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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

死者は午前零時に嘘をつく

作者: 鈴木 明
掲載日:2026/08/14

人が死ぬ瞬間、この世に何を残すのか。血か、遺言か、憎しみか。それとも、誰にも届かなかった声か。黒瀬冬真は、その問いに対する答えを一つだけ知っている。死者が残すものが、必ずしも真実とは限らないということだ。



 午前零時まで、あと三分だった。東京・西新宿、地上四十七階にある三枝正隆の自宅兼事務所は、深夜とは思えないほど明るい。壁一面を占める窓の向こうでは、無数の高層ビルが赤や白の航空障害灯を瞬かせ、夜の底まで続く巨大な都市が静かに呼吸していた。しかし、五十八歳の美術商・三枝正隆は、その景色を見ていなかった。美術品取引会社「三枝アート・パートナーズ」の代表取締役として政財界にも広い人脈を持ち、一枚の絵に数億円を動かすことさえ珍しくない男が、今は額に汗を浮かべ、怯えたように部屋の中央へ立ち尽くしている。


「……誰だ」


 返事はない。玄関は施錠され、非常階段へ通じる扉には内側からチェーンが掛かっている。窓は開閉できない強化ガラスで、この二時間、監視カメラにも三枝以外の人間が出入りした記録はない。誰かが部屋へ侵入した形跡など一つもないはずだった。それでも三枝は何度も背後を振り返り、やがて机の上のスマートフォンへ手を伸ばした。警察へ電話しようとして画面を点け、その指が止まる。黒い画面には、青ざめた自分の顔と汗に濡れた額、震える唇が映っていた。そして、その背後に少女が立っていた。


 三枝は息を呑んで振り返った。誰もいない。再びスマートフォンへ目を落とすと、少女はまだ画面の中にいる。十二、三歳ほどだろうか。肩まで伸びた黒髪は濡れ、白いワンピースの半分が煤で黒く汚れている。顔の右側には痛々しい火傷の痕があり、その中で黒い瞳だけが異様なほど静かに三枝を見つめていた。


「……違う。俺じゃない」


 三枝は一歩後退した。少女の唇がゆっくりと動く。声は聞こえない。それでも彼女が何かを告げていることだけは分かった。


「俺は何もしていない。決めたのは向井だ。俺は金を――」


 壁掛け時計の針が午前零時を指した瞬間、本来は時報機能などないはずの時計が、低く一度だけ鳴った。


 ボーン――。


 同時にスマートフォンの画面が消え、室内の照明も落ちた。完全な暗闇の中で、何かが床を擦る音がした。


「やめろ……待ってくれ。金なら払う。いくらでも払う。だから――」


 三枝の言葉は最後まで続かなかった。短い悲鳴だけが、暗闇の中へ残った。



 翌朝、三枝正隆は書斎で発見された。首には左の頸動脈から右耳の下まで走る鋭利な裂傷があり、出血量から考えればほぼ即死だった。しかし凶器は見つからず、玄関は内側から施錠され、非常口にはチェーン、窓は完全に密閉されたまま。さらに午前零時ちょうど、三枝のスマートフォンから警視庁通信指令本部へ一本の通報が入っていた。録音されていたのは三枝の声ではなく、幼い少女の声だった。


『あと、四人』



「帰っていいですか」


 午前十時十二分。三枝邸の玄関前へ到着してからまだ三分しか経っていないというのに、雨宮澪は露骨に嫌そうな顔で言った。二十四歳の彼女は薄い灰色のロングコートのポケットへ両手を入れ、肩に触れる程度の黒髪を簡単に後ろでまとめている。右耳には銀色の小さなイヤーカフが付いていたが、それは装飾品ではない。周囲に残る怪異の残響を拾いやすくするため、黒瀬が作った簡易式の感応器だった。


