私と彼の家
ホテルのトイレって広い。
天井まで届く長い扉を開け、着替えまで出来そうな個室から出て手を洗う。
陶器で出来た蛇口から、お湯が出てきて小さく感動。
その脇に設けられたメイク直しのスペースはひとつひとつ透明なガラスで仕切られ椅子と洗面台まで付いている。
そのひとつに座り化粧をさっと直す。
もう面倒くさいから真っ赤なままで良いやと口紅を引き、解けたままだった髪をまとめてバッグからバレッタを出して止める。
「大丈夫かな」
立ち上がり鏡で全身を見る。
うん、大丈夫。
スーパーで買った1980円の濃紺のニットワンピースはそんなに悪く見えないし、安物だけどちゃんと貴金属もつけてる。
ぱんぱんと一応スカートの汚れを払い外へ出る。
レストランへ戻り給仕の方々に頭を下げられながら足早に奥の部屋へと入った。
中に入るともうすっかり綺麗に片付けられていて、彼が座って新聞に目を通していた。
「おかえり」
扉の開く音で気づいたのか、新聞を畳んで置き彼が立ち上がる。
傍らに置いた二人分のコートを颯爽と抱え、部屋の入り口で止まっていた私の手を当然のように取りそのままドアを出る。
支払いはどうやら私が席を外していた間に済ませていたようで、また頭を下げられながらエレベーターに乗り込んだ。
そこまで給仕してくれていた少し年配の男性が見送ってくれた。
「今日さ」
行きと違い人が何人か乗っているエレベーターで身を少し屈めて彼が私に囁く。
ふわりと香る、覚えてしまった彼の香りが鼻腔にくすぐったく肩を竦めれば、さらっと彼の言葉が耳に入ってくる。
「俺、オフにしたんだ」
えっ、と返す前にエレベーターは一階に着いてしまい、流れに逆らうこと無く外へ出る。
聞き返す間を与えてくれないまま、彼は私の手を引き、フロントの方々へ軽く会釈をしながらロビーを抜けて、酒井さんが待つ車にあっという間に乗り込んだ。
「あ、あのっ」
さっきの言葉の意味くらい私にだって分かる。
休み?多忙のはずなのに、こんな週の真ん中に休みなんて取れるの?
ん?と顔を向ける彼にそう尋ねると、笑いながら衝撃の事実を発した。
「今日の分、昨日の夜にやったからね。よかったよ、笹川君がお休みで」
ふふっと笑う彼の顔は、なんだか、子供みたいだった。
「だから今日一緒に遊ばない?」
やっぱり少し強引だと思いながら、ただ、それに選択肢は無いんだろうなと思って頷く。
でも、彼と一緒に居るのは思ったより悪くないのも事実だ。
何て言うんだろう。
彼は私を咎めたり馬鹿にしたり弄ったりからかったりしない。
「よかった。じゃあちょっとその前に部屋に戻って着替えだけさせてね」
その言葉を待っていたかのように車がゆっくりと発進する。
え?え?
