俺と会社と祐樹
「何だかご機嫌ですね」
ほとんど振動が伝わらない自家用車に揺られ高速をただひたすら自社へ向かって走っていると酒井がそう言った。
夜景に変わりつつある都内の風景を横目に俺は鼻歌を歌っていたらしい。
「そう?」
前を向きそう告げれば、バックミラー越しに酒井が頷く。
彼の運転は繊細で穏やかで安心出来る。
俺が幼い頃からの付き合いで、実の父親よりもずっと長く一緒に居たような気がする。
だからこそ俺の変化がすぐに分かるのかもしれない。
「えぇ、何だか楽しそうです」
そういう酒井の顔もどことなく嬉しそうに見え、けれど、そうか、ばれるのはまずいなと、顔を引き締める。
普段通りの顔に戻れば、酒井はそれ以上何も言わずにただ黙々と運転に集中し始めた。
佐久間商事という中小企業を大企業と肩を並べるまで業績を伸ばしたのは先代から引き継いだ俺だった。
グループの中で後れを取っていた小さな輸入会社を大規模に事業拡大した。
そうせざるを得ない事情があり、そうせざるを得ない状況があり、そうするために俺は生きてきたようなものだった。
その為と言っても過言ではない、学生の頃に留学して学んだ英語が大いに活躍したし、学んだ経済学も活躍した。
けれど、それだけじゃない、運が良かったのだ。
日本の景気が悪くなればなるほど安く仕入れられる。
それを強みにここまで伸し上がった。
関東圏を中心に全国に店舗を構え各国から輸入した食品やら生活雑貨やらを販売している。
そんな規模になると俺の生活にも変化が現れた。
まず時間がない。
子供のころだって大して自由なんてものはなかったけれど、それ以上になった。
分刻みのスケジュール、数年先まで一杯に埋まったそれに次第に狂気が生まれた。
自由にならない生活。
いつ鳴るかも分からない電話。
手放せないパソコン。
「祐樹、怒ってた?」
彼女に部下と告げた、その通りの、そいつの様子を不意に酒井にそう尋ねるとちらりとこちらを鏡越しに見てから無言と言う返答が返ってきて、それだけで相当お怒りらしいと判断しため息をついた。
「だよね」
呟きまた視線を外へと向けた。
さっきまで一緒だったあの小さな彼女はもう家に着いただろうか。
どこでどんな風に暮らしているんだろう。
好きな服を着て、好きなものを食べて、テレビを見て。
そんな風に、俺とは全く正反対の暮らしをしているんだろうか、と思う。
けれど、同時に、その想像でしかない彼女の生活に、心の底から憧れているのかもしれないと思う自分に驚いた。
彼女は限りなく自由だろう。
何にも縛られる事なく好きに仕事を選び自由に働き。
「俺もフリーターになろうかな」
ぼそり、と漏らしたそれに、ごほんと咳払いを酒井がし、冗談だよと俺は付け加えた。
長風呂しすぎて頭がぐわんぐわん回ってしまい、風呂場を出た玄関の前でへたりこんでしまう。
誰か来た時の事を考えて一応バスタオルは巻いているものの無用心この上ない。
狭い1Kの間取りでは風呂場と部屋とトイレは分かれている物のすぐに玄関という有様だ。
家賃5万に惹かれて借りたこの部屋は冬はとてつもなく寒い。
「うー……」
目の前のシンクの側に伏せてあったグラスに水道水を汲んでごくごくと喉を鳴らして飲む。
少しだけ頭がすーっと冷たくなったような気に立ち上がりふらふらと部屋へ向かった。
風邪なんか引いたらたまったもんじゃない。
今日だってそう思われたのだからいざそうなっても休めるはずがない。
狭い部屋を半分以上占領しているベッドにダイブしてなんとか部屋着を着る。
「はー……」