「着いて三分だぞ」


「三分もあれば十分です。嫌なものは嫌です」


「血の匂いがする事件現場が?」


「それなら慣れています」


「首を切られた死体?」


「先生と仕事を始めてから、その程度は普通になりました」


「俺を先生と呼ぶのをやめろ」


「では所長」


「それも嫌だ」


「三十五歳独身、家賃三か月分を滞納しかけた怪異専門探偵」


「長い」


「じゃあ黒瀬さんで」


「最初からそうしろ」


 澪は呆れたように息を吐いたが、玄関を見た途端に軽口を消した。右耳のイヤーカフへ指を添え、表情を硬くする。


「嫌なのは、この部屋です。もう声が聞こえています。それも……多すぎる」


 黒瀬は問い返さず、内ポケットから黒革の手袋を取り出した。世間では幽霊や呪いを信じない人間のほうが多いが、それで構わないと彼は考えている。怪異の大半は人間に知られないまま生まれ、知られないまま消えていく。強い恐怖、後悔、憎悪、苦痛。そうした感情が死の瞬間に場所や物へ焼き付いたものを、黒瀬たちの業界では「残響」と呼んでいた。残響は魂ではない。少なくとも黒瀬はそう考えている。それは人間がこの世界へ残した傷跡であり、録音された音声のように同じ言葉を繰り返すものも、生前の行動を延々と再現するものもある。そして稀に、現実へ干渉し、生きた人間を傷つけるほど強いものも存在した。


「黒瀬」


 背後から呼ばれ、二人が振り返る。歩いてきたのは、警視庁捜査一課所属の葛城誠司だった。四十三歳。十年以上殺人事件を担当してきた刑事らしく、短く整えられた髪にはわずかな白髪が混じっているものの、表情から感情を読み取ることは難しい。


「来てくれたか」


「警察に呼ばれた記憶はない」


「俺が個人的に呼んだ」


「もっと悪い」


「報酬は出す」


「警察から?」


「俺の財布からだ」


「なお悪い」


 葛城は苦笑したが、黒瀬は靴へカバーを付けながら事件へ話を戻した。普通の密室殺人なら自分を呼ぶ必要はない。葛城によれば、三枝の死亡推定時刻は昨夜二十三時五十八分から零時五分。その時間帯、この部屋だけで十八秒間の電力消失が発生していた。ブレーカーに異常はない。さらに首の傷口から、ごく微細なガラス片が検出されていたにもかかわらず、室内に割れたガラス製品は一つもないという。


「それで俺を呼んだ?」


「いや。本当の理由は別だ」


 葛城は書斎へ続く廊下へ視線を向け、声を落とした。


「死体を最初に発見した警備員が言っている。三枝の死体が、鏡の中では立っていたそうだ」



 書斎にはまだ血の匂いが残っていた。遺体はすでに運び出されているものの、床には位置を示すテープと、黒ずんだ血液を吸い込んだ高価な絨毯が残されている。その正面の壁には、高さ二メートルほどの大きな鏡が掛けられていた。銀色の縁取りを施したアンティーク調の外観だが、表面には傷一つない。


「三枝の所有物か?」


「三週間前、海外の個人収集家から購入したらしい。十八世紀末のフランス製という触れ込みだ」


「嘘だな」


 黒瀬は即答し、鏡の縁へ刻まれた小さな漢字を指さした。そこには「返照」とある。


「日本製だ。返照鏡。古い怪異具だな」


「知っているのか?」


「資料でだけなら。こいつ自体が人間を襲うわけじゃない。人が強い感情を抱いた状態で長期間使った物は残響を蓄積することがあるが、この鏡はそれを異常な密度で保存する。目の前で起きたことを映像としてじゃなく、感情ごと記憶するんだ」


「つまり?」


「死を映した鏡なら、その死を記憶する」


 その時、澪が右耳の感応器を外した。顔色が目に見えて悪くなっている。


「黒瀬さん……聞こえます」


「何人いる?」


「分かりません。五人……八人……もっと」


「無理に聞くな」


「大丈夫です」


 澪は目を閉じた。生まれつき、彼女は残響に含まれる「音」を直接拾うことができる。知識と道具を使って怪異を調べる黒瀬とは違い、彼女には死者が残した声が否応なく聞こえてしまう。しばらくすると澪の唇が震え、本人とは明らかに異なる調子で言葉が零れ始めた。


「熱い……開けて……誰か、扉を開けて……煙が……お兄ちゃん……」


 葛城が息を止めた。その一瞬を黒瀬は見逃さなかった。


「澪」


 肩を掴まれ、澪は我に返ったように目を開いた。大きく息を吸い、「すみません」と呟く。


「謝るな。火事の残響だな」


 黒瀬が鏡を見ながら言っても、葛城は何も答えなかった。


「葛城。この鏡を見たことがあるか?」


「ない」


 回答があまりにも早かった。黒瀬は一瞬だけ葛城を見たが、それ以上追及せず、床へしゃがみ込む。血痕の端へ澪のライトを当てると、絨毯の繊維の間に黒い粒が残っていた。ピンセットで採取し、小さな証拠袋へ入れる。


