妖精くんとかくれんぼ
「あんたが僕を従えようなんて、百年早いね」
ははっ、と暖炉の中からこもった笑い声。
百年なんて待てないよ。おれは焦れる気持ちを押さえて猫なで声を出す。
「妖精くん、出ておいで~? お菓子をあげよう」
「ここの店のはあんま好きじゃない。砂糖の味しかしないじゃん」
甘いのは好きだけど、甘過ぎるのは嫌いだ。拗ねた様な調子のクリアな声に慌てて振り向けば、背後の机の上にあった菓子は箱ごと無くなっていた。しかし、誰もいない。
「前に食べたイチゴのタルト。うん、やっぱあれが一番ウマいな」
右から聞こえた高い声に振り向くが、そこにもいない。
見回してみても、声はすれども姿は見えず。
故に、おれは彼を妖精くんと呼んでいた。
別に暖炉に引きこもっているわけでもないのに、素早く軽い身のこなしの彼を目視出来たためしがない。妖精みたいだろう?
「なあ、止さない? その妖精っての。僕は人間だよ?」
また暖炉に戻ってしまった彼の声はこもる。彼ときたら、昔から暗くて狭い場所が好きで、まるで猫みたいだ。初めて彼に会った時もこうして暖炉から話し掛けられたのだった。
確か、探していた飼い猫を彼が捕まえてくれたのだっけ。
机と書棚とソファ、そして暖炉だけの味気なさすぎだと言われた部屋。書斎なのだから別に良いのだ。後はハンナさえ、おれの愛猫さえ居てくれるなら。
「……ハンナ」
緋色の絨毯の上、いつの間にか足元にすり寄って来た毛足の長い猫を抱え上げ、喉を擽ってやる。
ゴロゴロと大変いい返事が返るのが堪らなく可愛らしい。
そう、お前が居たから妖精くんに会えたんだよな。
「可愛い可愛いおれのハンナ。お前なら妖精くんを見付けられる?」
「犬じゃあるまいし」
今日はここまでだな。かくれんぼに飽いたのか、妖精くんはこの部屋を出て行ってしまったようだ。それきり話し掛けても一切応えが返らなかった。
気紛れなクセに、相手が他に気を逸らす事を許さない我が儘さも猫みたいだ。
知り合ってもう十年も経つのに、姿を見せてくれない妖精くん。友達なのだから、相手の姿や名前を知りたいと思うのは当然だろう?
捕まえたりイジメたりなんてしない。ただ、ちゃんと顔を見て話したいんだ。
「君はどんなかおをしているのかな、妖精くん」
背を撫でられ腕の中で微睡む愛猫に訊ねても、答えを知ってるハンナはむにゃむにゃと口を動かすだけだった。
*
眩しさに目を細めて僕は君に手を振った。
綺麗で上等な服、お日様みたいにキラキラした頭。春の若葉みたいに綺麗な目は無邪気で、ころころ表情が変わる。子供みたいだ。
子供なら良かった。
でもあんたはもう十五、大人だろ?
僕だってもうすぐ十五、もう、遊びは終わりだよな。
バイバイ。楽しかったよ。
入った時と同じように誰にも見られないで領主の屋敷を抜けて、隠しておいた薪になりそうな木の枝や木イチゴやらを抱えて村に帰る。
服に付いた埃や煤を払い、家に戻った。
「ただいま」
「お帰り、ハンナ」
名を呼ばれてギクリとした。
「……やだ、転んだの? 鼻が真っ黒よ?」
傾いた陽の最後の輝きを頼りに刺繍をしていた姉が顔を上げ、楽しげにころころと笑う。
しまった、顔を拭い忘れたらしい。
袖でこすると、姉はわざわざハンカチを持って来て顔を拭いてくれた。女らしい姉。優しいし淑やかで、男勝りな僕とは全然違う。
その上僕はやせっぽちで、声や話し方だけでなく、見た目も男みたいだ。
――ハンナ。
十年前。猫を追いかけて、お屋敷に入ってしまった。見つかりそうになって慌てて暖炉に隠れたら、天使みたいにきれいな子が、僕の名前を呼んで、笑った。あんなに柔らかく、優しく名前を呼ばれた事なんて一度も無かった。
けど、結局僕じゃなくて、僕と同じ名前のその猫を呼んだんだけど。
面白くなくて、ちょっとからかってやろうって思った。かくれんぼをして、本当にとろい子供で、見つからないようにするなんて簡単だった。
天使は僕を妖精くんなんて呼んだ。
面白かったけど。面白くない。
だってそれ、結局僕じゃないじゃないか。
柔らかく、優しく、妖精くんと呼ばれたって。お菓子をくれたって。笑ってくれたって。
妖精くん相手だ。この僕、ハンナにじゃない。
