俺と彼女と
ホテルを出ても尚その足は止まらず酒井さんさえ呼ばないで街中へとそのまま出る。
クリスマスイブとあってか人混みが私を襲う。
何人もとぶつかりその度に謝りながら強く握られた手で引っ張られる。
「佐久間さんっ」
そう声をもう何度もかけているのにちっとも彼は振り向かない。
聞こえていないはずなんか無いのに。
どうして、どうして怒ってるの?
私何か失敗した?
不安が胸をついて目が潤む。
周囲の景色がぼやけて涙が頬を伝う。
ついには歩けなくなって立ち止まる。
ようやく彼が止まって私を見た。
息を飲む音。
「さ……くまさっ」
ふぇっと声が漏れる。
もうだめだ。
瞬きをする度に涙がボロボロこぼれる。
どうしてこんな事になったんだろう。
本当にツイてない。
家が火事にならなければ、あの日出掛けたりしなければ、パソコンを見つけなければ、交番に人が居れば、実家に帰ってれば。
次から次へと押し寄せる後悔の念が私を駆り立てて涙の勢いは増すばかりだった。
彼は立ちすくんだままきっとそれを見ている。
でも、もう、関係ない。
恥でもなんでもかけば良い。
しゃくり上げる私の頬を冷たい彼の手が拭う。
顔を上げると初めてみる表情。
子供が怒られた時のように苦痛に歪むそれに涙が一瞬止まった。
口を開閉し何かを言い掛けては止める。
それから意を決したように手を引かれ今度はゆっくりしたペースで歩き始める。
しばらく歩いて角を曲がるとそこは大通りの裏の裏の裏で、昼間だと言うのに人通りがほとんど無かった。
飲食店の換気扇から色んな匂いが混じって辺りを漂う。
彼が歩道の真ん中で立ち止まった。
手が緩み離れていく。
私を振り返って未だ苦痛に満ちた顔で見つめる。
「ごめん」
泣かせてしまったと後悔する。
一瞬冷静になったけれど、もう、無理だ。
一度は止めた足を今度はゆっくりと動かしうろついた挙句裏通りへとやってきた。
彼女を見つめて一言謝るも反応が返ってこない。
最悪だ。
絶対に嫌われた。
嫉妬を剥き出しにした哀れな男なんて彼女には似合わない。
まだ濡れている頬をそっとまた拭うと彼女がびくりと体を震わせた。
あぁ、そうか。
もうこうやって触れる事すらままならない。
「ごめん」
触れた事に謝ると彼女の顔に恐怖を帯びた表情が浮かぶ。
そりゃそうだ。
こんな所に連れて来られたのならそうも思う。
幸せになれよ、礼。そんでその分相手を幸せにしてやれよ
祐樹はそう言った。
でももうそれも叶いそうに無い。
はぁっと息を吐き繋いでいた手を離す。
籠に閉じ込めた小鳥はいずれ逃げたいと願うのだと言うように。
離れた手を見つめてから彼女が俺を見上げた。
ほら、行けよ。
家に帰ってからネカフェでも実家でも好きな所に行けば良い。
「佐久間さん?」
どうして彼女は逃げないんだろう。
そんな風に恐怖を帯びたまま心配そうに俺を見上げたりしないでくれよ。
「佐久間さん?」
今日の彼は変だ。
すごく投げやりで顔にも笑顔が戻らない。
いつも笑っている穏やかな彼はどこへいったのだろう。
どうして消えてしまったんだろう。
離れた手をもう一度見つめる。
離れた事で安心した気持ちが半分と寂しいと思った気持ちが半分。
あれ。
私どうして寂しいなんて思うんだろう。
あれ。
もしかしてさっきの茶髪の人との様子見られてたのかな。
自問しながら頭を下げる。
すみませんって言ったらまた怒らせるだろうか。
「すみません」
それでも出た言葉はいつも通りだった。
顔を上げると彼は困った顔をした。
いや、違うんです。
笑って欲しいんです。