「煤……ですか?」


「たぶんな」


「ここでは火なんて使われていません」


「ああ。だから面白くなってきた」


「嬉しそうに言わないでください」



 その日の午後、二人は神田にある黒瀬特殊調査事務所へ戻った。築五十年以上の雑居ビル三階にある二部屋を繋げただけの狭い事務所で、入口には「黒瀬特殊調査事務所」とだけ記されている。怪異、呪い、幽霊などという文字は一つもない。そんなものを書けば、まともな依頼人まで逃げてしまうからだ。


「三枝正隆について分かったことです」


 澪がノートパソコンを黒瀬の前へ置いた。表向きは著名な美術商であり、古美術品の売買や投資、寄付活動にも積極的だった。しかし裏では、盗難文化財、美術品を利用した資金洗浄、匿名オークションなどへの関与を何度も疑われている。それでも立件には至っていなかった。


「敵はいくらでもいそうだな」


「ただ、気になるものがあります。十二年前、三枝はある児童福祉法人へ多額の寄付をしています」


 澪が表示した古い新聞記事には、児童養護施設「青灯園」で発生した火災について書かれていた。東京都久津見市。児童九名、職員二名が死亡し、老朽化した配電設備からの出火と判断された事故。当時の園長は向井宗一。火災後に管理責任を問われたものの、刑事責任を負うことはなく、その後は福祉業界から退いている。


「少女の声は『あと四人』と言った」


「三枝さん以外に四人、という意味でしょうか?」


「そう思わせたいんだろうな」


「思わせたい?」


 黒瀬は椅子の背へ体を預け、澪を見る。


「死者の言葉を信用するな」


「それ、よく言いますよね」


「大事だからな。残響は記憶だ。記憶は間違える。生きている人間ですら、自分に都合よく過去を書き換える。死んだからって急に正直者になるわけじゃない」


「でも今回、その残響は警察へ電話しています。そんなことができるんですか?」


「普通は無理だ」


「だったら――」


「誰かが使わせている」


 黒瀬がそう言った直後、スマートフォンが鳴った。葛城からだった。


『黒瀬、二人目だ』


「場所は?」


『港区。長江法律事務所』


「死因は?」


 数秒の沈黙のあと、葛城が低い声で答えた。


『焼死だ。ただし、部屋は燃えていない』



 二人目の被害者、長江修一。六十一歳。元検察官で、現在は企業法務を専門とする弁護士だった。発見された時、長江は自分のデスクチェアへ座っていた。服はほとんど焼けず、室内にも炎が上がった痕跡はない。それにもかかわらず、遺体には高温に長時間さらされたかのような重度の熱傷が残されていた。


「体の内側から焼かれたみたいだな」


 葛城の言葉に、黒瀬は遺体写真を見ながら首を振った。


「正確には違う。熱傷の位置が偏ってる。手、顔、前腕、足首、それから気道」


「火災から逃げようとした人みたいですね」


 澪の指摘に黒瀬が頷く。机の下には第一現場と同じ煤が落ちていた。


「長江と青灯園の関係は?」


 葛城の目がわずかに動いた。


「十二年前の火災だ。知ってるだろ」


「……ああ。長江は当時、法人側の顧問弁護士だった」


「三枝は寄付者。向井は園長。『あと四人』が文字通りなら、まだ二人いることになる。誰だ?」


「分からない」


「警察が十二年前の資料を見れば調べられることだ。葛城、何を隠してる?」


 葛城は答えなかった。その時、書棚のガラス扉を見ていた澪が黒瀬を呼ぶ。透明なガラスには、小さな煤の手形が浮かび、その下には指でなぞったような数字が残されていた。


 四。


「また四です」


 澪が言う。黒瀬はしばらくその数字を眺めてから、視線を細めた。


「いや。これで逆に分かった。この四は数えてるんじゃない」


「どういうことです?」


「残り人数なら、三枝を一人目、長江を二人目とした時点で数字は減るはずだ。なのに四のまま残っている」


 黒瀬は煤で汚れた小さな手形へ視線を戻した。


「少女が復讐相手を数えている――そう思わせたい誰かがいる」



 青灯園火災は十二年前、午後十一時四十七分に発生した。死者十一名、そのうち九名が児童。公式には地下配電設備の老朽化による漏電が原因とされたが、記録を洗い直すほど不自然な点が浮かび上がった。非常口の一つは外側から施錠され、防火扉は正常に作動せず、火災報知器の一部も停止していた。亡くなった子供のうち二人には、火災以前についたと考えられる複数の打撲痕まで確認されている。それでも事件性は認められなかった。現場の大部分が焼失し、証言できる成人職員も死亡、生存した子供たちの証言にも食い違いがあったからだ。