濡れた髪のまま仰向けになり白いくすんだ天井を見つめる。
静かな部屋の中に隣から漏れる大学生の御盛んな声が小さく響く。
一度見ただけの隣の大学生の男の子の恋人は抱きしめたら壊れそうなほど痩せていた。
「言いねぇ、若いって」
恋人居ない暦5年。
大学の途中から独り身の私にとってはその声は正直辛い。
床に置いてあった鞄を引き寄せ中からポータブルプレイヤーを出してイヤホンを耳に当てる。
とにかく何でも良いから再生し目を閉じた。
けれど目を閉じれば思い出すのは、なぜか彼の事で、ほんの少しの間の姿は目に焼き付いていた。
仕草や声や顔、それに名前まできちんと思い出して、ふふっと笑ってしまう。
佐久間 礼。
さくま れい。
れいってなんか良い響き。
すごくお坊ちゃまって感じがする。
目を開け携帯を取り出す。
次いで佐久間さんの名刺を取り出しそこに書かれていたメアドを手入力で打ち込んだ。
本文を選択し少し悩む。
勢いでメールを出そうと思ったは良いけど何を書けばいいんだろう。
悩んで捻った文章は、ごくごく一般的なお礼の文書になってしまい、なんだかなぁと最後にまた悩んだ末にこう付け加えた。
また是非誘ってください、と。
どうしてだか知らないけど彼は私をまたと誘ったんだから、今度は高級なお寿司でもご馳走して貰えばいいやと軽い気持ちだった。
ピロリロンと間抜けな音で携帯が鳴ったのは会議も終わりこってりと幼馴染で副社長の祐樹に絞れてる時だった。
仕事柄、互いにどんなに重要は話をしている時でもどちらかの携帯が鳴ると会話を止める習慣があり、例に漏れず、彼の言葉が止まったので、遠慮なく携帯をいじる。
メールを開いた瞬間、息が止まるかと思った。
思ったとおりに几帳面で礼儀正しい文章がつらつらと並んでいる。
文末にはきちんと笹川と名前が書かれていた。
画面の端の三角形がまだ下に文章が残っているのを示していて、画面をスクロールさせる。
また是非誘ってください。
簡潔な社交辞令のような文章、しかし、本当にそれが社交辞令なら本文中、名前の上に書くはずだと俺は思う。
「何だよ、にやにやして」
祐樹のこめかみがぴくぴくしているのを見て慌てて携帯をしまう。
それから両手を合わせて拝むようにして頭を下げた。
「悪かった、本当に悪かった。今度からちゃんと言うから」
緊張とプレッシャーと重圧に負けた俺は今日会社を抜け出した。
というか昨日も抜け出した。
一人で電車に乗るのも久しぶりだったし外を歩くのも久しぶりだった。
普段とは違う事がしたくてあの店に入って、祐樹からの電話に慌てて社へ戻ろうとしてパソコンを忘れたのだった。
「いや、今度じゃねーよ」
ばんっと机を叩く音が響く。
ここは本社の最上階の社長室だ。
俺の部屋の俺の机には祐樹がどっかりと座り睨んでいた。
「いや、でも、俺も自由な時間が欲しい」
そりゃそうだろうけどと祐樹の顔が呆れたようになった。
幼馴染の祐樹を事業に誘ったのは俺だ。
昔から俺より頭の回転が速く何でもこなす彼はどうしてだか就職出来ずに困っていた。
元より就活などしなかった俺には分からない苦労がきっとあったんだろう。
ひとつ返事で俺の元で働いてくれ、ここまでするのに需要な役割を果たしてくれていた。
「とにかく、調整はするけど、期待はするな」
やっと椅子から立ち上がり俺の横を通り抜ける。
秘書を雇うほどの余裕が無かった頃からスケジュール管理は祐樹の仕事だ。
「そういう時はやってくれるって分かってるよ」
机の脇に置かれた山積みの書類を少し取りながら後姿に言うと手をひらひらと振って部屋から出て行った。