私と彼と会社
くつくつと笑いを抑えられず2通のメールを送った後に声を出して笑う。
彼女はかけてこないだろう。
いやかけてくるかもしれない。
確立は五分五分だ。
声を抑えながらも腹がよじれるくらいに笑った。
まさかこんな風になるとは思ってなかった。
そうだ珈琲を入れるんだったと立ち上がり部屋の端の戸棚からマグカップとインスタント珈琲を取り出してポットからお湯を入れる。
それを持ちソファへ向かおうとした時にそれは起こった。
ピロリンピロロピロリンピロロ……
着信を伝える音。メールとは異なるそれに慌てて珈琲をテーブルに置き携帯を見る。
知らない番号。
彼女じゃないかも知れないと落ち着かせ通話ボタンを押して耳に押し当てた。
「はい、佐久間です」
呼び出し音はなる物の出なくて勇気を振り絞ったのになぁと切ろうと耳から離したときに向こうから声が漏れた。
「え?あれ?あ、佐久間さんの携帯電話でよろしかったでしょうか」
向こうで小さく息を漏らした音がする。
「うん、そう。笹川君だよね」
「あ、はい。そうです。あのこんばんわ」
取って付けたようにあいさつをする。
胸がドキドキしている。
今のところ怒ってないみたいだけど。
「こんばんわ。悪いね、電話かけさせて。こっちから折り返そうか」
「いえ、大丈夫です」
マグカップを持ち上げ水を一口飲んだ。
「あの、さっきはすみませんでした。あんな事言ってしまって」
そう切り出す。言葉が途切れても佐久間さんは何も言わない。
いつもならフォローするように何か言ってくれそうなものなのに。
「佐久間さんの事何も知らないのに、決め付けるような事言ってしまって本当にすみません」
電話の向こうで静かな呼吸音が聞こえる。
話は聞いてくれているんだ。
「あんな事言ったばかりで図々しいんですが、私、佐久間さんと友達になってみたいなと思いまして、その、いかがでしょうか」
ふっと笑う声が聞こえた。
張り詰めてる空気が緩く和らいでいく。
「もちろん、喜んで。メールに、お詫びって書いてあったけど」
「あ、はい。もちろん。あの高いお店とかでご馳走は少し無理ですがいつもの喫茶店で珈琲くらいなら」
「いやいや、そんなのいいよ。それよりさ」
その先の言葉に電話を落としそうになった。
とりあえずわかりましたとだけ返事をして立ち上がる。
髪をドライヤーで軽く乾かし、クローゼットを開く。
いつものカジュアルな格好じゃきっと可笑しいだろうからと、下着とおそろいの長めのつるつるした素材のキャミソールの上に濃紺のシンプルなニットワンピースを着る。
ストッキングを履き軽く化粧をして眼鏡を掛ける手が止まった。
コンタクトケースを開け入れ入れと祈りながらなんとか目にはめる。
合皮のエナメルだが黒く程よい大きさのバッグに財布と手帳とハンカチと携帯と化粧ポーチと家の鍵を突っ込んでクローゼットに掛けてあったライトグレーの薄手のコートを羽織った。
黒いモヘアのマフラーを緩くまき最後に髪をさっとまとめて鼈甲色の2本の板が捻ってあるデザインのバレッタで止めると黒のヒールの靴を履いて外へと出る。
近所迷惑にならないように足音を抑えながらタクシーを電話で呼んだ。
アパートの入り口で待っているとオレンジ色のタクシーはすぐに来て目的地を告げ走り出す。
バッグのポケットから安物の金メッキの大小の薄い輪がいくつか連なってるピアスをはめる。ついでに金チェーンにトップにパールがひとつついているネックレスをしてようやく一息ついた。
「なんだかお急ぎみたいですね、こんな夜更けに」
私のどたばたした様子を見ていたのだろう運転手さんに言われ赤くなり下を向く。
「すいません、馬鹿にしたつもりじゃないんですよ。お詫びにどうぞ」
彼が指差すコイントレーには飴玉が二つほど乗っていてありがたく頂くことにした。
「もう真夜中ですけどどちらまで?」
「人と待ち合わせを急にすることになって」
あぁ、そうなんですか。と彼は言いそれきり何も言わず代わりにラジオの音を大きくしてくれた。
恋愛ソングが流れている。
前向きに彼のためにがんばる可愛らしい感じの曲。
別に恋しているわけじゃないけれど、せめて格好だけでも彼に合わせたくてがんばった私に自分で驚く。
そんな事今までしたことはなかったからだ。
窓ガラスに頭をつけそっと夜景を見つめる。
あの中のひとつに彼が居るのだろうか。
電話が鳴り書類に判を押す手を止めてそれを受けた。
「もしもし」
向こうでははぁはぁと息を整えている音。
それを十分に待っていると声が聞こえてくる。
「笹川です、下まで着ました」
「わかった、ちょっと待っててね」
通話を切り立ち上がる。
机の上はこのままで良い。
応接セットは軽く片付ける。
カップ麺の容器にチョコの包み紙を入れふっと息を掛けてごみを飛ばす。
上着を羽織それを持ったままドアを出た。
給湯室のゴミ箱にまとめてぽいっと捨ててからエレベーターを呼ぶ。
誰も居ないためそれはすぐに到着しロビーへと俺を連れて行った。
普段は明るく人の多いそこの外で彼女は立っていた。
いつもとは違いずいぶんと大人びた格好をしている。
寒そうにハンドバッグを腕で挟み両手をすり合わせている。
ID付の社員証で自動ドアを開けて外へと出た。
物音に気づき彼女が振り返る。
いつもより薄い化粧、しかし目元と口元はいつもよりしっかりしている。
俺を見て頭を深く下げてから顔を上げにこりと笑った。