「証拠不足って便利な言葉ですね」


 深夜の事務所で澪が呟くと、黒瀬は資料から目を上げなかった。


「警察だけを責めるな。漏電の痕跡自体は出ていた。火元も燃えてる。証言は食い違い、大人の職員は二人とも死んでいた。当時の捜査だけで放火まで辿るのは簡単じゃない」


「でも非常口は外から施錠されていた」


「ああ。日常的に閉められていたなら、それはそれで別の問題だ」


 黒瀬が児童名簿をめくっていた手を止める。


「澪。三枝の鏡で聞いた少女は、最後に何と言った?」


「『熱い』『開けて』『誰か扉を開けて』『煙が』……それから、『お兄ちゃん』」


 黒瀬は一人の少女の名前を指さした。相沢夏帆、十二歳、死亡。家族欄には母・相沢真紀、父は記載なし。そして兄・相沢誠司。当時十九歳。さらに別の資料には、警視庁捜査一課、葛城誠司――旧姓・相沢と記されていた。


「葛城さんの妹……」


「青灯園について最初から知っていた理由は、これだろうな」


「だったら、どうして隠したんです?」


「本人に聞く」


 黒瀬が立ち上がった瞬間、事務所の照明が消えた。スマートフォンを見ると午後十一時五十九分。壁際の小さな姿見の中には、煤に汚れた白い服を着て、顔の右側に火傷を負った少女が立っていた。


「黒瀬さん……」


「近づくな」


 午前零時。事務所のどこにも存在しないはずの時計が、一度だけ鳴った。


 ボーン――。


 鏡の中で少女が顔を上げる。


『五番目』


「五番目……?」


 澪が聞き返した直後、鏡の表面から黒く焼け爛れた長い腕が伸びた。黒瀬は澪を床へ押し倒し、頭上を走った鋭い一撃を避ける。背後の本棚が一瞬で裂け、厚い木材が刃物で切断されたように真っ二つになった。


「澪、左!」


「はい!」


 澪は机の引き出しから銀色の音叉を取り出し、黒瀬は内ポケットから赤い糸を巻いた短い鉄杭を抜く。二本目の腕が鏡から伸びた瞬間、澪が音叉を机へ叩きつけた。高い金属音が室内を満たし、鏡の表面が水面のように歪む。腕の動きが一瞬止まった。


「今です!」


 黒瀬は鉄杭を床へ突き立てた。


「四方封じ――閉じろ!」


 あらかじめ事務所の四隅に置いていた紙札が一斉に黒く変色し、鏡の少女が大きく口を開いた。だが、その悲鳴の奥から別の音を拾った澪が叫ぶ。


「待ってください! この子じゃない!」


 少女の背後、暗い空間の中に一瞬だけ男の姿が浮かんだ。右手には大きな鏡の破片を持っている。


「伏せて!」


 今度の少女の声は、澪にも黒瀬にもはっきりと聞こえた。二人が床へ身を投げた直後、鏡が爆発し、無数の破片が壁や机、照明器具へ突き刺さった。静寂が戻ったあと、黒瀬は割れた姿見へ近づく。中央に一枚だけ残った破片には、先ほどと同じ数字が浮かんでいた。


 五。


「分かった」


「何がです?」


「どっちが死者の言葉で、どっちが生きた人間の嘘なのかだ」



 翌朝、葛城誠司は電話に出ず、警視庁にも出勤していなかった。青灯園の資料をさらに調べた黒瀬は、火災当時、子供たちが第一室から第五室まで五つの生活班へ分けられていたことを突き止める。三枝が所有していた返照鏡は火災以前、第五室の廊下に掛けられており、相沢夏帆も第五室に所属していた。


「だから『五番目』……」


 久津見市へ向かう車の助手席で澪が呟く。


「ああ。残り人数じゃない。夏帆の記憶に結びついた第五室だ」


 澪は目を閉じ、三枝の通報音声を思い返した。そこで一つの違和感に気づく。「あと四人」という少女の声の背後には、ごく小さく電車の発車ベルが混じっていた。その旋律は久津見線で現在使用されているものだったが、導入されたのは青灯園火災より数年後だった。