部屋ってそれって家ってことですよね。
大和撫子な私は出会ったばかりの男性の家なんて行けませんっ。
それは、私の顔に思いっきり出ていたらしく彼が吹き出す。
「大丈夫、何もしないから。だって友達でしょ」
その言葉に違うんですっ、と、言いながら私はまた顔を赤くした。
そのホテルから割りと近い所に彼の住まいはあったらしく5分程で到着した。
大きなマンション。
見上げると首が真横になるくらいに高い。
中に入らなくても、一目で高級だと分かるのは、高さだけじゃないと思う。
「ほら、行くよ」
ぼんやりと見上げたままの私に、彼が声をかけ、顔を戻せば先に歩き始めていて慌ててそれを追う。
立派なガラスのドアが自動で開き、中にあるもうひとつのガラスのドアを、彼はオートロックを解除して中へ入る。
ホテルを思わせるようなロビーにはカウンターがありコンシェルジュが頭を下げてくる。
「佐久間様、お帰りなさいませ。郵便物は後ほどお届けにあがりましょうか」
二人居る内の男性がそう声を掛けてきて佐久間さんは一度足を止めてから明日にしてくれると言い返事を待たずにエレベーターへ向かう。
二人に会釈してその場を離れ彼の後を追った。
「明日で良いんですか?」
4台あるうちのひとつがすぐに到着し中に入りながら尋ねると彼はうんざりした顔をした。
「だって、一ヶ月分だよ?そんなのオフの日に見たくないよ。明日会社に持ち込んでチェックしたって一日位の誤差は変わらないって」
確かに、と思う。
一週間だってポストを覗かないとあれはすぐにいっぱいになってしまう。
エレベーターが最上階へとたどり着く。
佐久間さんが先に出ると細い廊下が目の前にある。
部屋は全部で3つしかないようでびっくりする。
立ち止まった私を彼が手招きし南側のドアの前に誘導する。
二つ付いている鍵を順番に回してドアを開けた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
目の前に広がるのは長く幅の広い廊下。
ピカピカに磨かれたそこを彼は靴のまま上がる。
アメリカ式なのねとそれに倣い、フローリングに傷が付かないように気をつけて歩く。
突き当たりまでにドアが5つ。
2つはトイレとバスルームだろう。
突き当たりのドアはすりガラスになっていてそれを彼が開き中に先に入るようにエスコートされる。
入った瞬間にもう目玉が飛び出るかと思った。
広い。
とにかく広い。
横に広がる大きな空間。
私の狭い1Kが三つくらい入ってしまいそうだ。
何畳あるんだろう。
10人くらい座れそうな応接セットが向かって右側にある。
テーブルの上にはガラスのスタンドが置かれ、さっぱりした模様のカーペットが敷いてある。
その先には映画館みたいな大きなテレビ。
ステレオとスピーカーも揃ってる。
大きなポトスの鉢は素焼きで窓際に鎮座ましましてる。
左側には6人がけのダイニングテーブル。
真ん中にはガラスの器が置かれ中にはお菓子が入っていた。
その脇には大きな食器棚があり高そうなグラスや食器がきちんと収められている。
そして窓ガラスの向こうにはベランダ、ではない、広いルーフバルコニーがある。
日差しがこれでもかと差し込み、柵の沿う様にプランターが置かれ色とりどりの花が植えられている。
二人掛けの白い金属の透かし模様のテーブルセットもありその上には白いパラソルが張ってあった。
「ごめんね、散らかってて」
テーブルの上に鍵を置きコートとスーツの上着を脱ぎながら彼が言う。
とんでもない、とても綺麗です。
そう、まるで、モデルルームみたいにすごく綺麗。
「その辺座って待ってて。探検してても良いから」
手をひらひら振って彼が廊下へ消えていく。
その後姿を見届けてから、バッグをとりあえずソファに置き窓ガラスへ向かう。
鍵を開けそっと窓を開けるとびゅうっと風が舞い込んでくる。
慌てて外へと出ると思ったよりも風が強い。
マフラーが飛ばされないように押さえて柵まで歩く。
「すごい眺め!」
都内の景色一望だ。
ビルが小さくジオラマのように見える。
人が点のようにしか見えなく、車はマッチの先くらい。
高所恐怖所じゃなくてよかったって、本当に思うくらい素晴らしい眺めに、見える範囲全部をしげしげと見渡してから、上を向けば、空がすごくすごく近くて眩しすぎる日差しに目を閉じる。
「気に入った?」
不意に響いたその声に振り向くと、彼が着替えた姿で立っていた。
濃いベージュのチノパンに薄い水色のシャツ。
Vネックのライトグレーのカーディガンを羽織、ダークグレーのマフラーを巻いている。
頭がちょっと濡れていてシャワーを浴びたのだと容易に想像出来た。
「はいっ」
彼がこっちへ来て私の後ろに立つ。
体重を掛けないように私の目線まで屈みこみ、指をさしながら話始める。
風に紛れて、嗅ぎなれない、けれど、ものすごく芳しい石鹸の香りがする。
「あっちが都庁で、あっちが東京タワー、あれがスカイツリーだよ」
確かにそう言われてそっちを見れば本当にそこにそれがあって、うんうんと頷きながら聞いた。
あれは何ですか、とか、あっちはね、とか、そんな会話をしばらく続けて、ふっと振り返ると彼の顔が側にある。
お互いの動きが止まり一瞬の間を置いて慌てて離れた。