僕は男勝りでやせっぽちで、ただの村娘。妖精なんかじゃない。
あいつも天使じゃなくて、領主の息子だ。
もういいんだ。もう終わったし。
あいつには猫のハンナがいるし。
「痛かった?」
姉さんは僕のほっぺにハンカチを当てて、別の手で背中を撫でてくれた。
「どこをぶつけたの?」
優しい姉さん。ぶつけてなんかないよ。大丈夫だよ。
「痛いもんか」
平気だよ。
だってあいつはいつか領主様になるんだろ? 僕みたいなのがそばにいるなんて絶対変だ。
昔だって別の世界だってわかってた。この十年ではっきりわかったよ。かないっこなかった。お呼びじゃないんだって。
百年経ったって無理だよ。
「……行儀見習いの話、嫌だった?」
嫌だよ。
村娘の通過儀礼だから仕方ないけど。
でも領主のお屋敷でメイドしなきゃならないなんて嫌だ。顔を合わせる事になるかも知れないじゃないか。あいつは僕を判らないだろうけど、僕はどんなかおしたらいいんだよ。
姉さんを心配させるだけだ。
「平気」
抱きついてふかふかの胸にかおを埋める。
「いいなあ。やわっかい。僕なんて洗濯板みたいに真っ平らなのに」
姉妹なのに別の生き物みたいだ。
「まあ。……でも、私はハンナの湖みたいな目が欲しかったわ」
「これをとったら僕には何も残らないじゃないか」
昔から姉さんがほめてくれるから、きっとこれは僕のたった一つのいいとこなんだろ?
「あら、ハンナはいいこよ? いつかきっと、素敵な人が現れるわ」
「……何ソレ」
いやしないよ。
いやしないってば! 一瞬浮かびかけたお日様みたいなのんきなあいつの顔を頭を振って打ち消す。
何考えてんだろ。もう終わった事なのに。
行儀見習いが気が重すぎるからかな。
「あら。もう素敵な人がいるの?」
「いないよ! いるわけないだろ、僕なんかに!」
「まあ。駄目よ、僕なんか、なんて。ハンナはいいこよ」
頭撫でられて嬉しいのなんて小さい子だけだよ。僕は十四、もうすぐ十五になるのに。
*
十五になったら、村娘は領主のお屋敷に行儀見習いに上がる。
お屋敷の中をあちこちを案内され顔通しをしたハンナは、領主の息子とも挨拶をした。
「ハンナ? 偶然だね、僕の猫と同じ名前だ」
僅かに親しみを滲ませても、妖精くん相手の時の優しい笑顔を向けられるわけはない。当然の事だがハンナは内心落胆し、勝手に傷付いた。だが、同時に気持ちの整理も着いた。
早く忘れよう。
そう思っていた矢先だった。
もう一匹のおてんばなハンナが、行儀見習いの一人にしっぽを踏まれ、大暴れをする事件を起こしたのだ。
どこででも寝る猫だが、半日陰の少し隠れられる場所を好んでおり、テーブルの影からパタパタしっぽを振っていたところをぐむっとやられたらしい。
「あたしのしっぽ~~~ッ! しっぽがぁ~~~ッ!?」という感じで部屋中を駆け回った。
椅子から何からありとあらゆるものを蹴飛ばし体当たりしてなぎ倒しても止まらず。
何の騒ぎかと駆け付けたハンナは、部屋の凄まじい有り様と灰色の疾風に目を丸くし、事態を把握すると被っていた猫を放り捨てて己と同じ名前のそれに飛びかかった。
猛然と暴れる毛玉を腕の中で押さえ込み、背中をゆっくりトントンと叩きつつ、大丈夫、とゆっくり言い含める。
大丈夫、大丈夫。
「どうしたんだ、お前はいいこだろ? ハンナ」
ほら、大丈夫。だから大人しくしろ。
噛み付き、爪を立てる猫に、優しく、ゆっくりと言い聞かせた。
猛然と暴れていた猫も落ち着けば大人しく抱かれたままになる。ハンナとは長い付き合いでもあるので、安心して居るようだ。
「よーし、いいこだ……」
全くおてんばな猫だ。誰が片付けると思っているのか。小物類も装飾も落とせるものは全て落ち、倒せるものも全て倒して。部屋が滅茶苦茶である。
ふと、大きく見張られた若葉の目を、ハンナは見つけた。
入り口で突っ立って、ハンナ達を見ていた。呆れる。
「本当にとろいなあんた。あんたの猫だろーが。見てたんなら止めやがれ」
驚き、戸惑い、と移ろった感情を見て、ハンナは漸く事態に気付いた。まずい。
これはまずい。
行儀見習いが若様を罵倒するとか有り得ない。荒れ果てた部屋のチェストでぼろっぼろのお仕着せ乱して猫と戯れる行儀見習いとか有り得ない。若様もちょっと目を背けるとかしろ、生足丸出しだし肩も丸出しだしうわどうすんだこれ、とハンナの思考は混乱を極め、フリーズした。
