私と徹夜と口紅
心臓が壊れたみたいにドッキンドッキンしてる。
手が震えて胸の前で右手を前に組んだまま私はそこから動けなかった。
佐久間さんは何も無かったように平然と仕事を続けてる。
「どうしたの?どっか打った?」
手を止め心配そうに見てくる彼に首を振りその視線から逃れるように応接セットへと戻る。
ぼふんと小さな音を立ててソファに沈み手を膝について目を床へ落とす。
えぇっと何が起きたんだっけ。
佐久間さんがあまりにも起きないからちょっとした悪戯心で彼女っぽくやってやろうって思って。
でもそれはすごく恥ずかしくて、真っ赤になりながら、耳元で名前を……、そう苗字じゃなくて名前を呼んだんだ。
なに冗談なんか言ってんのって笑いながら驚いて起きてくれるって思ってたのに、彼は私を抱きしめた。
ごめん、ちょっとだけ。って言いながら。
なんで?なんで??
自分がちょっかいを出したのに泣きそうになる。
上流階級の人達の友達ってこんな事までするの?
シャンパン片手にHAHAHA!て笑い合ってたりビリヤードやったり、ポーカーやってんじゃないの?
やっぱり取り巻きの一人にしたいだけ?
こんな気合入れた格好してこなきゃよかった。
あんな格好良い人なんだから女の人の一人や二人ううん、もっとたくさん居るに違いない。
私はそんな安っぽい女とは違う。
下瞼にはいつの間にか涙が滲んでいて視界がぼやける。
すくっと立ち上がりバッグだけ持ってドアの方へ向かう。
異変に気づいた佐久間さんが私に声をかける。
泣きそうなのも見られたのだとしたら居たたまれない。
「化粧室?」
くそ、こんな時までスマートで格好良い。
男性の口から化粧室なんて出ると思わなくて頷く。
帰ろうかとも考えたけれどここまで来るタクシー代でお財布はほぼ空っぽだ。
何よりそれは取り返さないと明日から生きていけない。
「出てすぐ先のドアだよ。すこし奥まってるから分りづらいかも」
立ち上がろうとする彼を首で制止そっとドアを開けた。
薄暗い廊下には誰も居なくてゆっくりと歩き出す。
履きなれないヒールの靴に爪先がすごく痛い。
壁を手で伝いながら何とかトイレにたどり着きドアを開けた。
そこはセンサーで電気がつくらしくすぐに明るくなる。
とりあえずトイレに入って座り込みトイレットペーパーで涙を拭って鼻をかんだ。
用を足してから外へ出る。
鏡の前に立ち手を洗ってバッグからカバのポーチを取り出し少し崩れた化粧をというより薄いそれを濃く変えていく。
ファンデーションを塗りなおしチークを乗せる。
チークは濃くならないようにふわりと見える程度。
しっかりと眉を眉尻まで書き瞼の上にはゴールドとブラウンのアイカラーを乗せてごわごわしないタイプのマスカラを睫に被せる。
睫は昔から長く、高校生の頃からビューラーで上げていたら、今では自然とカールするようになった。
三本入ってる口紅を見比べる。
オレンジ系、ローズ系、そしてレッド。
「うー」
悩んだ末今日の服装はあまり派手でないのでレッドを塗った後にローズを塗って発色を抑えることにした。
髪も一度解いてからひとつにまとめ捻ってからバレッタでとめなおす。
どういう手段で家へ帰るにしてもこれならとりあえず恥ずかしくない程度にはなったはずだ。
トイレから出て佐久間さんの元へと戻る。
ドアを二度ノックしてからそっと中へ入ると彼はタバコを吸っていた。
私を見る顔が一瞬驚いたように見えたがそれは瞬きをするのと同じ位の速さで戻ってしまった。
「遅くなってすみません」
頭を下げると吸っていたタバコを灰皿へと押し付けた。
時間を掛けたつもりは無かったが彼の後ろの窓の外はうっすら明るくなってきている。
「いや、大丈夫。仕事終わったよ」
伸びをしながら笑顔を見せる。
それはそれはよかった。
これで私もお役ごめんですね、と胸を撫で下ろす。
「よかったです」
彼が立ち上がりソファを勧めてくれたのでそこ座る。
さっきまであったカップは消えていてそれを奥から持って彼が現れ私の前にひとつ置いた。
「いただきます」
「どうぞ」
ごくりと飲んだそれは思いのほか美味しくて喉がからからだったんだなぁと確信した。
彼は携帯を出しぽちぽちと指を動かしながら相変わらず真っ黒な液体を飲んでいる。
徹夜をしたせいかセットされている髪はすこし崩れている。
ワイシャツも心なしよれているし、なにより、ノーネクタイだ。
それでも漂う気品と風格は一流ですごいなぁなんて感動する。
こんな人本当に居るんだ。
気づかれる前に視線を落とし珈琲をすべて飲み終えてカップをテーブルへと置いた。
それが合図だったように彼は左腕にはめていた高級そうな腕時計を見て目を見開いた。
「まずい。ちょっと急いで外へ出よう」
立ち上がり上着を羽織る。
外していたネクタイをポケットに押し込み部屋の隅にあるコート掛けから自分のコートを腕に持っている。
カップを片付けないとと持って見回している私の手からそれをひったくりテーブルに置くと、バッグとコートを自分の物と一緒に持って私の手を取って歩き始めた。
「ちょ、ちょっ、佐久間さん?」
あまりの事に声を掛けると彼はコートを持っている手を上げて口の前で人差し指を立てた。
それから携帯を取り出しどこかへ電話をするとエレベーターを呼んだ。
一階のロビーまでは二人とも無言でまるでラブホテルから出てくる不倫カップルみたいだと思った。
ロビーまでたどり着くと佐久間さんは慎重に私を背に隠して辺りを見回し足早に会社を出る。
そうか私みたいなレベルの低い女なんて連れてるところ見られたくないんだ。
正面玄関を左に折れて大通りから外れた会社の裏側まで来るとようやく立ち止まった。
外気が寒くてぶるぶるっと身震いすると彼は慌てて私のコートを着せてくれた。
持たれたまま両袖に腕を通しバッグを受け取る。
「すまない、手荒な真似を」
そう言い自分も辺りを伺いながらコートを着る。
その隙にモヘアのマフラーを首にぐるぐる巻いた。
「理由は後でちゃんと話すから」
パッパッと短いクラクションがしてかつて見た高級外車が私達の近くに止まる。
どうやらここは進入禁止らしい。
行こうと佐久間さんが私の手を引き足早に歩き始め慣れないヒールに躓きそうになりながらなんとか車に乗り込んだ。