「じゃあ、あの通報は……」


「十二年前の残響そのものじゃない。誰かが夏帆の声を拾って繋ぎ直したんだろう。『あと四人』も、現場に残された四も、その嘘を補強するためのものだ」


「葛城さんが?」


「まだ決めるな。推理と疑いは違う」



 旧青灯園は街の外れに取り残されていた。再開発会社の仮囲いに囲まれ、火災後に最低限の補強だけ施された建物は長年放置され、窓の多くが割れ、外壁は煤と雨で黒く変色している。午後四時、曇天の下で壊れた通用口から内部へ入ると、湿気と古い煤の匂いが鼻についた。


「人の気配があります」


「生きてるほう?」


「はい。ただ……怪異のほうも、いっぱいいます」


「後半は聞かなかったことにする」


 廊下の低い位置には、子供たちが描いた絵がまだ残っていた。家、花、犬、四人の家族。その隣には、黒と赤の線で描かれた炎がある。二階の第五室へ入ると、焼け落ちた扉の向こうには錆びたベッドフレームが残り、壁にはかつて鏡が掛けられていたことを示す四角い痕があった。


「ここです」


 澪が小さく息を吸う。


『熱い』


『先生』


『開かない』


『煙が来る』


『夏帆ちゃん』


『お兄ちゃん』


 何十もの子供の声が重なり始める中、黒瀬は焼けた床板の隙間から熱で変形した古い南京錠の一部を拾った。外側から施錠されていた非常口に使われていたものかもしれない。


「黒瀬さん」


 澪が壁の向こうへ顔を向けた。


「誰かいます。残響じゃありません。生きている人です」


 直後、銃声が響いた。黒瀬は澪の腕を掴んで床へ引き倒し、弾丸が二人のいた位置の壁へ穴を開ける。廊下から複数の足音が迫ってきた。


「三人です」


「分かるのか?」


「靴音です」


「優秀」


「褒めるの、今ですか?」


 二発目が飛んだ瞬間、黒瀬は床に落ちていた焼けた金属板を蹴り上げ、先頭の男の視界を遮った。一気に懐へ入り、拳銃を握る手首を掴んで銃口を天井へ逸らし、発砲音と同時に肘を顎へ叩き込んで拳銃を奪う。横からナイフを持った二人目が迫ったが、澪はコートの下から伸縮式警棒を抜き、膝裏を打って崩したあと手首を打ち抜いた。


「女性だからって油断しました?」


 澪が倒れた男の背を踏みつける。


「失礼ですね」


「澪、三人目!」


 三人目の男が彼女へ銃口を向ける。澪が身を沈めた瞬間、黒瀬は奪った拳銃を男の手へ投げつけて狙いを逸らした。そこへ澪の警棒が手首を打ち、床へ落ちた拳銃を黒瀬が蹴り飛ばす。数秒後には、三人とも動けなくなっていた。


「探偵事務所の助手の仕事内容ではないと思います」


「求人票に書いただろ。現場補助」


「『簡単な』現場補助です」


「簡単だった」


「辞めますよ」


「給料上げる」


「先月分を払ってから言ってください」


 黒瀬が倒れた男の上着から民間警備会社の名刺を見つけた時、建物の奥から老人の悲鳴が聞こえた。


「地下です」


 澪の表情が変わる。



 旧青灯園には、公式図面に存在しない地下室があった。階段を下るほど空気は冷え、地下へ向かっているというより真冬の外へ踏み込んでいるようだった。壁には無数の煤の手形が浮かび、古い鉄扉の向こうには広い部屋がある。中央の椅子へ一人の老人が縛りつけられていた。向井宗一。そして、その前には拳銃を握った葛城誠司が立っている。左手には、黒い布で包んだ大きな鏡の破片があった。