「……妖精くん?」
バレた、とハンナは肩を震わせて灰色の毛玉を抱きしめる。それがバレるのが一番まずい。十年騙していた様なものなのだ。もっとも、そんなつもりはハンナには無かったのだが。
「いや、妖精さん……?」
若葉色の視線はまな板を通過してやや下がる。ハンナはハッとして取り敢えず脚を閉じた。
「あ! ご、ごめんっ? ええとその、見てないよ……?」
若様はパッと後ろを向いてうつむいた。それにしてもこの若様嘘を付くのが下手である。
「ええと、降りておいでよ。妖精さん」
脱いだ上着を後ろ手で、使って、と差し出されたが、それを羽織るわけにはいかない。
「血だらけだから汚すし。いい」
「別にいいよ」
「誰が洗うと思ってんだ。シミ抜きするのは僕達だぞ?」ハンナは己が行儀見習いだと言う事を思い出して、語調を弱めた。「……ですよ? 若様」
「別に敬語じゃなくていいよ、友達だろう? ここにはおれたちしかいないし」
猫のしっぽを踏んだ娘は早々に逃げ出していた。
居たら居たで多分若様とハンナの仲についてしつこく訊かれただろうが。何しろ村には娯楽が少ない。
「友達? 騙してたのに、友達?」
そう、こんなのかっこうの笑い種だ。ハンナは唇を噛み締める。
「え? 騙してたの?」
「こっち向くな。」
低い声がうなり、ハイ、と若様は慌てて再びハンナに背を向けた。
「僕は妖精なんかじゃない」
「知ってたよ?」
「僕は男でもない」
「それは、ごめん、おれの勘違いでした」
「ただの村娘だ」
「うん」
「十年前、ハンナを追いかけて、屋敷に無断で入っちまった」
「ああ、迷い込んじゃったんだね」
若様は柔らかく笑う。
「怒らないのか?」
「君こそ。おれが勝手に男の子だと思ってた事、怒らないの?」
「そんなの、みんな思ってる。男勝りで可愛げがないって」
「えっ、どうして?」
「こっち向くな!」
あ、ごめん。若様は三度ハンナに背を向けた。
「だって、君は可愛い女の子じゃないか」
「……! ……さっき見たものは忘れろ。じゃないと忘れさせる」
「……それは怖いな。でも、何も見て、ないよ?」
若様は下手な嘘を突き通すつもりらしい。
「僕はただの村娘だ」
やせっぽちで男勝りで可愛げのない。姉さんみたいだったら良かったのに。
「領主の若様の友達になんてなれない」
まして、この片恋は実らない。お菓子を用意して待っててくれる、優しい笑顔が好きだった。飼い猫を呼ぶあの声を聞きたかった。ハンナ自身には決して向けられる事がないと知っていても。
「ねえ、ハンナ」
「こっち向くなって、」
「嫌だよ、おれはちゃんと目を見て話したい。ほら、おれの上着で悪いけど、着て?」
来んな、と言っても若様は聞かない。チェストの上で高くて降りられない猫の様に毛を逆立てた様なハンナに上着を羽織らせて、だぶだぶだね、と驚くからハンナは口を結ぶ。
「やせっぽちで悪かったな」
「え? 悪いなんて言ってないよ。可愛いなって」
「バカにしてんのか!」
やせっぽちでまな板の胸はハンナのコンプレックスだ。しかし、何で怒られたんだろう、と若様は瞬く。それから、にっこり笑った。
「春の空みたいに綺麗な目だね」
その言葉はハンナの心をくすぐった。姉がほめてくれる、ただ一つのもの。
それに、ずっと、ハンナが欲しかった笑顔だ。ずっと自分にそんな風に笑って欲しかった。
「え、ハンナ、痛い? 痛いよね、おれも偶にハンナにやられる。あ。猫のハンナにね? って、解るよね。ハンナはハンナでおれの飼い猫じゃないし。って、あー、そうじゃなくて! ま、待って、薬どこかなあ?」
泣き出したハンナに若様はおろおろして周りを見回すが、応接間に救急箱など有るはずがない。ハンナはボロボロの袖でかおをこする。
「別に。痛くない」
「え。じゃあ、どうしたの。ねえ、泣き止んで?」
こすっちゃダメだよ、と若様はハンナの手を掴む。きっと、けんかなんてした事ないだろう手だ。村のガキ大将達と渡り合ったハンナには酷く非力に思えた。こんな力で止めようなんて、ハンナを見た目通りのか弱い女だとでも思っているのだろうか。この部屋でリアルキャットファイトを繰り広げたハンナだというのに。
