路地裏
夜の街を、ざわめきが駆け抜けている。
塾帰りの春岡奈央は、その喧騒に、ふと足を止めた。
──なんだろう?
普段なら気にも止めずに通りすぎてしまうはずなのに、今夜はなぜだか好奇心が胸を掠める。
細い路地の闇に、たくさんの人がざわめく気配と声がした。
好奇心が首をもたげるのを感じながら、そちらをのぞこうとしたが、電柱の光もあたらない闇が奈央の視界を邪魔する。思わず路地へ踏み入ると、やはり薄ぼんやりと、その狭い路地いっぱいに人がひしめいているのがわかる。奇妙な光景に若干の興奮を覚えたが、不思議と恐怖は感じなかった。手が自然に伸びて、一番後ろにいる老婆の肩をぽんと叩いた。
「何かあるんですか?」
暗くてよく見えないが、あまり老婆の身なりは綺麗とはいえない。老婆は面倒くさそうに、
「興味があるのかい?」
と尋ねた。その声に、なぜだか知りたくなる。勢い込んで大きく頷くと、老婆はにやりとした。
「歌だよ。知る人ぞ知る、メディアには一切出演しないシンガーソングライターのね。せっかくだから、奥まで行ってみてきたらどうだ」
ますます興味をそそる話題に、思わず目線を人だかりの中心へやる。姿も見えないし、妙なことに声すら聞こえないが。
「でも……行けますか? このすごい人だかりの中」
「行けるさ。ちょいと──そこのあんただよ。耳が悪いのかい? ほら、さっさと叫ぶ!」
金髪の少年が、面倒くさそうにため息を付いた。しかし文句を零すようなことはしない。
「すみませぇぇぇーん! 新人でぇぇぇす! 道をぉぉ、開けぇてぇ、くださぁい」
思わず奈央がその少年を凝視すると、少年は早く行け、とでも言わんばかりに少し離れる。その途端、今までひそひそと興奮したように何事かつぶやいていた人たちが、どこにそんな隙間があったのか波ようにさぁ、と道を開けだした。
しかしどれだけ遠いのか、あるいは暗いのか、大して悪くもないはずの奈央の目に、その姿は相変わらず映らない。
え、と唖然とする奈央の背中を、少年か老婆か、はたまた全く知らないファンのひとりかが、ぽんと押した。それに後押しされたのか、奈央は歩き出す。
皆が真面目な顔をして、奈央を凝視していた。その顔に、表情は読み取れない。
どきどきした気持ちと不思議な気持ちが入り交じったような、変な気分で奈央は歩き続けた。
そうしてようやく、ぽっかりとそこだけ人が抜け落ちてしまったように場所が開かれた。
そこにいたのは、歌手を目指し路上ライブを繰り広げるような感じの少年。……少年というべきか青年というべきかは判断の付きにくい顔立ちではあったが。そうして奈央の顔を見てにっこりすると、
「ようこそ新人さん。名前は?」
「えっ、あの奈央ですけど、新人って……?」
顔立ちは、十人並みなのに、そこには何か異様な雰囲気が漂っていた。
「え、うーん……なんていったらいいのかな。まあ、平たく言えば僕のファンの新人さんってことになるかな? 今日は楽しんでよ、奈央ちゃん!」
馴れ馴れしくそういうと、奈央の手を引っ張り、横にある事務椅子に座らせる。戸惑う奈央をよそに、少年(青年?)は、手をふる。
その瞬間、割れていた人が、まるで軍隊のように戻って行く。
これはなんなんだろう。
ゾッとして、奈央はようやく恐怖を感じた。
変、なのだ。何もいっていないのに全てを察する人とか、まるで何かの制約にそって動いているような。
だいたい、この少年は何?
こんなそこら辺にいそうな少年が、知る人ぞ知るバンド? そもそもこれはひとりで歌っているのであって、バンドなんかではない。全てがよくわからなかった。
その瞬間、うつむいていた奈央の顔がぐっと上げられる。強い、握りつぶすような力で顎をつかまれ、奈央は苦痛に顔を歪めた。
「俺のライブ中に何考えてんの? それとも聞きたくないわけ? 奈央ちゃん、は」
すごむような声に脅され、奈央はふるふると首を振った。その瞬間、ぱっと手が離される。解放された顎にほっとした瞬間、喉の奥がつんとして、涙が込み上げてくる。
慌ててぐ、と力をいれて、涙をこらえた。
その瞬間、声が、力強い声が聞こえる。じーんと耳に響く声に、奈央は顔をあげた。
不思議な声……。
思わず聞き入ってしまうような、そんな声だった。目を閉じて熱唱する少年を見て、はっとする。
今なら逃げられる。
そっと後ろを振り向くと、ビルとビルの間の細い路地がみえた。
あそこへ行けば──。
少年を窺うと、サビを迎えたらしく、声に大きさが増す。
汗を掻いた手を握りしめ、奈央はそっと椅子から立ち上がった。
ファンは歌に熱中しているようで、こちらを見向きもしない。そっと後ろへ向かい、細いその路地へ入ろうとした瞬間。肩が強い力でぐっと引っ張られる。思わずよろけて振り返ると、少年を筆頭に大勢の人間がいつの間にそんなに近づいたのか、こちらを睨んでいた。その距離は、もう鼻がぶつかるような近さだ。
「どこに行こうとしてるのかなァ? 奈央ちゃぁん?」
「ひっ……いやぁぁぁ!」
奈央が悲鳴を上げたのは、その声があまりにも──人間的な暖かさを帯びていなかったからだ。──まるで無機質な機械のように。
声は、繰り返す。
「まさか逃げたりしないよねェ? え?」
怖い。怖い──ただ怖くて、目を瞑ってむちゃくちゃに手足を振り回す。
なにかに手がぶつかって、強い衝撃を感じた。
「このぉっ」
もうまるで機械になったその声が、いきなりそう叫んだかと思うと、奈央は頭部に鈍い衝撃を感じた。思わずしゃがみこむ。
「いたぁい……」
もう一度殴られて、奈央の意識は遠のいていった。
*
「ねぇ、知ってる? 奈央先輩、亡くなったんだって」
「あー、聞いたぁ。詳しく知らないけど?」
「なんか塾の帰りに、襲われたのか倒れてたらしいよ。しかもヘンなんだって」
「ヘン? 変って、どういうこと?」
「なんか、死んだ原因は頭を殴られたかららしいけど、昏睡状態の間とか、変な歌を口ずさんでて……」
「歌? 奈央さんの歌う歌って……たいてい最近流行りのブイ系バンドだよね?」
「そういうのじゃなくて……誰も聞いたことないやつだって!」
「ふーん……怖いねェ。クスリとかやってたのかな? まあ私、奈央先輩あんまり好きじゃなかったからいいけどー」
「ちょ、ひどぉ」
少女たちのあどけない談笑は、路地裏まで響いていた。