「葛城」


 黒瀬が呼ぶと、葛城は静かに振り返った。


「来ると思っていた」


「なら電話くらい出ろ」


「話せることはなかった」


「今なら?」


「少しはある」


「助けてくれ! この男は狂っている!」


 向井が椅子の上で暴れた瞬間、葛城の顔からそれまでの冷静さが消えた。


「黙れ! 十二年前、お前は扉を閉めた!」


「違う!」


「非常口に鍵を掛けた!」


「規則だった! 子供が夜中に逃げ出すからだ!」


「火災報知器を切った!」


「誤作動が多かったんだ!」


「三枝から金を受け取った! 長江に事故として処理させた! この地下室でやっていたことも全部知っていた!」


「やめろ!」


 向井の顔が歪む。黒瀬は地下室に残る鉄製の机、古い棚、焼けた書類へ目を向けた。


「ここで何をしていた?」


 向井は答えない。代わりに葛城が、押し殺した声で口を開いた。


「子供を売っていた」


 澪の表情が強張る。


「全員じゃない。戸籍や家庭環境に問題があって、いなくなっても騒ぎになりにくい子だけを選んでいた。三枝が仲介し、海外へ送られた子もいる」


「夏帆さんは?」


 澪の問いに、葛城の視線が落ちた。


「妹は気づいた。十二歳だった。頭のいい子だったんだ。友達が夜に連れていかれて、そのまま戻ってこない。それを不思議に思って、この地下室まで辿り着いた」


 葛城の左手が震える。


「俺に電話してきた。『お兄ちゃん、変な部屋があるの』って。それが最後だった。当時の俺は大学二年で、夏帆とは父親が違った。母親が病気になって、一時的にここへ預けられていただけだったんだ。俺は……信じなかった。子供の勘違いだと思って、次の日に行くと言った」


 葛城は笑った。しかし、それは笑顔と呼べるものではなかった。


「次の日なんて来なかった。その夜、青灯園は燃えた」


 誰も言葉を挟まない。


「地下室の資料を消すためだった。三枝が火をつけ、火は想定以上に広がった。非常口は閉ざされたまま、十一人が死んだ。長江は後から捜査を事故の方向へ押し戻した」


「三枝を殺したのは、あなたですね」


 澪が静かに尋ねる。


「ああ」


「長江さんも?」


「ああ」


「返照鏡を使って」


 葛城は左手の破片を見た。十二年後、三枝が火災現場から持ち出した返照鏡を闇オークションへ流そうとしていることを知り、葛城は独自に調べ始めた。しかし警察内部で正式な証拠として扱わせることはできなかったという。


「鏡は一枚じゃない」


 黒瀬が地下室の壁へ残る長方形の焼け痕を指す。


「元々ここに大きな返照鏡があった。火災で砕けたんだ。三枝が持っていたものと、お前が持っているものは別々の破片。だが同じ鏡だった以上、残響を共有している」


「その通りだ。この破片で夏帆を呼び、三枝の鏡へ送った。長江にも」


「正確には夏帆を送ったんじゃない。青灯園が記憶した死を対象へ重ねたんだ。三枝の首を裂いた傷も、長江の熱傷も、ここで十二年前に起きた死の再現。だから傷口にガラスが残った。鏡の向こう側の現象を現実へ引き出した反動だ」


「さすがだな」


「褒めるな」


 黒瀬の顔から感情が消えた。


「死んだ妹を凶器に使った男に褒められても嬉しくない」


 葛城の目が鋭くなる。


「俺が夏帆を利用したと?」


「した」


「こいつらは夏帆を殺した!」


「だから何だ」


「黒瀬!」


「妹がお前に頼んだのか。こいつらを殺してくれと、夏帆自身が言ったのか」


 地下室に沈黙が落ちた。葛城は答えられない。


「『あと四人』は夏帆の言葉じゃない。残響から声を拾い、お前が意味を作った」


 葛城の目が見開かれた。


「昨夜、私たちは夏帆さんの本当の声を聞きました」


 澪が続ける。


「あなたが作った声とは違いました。夏帆さんは私たちに『伏せて』と言って、助けてくれたんです」


「違う。怪異には意思なんてない」


「そう思いたいだけじゃないですか?」


 澪の声は静かだった。


「妹さんが復讐を望んでいないかもしれないと認めたら、自分がしてきたことを『妹のため』だと言えなくなるから」


「黙れ!」


 葛城が拳銃を澪へ向け、黒瀬が迷わず彼女の前へ出た。


「撃つか?」


「どけ」


「嫌だ」


「最後の一人だ。向井を殺せば終わる」


「終わらない」


「終わる!」


「三枝を殺して終わったか? 長江を殺して、楽になったか?」


 葛城の指が止まる。


「お前に何が分かる!」


「分からない」


 黒瀬は即答した。


「お前の十二年は俺には分からない。家族を焼き殺された痛みも、助けられなかった後悔も、分かった顔をする気はない。でも殺人なら分かる。殺人は、死んだ人間を戻さない」


 葛城の左手にある鏡が震えた。


「黒瀬さん」


 澪が顔を上げる。


「来ます」


「何が?」


「全部です」


 地下室の照明が消えた。時刻は午後五時十八分。午前零時ではない。返照鏡の表面に次々と亀裂が走り、壁、床、天井のあらゆる場所へ煤に汚れた手形が浮かび上がる。子供の泣き声、悲鳴、炎の爆ぜる音、煙を吸い込む咳。現在の地下室へ十二年前の火災が重なり始めた。