ハンナは毒気を抜かれた。
何だ、この生き物は。やっぱり天使か。
毛を逆立てて爪や牙を突き立てても、どこまでも許される様な。背を撫でて宥められる様な。
生まれて初めて、姉以外に女の子扱いされてる。それも、好きな人に。
舞い上がるのも、当然なくらい、嬉しい。
「あんたのせいだ」
ハンナは目の前の肩にトンと頭を載せる。
「だから、あんたがどうにかしろ」
え、と若様は己の肩口に乗った黒い頭を見る。収まりのいい場所を探す頭は、まるで頬擦りしてるみたいだ。
まん丸で形のいい頭だ。
これが、ずっと会いたかった小さな頃からの友達。妖精くんと呼んでいた。あれは、目の前にいるこの女の子だ。
女の子、だった。男の子だと思ってた事を詫びたら、男みたいだって事を気にしててるみたいで。
何を言っても響かない様な、悔しいくらい飄々とした彼はいなくて、ちゃんと目を合わせれば、ただやわらかく傷付いた目の女の子が、そこにいた。
ひたすらに毛を逆立てる、子猫みたいな小さな女の子。
泣くのはおれのせいだって言いながら、こうして猫が撫でて欲しいみたいに擦り寄って来るのは、何でなんだろう。
まるで、好きだって言われてるみたいだ。
春の空みたいな綺麗な目は伏せられて、残念だけど見れない。代わりに、夜空みたいな黒い髪が、目の前にある。
どうにかしろ、と言われても。
どうしたらいいんだろう?
そっと頭に触れてみる。ピクリと震えが伝わったけど、振り払われないので、そっと撫でてみる。ぐりっと肩口に額が押し当てられた。
シャツが濡れる。まだ、泣いてるのかな。
「泣き止んで、ハンナ。ごめんね。よくわからないけど、おれが悪かったから」
猫の子の様にぐりぐり額を押し付けて来るハンナが可愛くて、泣き止むまで真っ黒な頭をずっと撫でていた。
……そうして、若様は妖精くんを漸く捕まえる事が出来たのだった。
*
「ハンナ、ハンナ。可愛いおれのハンナ。」
今日も今日とて、若様は愛猫にご執心である。
「おれと、そ、その、つ、付き合って……」
毛布を敷いた籠ですやすや眠る愛猫相手に、どうやら何かの予行練習中らしい。猫相手ですら噛みっ噛みなあたりが、とても切ない。
「……何やってんだ、あんた」
お仕着せが板について来た行儀見習い、ハンナが怪訝そうに若様を見る。
最近はちゃんとスカートに慣れて来たので、立ち姿も女性らしい。
「うわあ!? ちょ、いいいいつからそこにぃいいっ?!」
振り返った若様は真っ赤なかおを両手で覆う。どこの乙女だ。という突っ込みはさておき、ハンナは自分の役目を果たす。
「今だ。飯の時間だから呼びに来た」
他に人がいない時は遠慮のない男言葉だ。
「あ、う、うん……良かった、聞かれてない……」
聞かれた方が良かった様な、聞かれてヘタレなところをさらさずに済んで助かった様な複雑な気分で若様は頷く。
「今日の夕飯って、何?」
「僕が摘んで来た木イチゴのタルトがデザートだ」
「そうなの?」
嬉しい、楽しみ、とかおに書いてある。若様は判り易く喜んだ。
ハンナは視線を逸らす。さっと刷毛で紅をはいた様に頬が染まっているのに、その脇を通り過ぎる若様は気付かない。
「あれ? ハンナ、髪伸びた?」
若様は夜空の様な黒髪に手を伸ばした。
耳の下でやや雑に切られていた髪は、肩に付く程になっている。肩口で揺れる毛先を指でさらりと遊んで、彼は、いいね、とにっこり笑う。
「短いのも可愛いけど、長いのも似合うよ。今度髪飾りを贈るね」
指に絡めた一房を軽く引っ張ってから手を離し、若様は部屋を後にした。
この男、意識していなければ、こんなことも出来るらしい。
硬直するハンナは、彼が触れた髪に手を伸ばし、触れ、口元を押さえた。片手では赤面したかおを庇いきれない。ぎゅっと髪を掴み彼女は閉まった扉に背中をつけて、ずるずる崩れ落ちる。
なんだあれなんだあれ今何が起こった。と、彼女は混乱した。
やっとこうした可愛げが出て来た彼女が、ヘタレな若様が口説く決意を固めるまでその無意識な思わせぶりに翻弄され続け、意固地に戻り、相当こじれてどうにか結ばれるまで大分時間が掛かった事は、いうまでもない。