貴方には笑顔が似合うから。
私なんかの為にそんな顔をしないで欲しい。
「笑ってください」
そう顔を顰めたまま告げると彼はひどく驚いた様子で目を開く。
それから顔が赤くなった。
私のように俯いて下を見る。
あぁ、逆効果だったと、告げた言葉を後悔する。
どうして、いつものように笑ってくれないんだろう。
彼の気持ちを知りながらそれでも無視をした罰だろうか。
「笑ってください」
謝られて胸が締め付けられた後に告げられたのは予想を超えた言葉だった。
何だってと頭が軽く混乱する。
いやそんな顔で見ないでくれよ、そんな嬉しい事を言わないでくれ。
理性が吹っ飛んじゃうじゃないか。
慌てて熱くなる顔を下へ向ける。
もう顔を見る事さえ出来ない。
今すぐ抱きしめてしまいたい。
そうして気持ちを伝えたい。
「佐久間さん?」
だから呼ぶなって、と思う。
聞こえない振りをしてそのまま立ち尽くす俺のコートの裾を彼女が引っ張った。
くいくいと引かれ、理性を抑えていた最後の良心が音を立てて崩壊していく。
あぁもうとじれったくなりその手を取り引っ張る。
軽い小さな体は俺の中にすっぽりと埋まってしまう。
背に手を回し力を篭める。
いつかしたように後頭部に顔を埋める。
胸が熱い。
鼓動が速い。
目頭が熱くなって涙が流れる。
口を開いては閉じてまた開いて閉じる。
腕の中で俺の名を呼ぶ。
佐久間さん、佐久間さんって、何度も。
告げて良いのだろうか。
彼女を困らせるだけでは無いだろうか。
それでももう崩壊しかけた関係性は戻らないのだと、覚悟を決めた。
「佐久間さん?佐久間さんっ」
何でこうなるんだと問い質したくなる。
いや違う。
この展開は非常にまずい。
なんとか逃れようと身を捩るもそれを彼は許さなかった。
頭にぴったりとくっついた顔から息が漏れている。
「佐久間さん、離してください」
もう一度強く言うと頭の上で首を振る動作。
いや、だから、このままじゃ、まずいって。
「嫌だ」
鼻に掛かった声。
泣いているのと見上げようとするも動かない。
どうしてこんな時にと思ってこんな時だからだと冷静に判断する自分が居る。
「嫌だじゃないですって、離してくださいよ」
押すが動かない。
くそ、男の人って本当に力が強い。
普段隠してる分、性質が悪い。
「嫌」
嫌じゃねーよと暴言を吐きそうになる。
あぁ、神様。
どうかどうか彼にその言葉を言わせないでください。
クリスマスなのだからと信じても居ない神に祈るが普段の行いが悪いのかそれは届かなかった。
彼の頭が私の首元に掛かる。
ぴっちりと抱きしめられていて手も上げられない。
耳元に唇が寄る。
辺りは静まり返っている。
どんな小さな声でもそんな風にされたら聞き取れてしまうだろう。
「……好きなんだ」
来るべき時が来たと思った。
逃れられない言葉に顔が赤くなる。
首元が冷たくなっていく。
涙だろう、それは。
彼が泣いている。
どうしてだろうと考えるほどもない。
鈍い私にだって分かる。
怖いんだ。
私が居なくなるのが、大事な人が居なくなるのが。
自分が傷つくのも私が傷つくのも彼にとっては恐怖だろう。
そう言う人だから、頼ったのだ。
そう言う人だから、大事に思った。
そう言う人だから、美味しい物を食べて欲しいと。
そう言う人だから、何をされても今まで一緒に居たのだ。
「君の事が好きなんだ、誰よりも一番大事で。だから泣かせるつもりなんて無かった」
低くそれでいて伸びのある綺麗な声が、気持ちを告げる。
私だけに届くように耳元でそっと。