「使いすぎたんです! 残響が溢れてる!」


「葛城、鏡を捨てろ!」


「できない!」


「何で!」


「夏帆がいる!」


 割れかけた鏡の中に、一人の少女が立っていた。相沢夏帆。


『お兄ちゃん』


 葛城の表情が崩れる。


「夏帆……もう少しだ。もう少しで全部終わる」


 少女は首を振った。


『違うよ』


「夏帆……」


『もう、いいよ』


 葛城の目から涙が零れる。


『帰ろう』


 次の瞬間、鏡が砕けた。衝撃で黒瀬と澪は床へ投げ出され、向井を縛った椅子も倒れる。空間そのものが裂けたような音とともに、無数の黒い人影が地下室へ溢れ出した。


「澪!」


「大丈夫です!」


 黒瀬は立ち上がり、迫る黒い腕を鉄杭で弾く。今までの残響とは違い、明確な手応えがあった。澪が音叉を鳴らすと一体が崩れたが、すぐに別の影が押し寄せてくる。


「向井を出せ!」


「この人もですか!」


「ここで死なせたら、事件の真相まで燃える!」


 澪は向井の縄を切った。


「立ってください!」


「腰が――」


「死ぬよりましです!」


 黒瀬は床へ膝をついたまま鏡の破片を見ている葛城へ手を伸ばす。


「葛城! 妹に二回置いていかれる気か!」


 葛城が顔を上げた。差し出された手を数秒見つめ、やがて強く掴む。


「出口まで走るぞ!」


 四人は地下室を飛び出した。廊下には実際には存在しない炎が燃え、十二年前の子供たちが煙の中を走っている。熱は幻ではなく、肌を刺すほど現実的だった。


「こっちです!」


「どっちだ!」


「左!」


 澪が残響の声を頼りに進路を選ぶ。途中で向井が転び、黒瀬が腕を掴んで引き起こした瞬間、壁の向こうから巨大な黒い腕が現れた。葛城は拳銃を構える。


「撃っても効かない!」


「分かってる!」


 葛城が撃ったのは怪異ではなかった。弾丸が天井の配管を破壊し、大量の冷水が廊下へ降り注ぐ。現実の水が火災の残響を横切った瞬間、記憶の炎が激しく揺らいだ。


「今だ!」


 四人はその隙に一階まで駆け上がり、正面玄関へ辿り着いた。しかし扉は開かない。


「外から施錠されています!」


 澪の声に、向井の顔から血の気が消えた。十二年前と同じだった。


『開けて』


「やめろ……」


『開けて』


「やめてくれ」


『先生』


 向井は耳を塞ぎ、その場に崩れかけた。


「俺は殺すつもりじゃなかった! 火をつけたのは三枝だ! 地下の資料だけ燃やす予定だった。長江が警察を止めると言った。俺は――」


「非常口を閉めたのは?」


 葛城の声だった。


 向井は泣きながら答えた。


「……私だ。子供が逃げると思った」


 葛城の拳銃がゆっくり向井へ向く。


「葛城」


 黒瀬は止めようとせず、ただ彼を見た。


「今なら撃てる。誰も止められないかもしれない」


 葛城の指が引き金へ掛かる。


「でも、妹は見てる」


 葛城の頬を涙が伝った。やがて拳銃がゆっくりと下がる。


「……くそ」


 その瞬間、澪が玄関横の壁を指さした。


「黒瀬さん!」


 そこには夏帆が立っていた。火傷も煤もない少女が、一つの場所を指さしている。


「そこ?」


 澪が壁を探り、古い非常用レバーを見つけた。


「手動解錠です!」


 黒瀬がカバーを蹴り割り、レバーを下げる。玄関扉のロックが外れた。


「出ろ!」


 四人が外へ飛び出した直後、旧青灯園のすべての窓が内側から一斉に砕けた。無数のガラス片が夕闇へ舞い上がり、その一瞬だけ、夜空へ放たれた星のように輝く。


 そして、十二年間そこへ残り続けていた声が、すべて消えた。



 三週間後、向井宗一は逮捕された。旧青灯園の地下室からは焼け残った帳簿、写真、取引記録が発見され、解析の結果、三枝正隆や長江修一を含む複数の関係者が児童の違法な移送と、それに伴う犯罪へ関与していたことが確認された。十二年前の青灯園火災も再捜査されることになった。


