしないからの言葉を信用して大急ぎで駆けつけた。
「まだお仕事中なんですか」
半分ほど飲んで体も温まりコートを脱いで丸めて空いているソファに置く。
「うん。本当は休みたいんだけどね。溜まっちゃってて」
あれあれと指差す机の上には大量の書類の山。
ため息と共に佐久間さんが珈琲を啜った。
「なら、お邪魔なんじゃ」
そう言うと彼は大きく首を振った。
カップをテーブルに置きひとつ欠伸をする。
「ご覧の通り眠いんだよ。だから笹川君には見張っててもらって起こして貰おう思ってさ」
「そんな事じゃお詫びになりませんよ」
「いやいや、これを片付けないと社が動かないんだよ。だから重要な仕事なわけだ。それでぜひ笹川君にやって頂きたい」
「はぁ……」
「じゃあ決まりだね。俺が寝てたら遠慮なくひっぱたいて起こしてくれて構わないからっと、明日は仕事あるの?」
ひっぱたいて起こすのはちょっとと思いながら首を振る。
明日は休みで一日中ごろごろしてる予定だった。
「そう。ならよかった」
佐久間さんが立ち上がり奥の大きな机へ戻っていく。
やることも無くなり珈琲を飲み干してぼんやりと部屋の中を見回した。
シンプルな部屋は三方は白い壁で覆われていて佐久間さんの背面は大きなガラスだ。
都内にあるため綺麗な夜景が見える。
「わぁ」
小さく声を漏らして立ち上がりそこまでふらふらと歩み寄る。
その様子を彼は目で追っただけで何も言わなかった。
ガラスに触れないように顔を近づける。
夜なのにきらきらと至る所で電気がつけられ宝石箱の中のビーズみたいだ。
それも高級なガラスビーズかスワロフスキー。
「気に入った?」
ぽんぽんと判子を押す音と一緒に彼の言葉が飛んできて、そっちを向いて頷いた。
「そりゃよかった」
眼下を走り抜けていくタクシーのテールランプや消えていく明かりを見ているとふと彼の方からぽんぽんが消えたことに気づく。
窓から目を離しそっと近づくと書類に顔を埋めて腕を枕にしてすーすーと寝息を立てていた。
「佐久間さん?」
声を掛けてみるも起きない。
たたき起こすのはちょっとね。
体を揺すりもう一度声を掛ける。
「佐久間さん」
うーんと小さく呻き顔をより深く埋めた。
困ったなぁ、と重いながら何度も繰り返すが一向に起きず。
仕方なく彼の肩から腕に入り込むように顔を近づけて唇を耳に寄せる。
今からしようとしている事を考えると顔が赤くなっていく。
バレッタから抜け出た髪が彼の首元に垂れる。
小さく息を吸い囁くように声を掛ける。
「さ……礼、起きて。お仕事しないといけないんでしょう」
やはり睡魔には勝てなくて俺はうとうとと寝心地の悪い机で突っ伏した。
大丈夫、彼女が今日は起こしてくれるのだから、と安心していたのもある。
予想通り彼女は懸命に声を掛け体を揺すってくれた。
それが嬉しいのと楽しいので調子に乗りすぎた。
もうすっかり目を覚ましていたのに狸だったのだ。
そろそろ引っ叩かれるかななんて思っていたら、違っていた。
首元に埋まってくる彼女の顔。
石鹸とシャンプーの良い香りする。
首元に髪が不意に当たりぞわぞわと心をくすぐられた。
耳にやわらかい唇が当たり息がかかる。
「さ……礼、起きて。お仕事しないといけないんでしょう」
狸の振りをすればよかったのに目を開けてしまった。
彼女が咄嗟に離れようと体を起こしかけて幸運にも枕にしていない方の腕側に彼女は居たから、そのまま空いた手で彼女の背中を押さえた。
「さ、佐久間さんっ」
元々白い肌が真っ赤になっている。
目が驚きで潤んでいる。
長い睫、小さな鼻と唇。
「佐久間さん!!」
離れようと机に両手を当て俺の手を押し戻そうとしている。
手をずらし彼女の腰をしっかり抱えるように回してから体を起こす。
回転椅子を回し俺が起き上がった反動で離れた彼女の手ごと後ろに回した手で引き寄せた。
バランスを崩しもたれかかるように彼女が倒れてくる。
それを両手でしっかり受け止め抱き合う形にまで持ってきた。
「佐久間さん……」
どうにも出来ない体勢に彼女が呟く。
それは非難だろう。
「ごめん。ちょっとだけ」
ちょっとだけ、なんて、嘘だ。
ニットワンピース越しに彼女の体温と柔らかさが伝わってくる。
そっとすこしだけ体を離して彼女の顔を見れば真っ赤になり俺の後ろの床へと視線を落としていた。
友達になりたい、なんて、嘘だ。
最初に会った時に好きになった。
あんなに一生懸命他人の忘れ物を守って尻餅をついた彼女が可愛いと思った。
「だ、だめです」
ぽつりと呟く声にいたたまれなくなる。
このまま押し倒してキスをして愛してると囁きたいのを我慢する。
彼女が言った通り俺たちは身分が違い過ぎる。
この世界に彼女を巻き込む覚悟まで俺はまだ持っていない。
「ごめん、あんまり気持ちいいからさ。女の子とこうするのなんて久しぶりだ」
最後にこれくらいは良いだろうと強く抱きしめて彼女を解放する。
離れた彼女は慌てて数歩下がり下を向いたまま髪と服を直していた。
「ありがとう、おかげで机の上での朝は避けられそう。あと少しだから座ってまってて」
何もなかったように、平然と、これが普段どおりなんだよとでも言うようにさらっと伝え、俺はまた判子を押す作業へ戻った。