私と彼とあさごはん
驚くほど快適で広い車内で向かい合って座ったまま佐久間さんは電話を掛けている。
運転手さんは酒井と申します、と、私に挨拶をしてくれて私も、笹川です、とだけ返しておいた。
朝の道路の殺気立って居る様子がフロントガラス越しによく見える。
ふと気が緩み欠伸が出そうになって俯く。
彼が酒井さんの方へ顔を出し耳打ちするとかしこまりましたという酒井さんの言葉だけ聞こえた。
「あの」
声を掛けて佐久間さんを見る。
取れかかったワックスがついた髪を両手で上に上げていた彼が手を止め私を見る。
「駅までで結構ですから」
彼の顔に疑問が浮かぶ。
家まで知られるのは何とか避けないといけないと思いつつそう言ったのだが通じなかったのだろうか。
「駅って、あのコーヒーショップの?」
通じてたじゃんと思いつつ頷く、彼はうん、わかったと言いそれきり足を組んで私を見つめた。
「何かすみません、送っていただくなんて」
交通費さえあればすぐに自分で帰ったんですけど、とは付け加えず頭を下げる。
彼がそれにクスクスと笑う。
「笹川君は謝ってばかりだ」
「すみません」
「ほら、また。何も悪いこと何かしてないんだからそんなに謝らなくてもいいのに」
人に謝罪をするのは私の処世術のひとつだ。
たくさんのアルバイトを渡り歩く内に従業員にもお客様にもそうしておく事が最善だと気づいたから。
「癖、みたいなもので」
しどろもどろにそう言うと彼は笑みを作ったまま私を見た。
「ずっとそうして来たので」
「そう」
相槌を打たれ次の言葉が見つからない。
「あの、すみ……」
頭を下げながらまたそう言おうとした所で彼が体半分乗り出して大きな手で私の口元を押さえた。
ふわりと香るのはタバコの香り。
「だから、謝らなくていいって」
言葉と一緒に息まで飲み込んで頷くと、彼の手と体が離れていく。
沈黙が流れものすごく恥ずかしくて俯いた。
「いつもそうやって下を向いてるけど、それも癖?」
窓の外を見たままの彼から不意に言葉が掛けられ顔を上げた。
それから小さく頷く。
口を開けばまた謝ってしまいそうだから。
車が静かに止まり酒井さんが外へ出た。
ドアを外側から開けて着きましたと一言。
彼が先に外に出てから私に手を差し伸べる。
「着いたよ」
その手を取り外へ引っ張られるように出ると大きな高級ホテルが目の前に鎮座していた。
思わず顔を上げてそれを見上げる。
その拍子にバレッタが外れて髪が解けていく。
彼がそれに気づき落ちる前にバレッタを受け止め体を起こす。
「笹川君は顔を上げて居た方がいいよ、可愛いんだから」
私の顔を過ぎる辺りで私にだけ聞こえるように耳元でさらっと甘い言葉を囁かれ思わず彼を見た。
変わらぬ笑顔、差し出されたバレッタを受け取りバッグへとしまう。
「食事に誘うって言ったでしょう」
手を彼が差し伸べてきてもうごくごく自然にそれに重ねた。
すっと彼が私の手を引き寄せ自分の腕に掴まらせる。
そのままホテルの中へと二人でゆっくりと入っていった。
チェックアウトをする客でごった返すロビーを抜けエレベーターへ向かう。
顔見知りが何人か居るようで途中途中で挨拶をしていく。
英語だったり日本語だったり他の国の言葉だったり。
空になったエレベーターに乗り込み佐久間さんが4階を押した。
「こんな時間に上に行く人なんか居ないから貸切だね」
「そう、ですね。どこへ行くんですか」
高級なホテルってエレベーターの中に表示が無いんだって思いながら尋ねるとその答えよりも早くそれは目的階へと到着した。
がやがやと雑音が響く目の前に広がるのはホテルのレストランで多くの人が思い思いにバイキング形式の朝食を食べている。
給仕をしていた男性が私達に気づきすっ飛んでくる。
頭を下げこちらへと先導して歩き始めそれを追う。
連れてこられたのはレストランの奥の個室というやつで、長いテーブルがひとつ、椅子が左右で10脚ずつ、全部で20脚置いてあった。
部屋の奥へ行きテーブルの短い方にある椅子に彼が座りその左斜め前に私を座らせる。
メニューも何も出てこなくてただ水だけが透明なゴブレットに入って出てきて遠慮なくそれを一口飲んだ。
しばらくするとノックと共に扉が開き銀のワゴンを押したさっきの男性が入ってくる。
まず彼の前にクロッシュを外したプレートを置き私の前にも同じ物が置かれる。
二人を挟むようにさまざまなパンが入った籐製の籠が置かれスープ皿がプレートの横に置かれ、ナイフとフォークが2本づつ。
スープ用ともうひとつスプーンが置かれ。
「お飲み物はいかがなさいますか」
もう目の前の光景に白黒なってると彼が目で合図をくれる。
いや、でも、何があるか分からないし。
どうしたらいいの。
「朝ですので紅茶は如何ですか。オレンジジュースもございます」
さすがは一流ホテルです。
私が何があるのですかと訪ねるより先に気を利かせてくれる。
「あ、じゃあ、紅茶で。レモンをつけて頂けますか」
かしこまりましたと笑顔で答える男性に胸を下ろす。
彼は手馴れた物で珈琲をアメリカンでとオーダーし男性は頭を下げてワゴンを押して帰っていった。
それからすぐに今度はトレーに飲み物を乗せて戻ってくる。
私の前にカップを置き目の前で大きなポットから薄い茶色の紅茶をカップに注いでくれる。
辺りにアールグレイの豊かな香りが充満する。
彼にも同じように珈琲をポットから入れると、ポットをトレーに乗せたまま退室していった。
「なんかすごいですね」
目の前のプレートを見つめる。
バターの甘い香りが漂う半熟のとろとろのスクランブルエッグに種類の違うハムが二枚とソーセージが3本。
ベビーリーフとレタスのサラダにくし型に切られたトマトがふたつ。
その隣にはマッシュポテトまで乗っている。
スープはコンソメで野菜類を煮た物でこちらも良い香りがしている。
何から何まで私の知らない世界だ。
いや、違う。スクランブルエッグもソーセージもハムもみんな知ってるけどこんな高そうな白い食器で食べないし、スープだってマグカップだ。
「そう?」
彼がナフキンを広げ膝に掛けてからパン籠からトングでロールパンをひとつ取って私のパン皿に乗せてくれる。
もちろんパン皿の脇にはバターが小さな器に入っている。
「ありがとうございます」
自分の皿にも同じようにした彼がナイフとフォークを取って私を見た。
同じように真似をしてから小さく呟く。
「いただきます」
その言葉に彼が驚いた後、同じように、いただきます、と呟いてスクランブルエッグへナイフを入れた。