 葛城誠司もまた、三枝正隆及び長江修一殺害の容疑で逮捕された。怪異具、返照鏡、死者の残響――当然ながら、そのような言葉がそのまま起訴状へ記されることはない。殺害方法について警察が公表した説明も曖昧なままだったが、それでも葛城は自分が行ったことをすべて認めたという。取調べの中で、一度だけこう語ったらしい。


「妹は、俺よりずっと強かった」



 午後六時。黒瀬特殊調査事務所では、事件とはまったく別の争いが始まっていた。


「黒瀬さん」


 澪が一枚の封筒を机へ置く。


「何だ」


「請求書です」


「どこの?」


「私から黒瀬さんへの」


「何で?」


「危険手当です」


 黒瀬は紙を開き、金額を見て眉を寄せた。


「高くない?」


「銃で撃たれかけました」


「当たってない」


「怪異にも殺されかけました」


「生きてる」


「一か月分の給料を二日遅れて払われました」


「それは謝る」


「では払ってください」


「検討する」


「辞めます」


「待て」


 澪が小さく笑い、黒瀬は諦めたようにコーヒーへ口をつけた。窓の外では神田の街がゆっくりと夕闇へ沈み始めている。


「一つ聞いていいですか」


「何だ」


「最後に私たちを助けた夏帆さん。本当に夏帆さんだったんでしょうか。普通の残響なら、あんなふうに自分で考えて行動することはできないんですよね?」


「普通はな」


「じゃあ、魂だったんですか?」


「知らん」


「黒瀬さんにも分からないことがあるんですね」


「山ほどある。怪異を全部説明できると思ってる奴は、怪異を何も知らない」


 澪は窓の外へ目を向けた。


「死者は嘘をつく」


「ああ」


「でも今回、死者が嘘をついたんじゃありませんでした。生きている人が、死者に嘘をつかせていた」


 黒瀬はほんの少しだけ笑った。


「そっちのほうが多い」


「嫌な話ですね」


「人間の犯罪なんて、だいたい嫌な話だ」


「だったら、どうしてこの仕事を続けているんです?」


 黒瀬はすぐには答えなかった。机の上には青灯園火災の再捜査を報じる新聞が置かれ、十二年前に亡くなった十一人の名前が並んでいる。その中には、相沢夏帆の名もあった。


「死人は裁判所へ行けない」


 やがて黒瀬が口を開く。


「証言台にも立てない。自分を殺した奴を指さすことも、自分の名前を呼ぶこともできない。だから誰かが、残ってるものを拾うしかない」


 澪はしばらく黙ったあと、少しだけ笑った。


「珍しく格好いいこと言いましたね」


「珍しくは余計だ」


「では報酬の話に戻ります」


「何でそうなる」


「大切なので」


「死者より執念深いな」


「生きていますから」


 黒瀬は溜息をつき、渋々財布を取り出した。その時、机の隅へ置かれていた小さな鏡の破片に、一瞬だけ黒髪の少女が映った。事務所で割れた姿見から回収した、ごく普通のガラス片のはずだった。


 少女の顔には、もう火傷がない。白い服も煤で汚れていない。


 夏帆は笑っていた。


 黒瀬が振り返る。しかし、そこには誰もいない。


「どうしました?」


「いや。何でもない」


 黒瀬は鏡を静かに伏せた。


 外では夜が始まっていた。数え切れないほどの人間が生き、泣き、笑い、怒り、憎み、愛し、そしていつか死んでいく巨大な街。この街には、死者の声が残っている。聞こえるものもあれば、誰にも聞こえないものもある。正しい記憶も、間違った記憶もあり、ときには生きている人間によって意図的に歪められるものさえある。


 だから黒瀬冬真は、死者の言葉そのものを信じない。声だけではなく、その声が残された理由を調べる。幽霊だけではなく、その背後にいる人間を見る。呪いだけではなく、その呪いを生み出した傷を見る。


 たとえ午前零時になり、死者が再び口を開いたとしても。


 その言葉が真実である保証など、どこにもないのだから。

ここまで読んでくださり、そして『死者は午前零時に嘘をつく』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『死者は午前零時に嘘をつく』をよろしくお願いいたします!

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