第五十二話 道明僧正の過去
優しいキスの後、うっとりとした表情で私を見つめる僧正様の顔がそこにあった。
この愛おしい気持ちも、彼に欲情する熱さえもすべて見透かされているような眼差し。
魔王だったとしても、弄ばれているのだとしてもいいとさえ思った。
整った手が、私の唇を撫でる。その愛しい指に舌を這わせると、口の中に入ってきた。
入ってきた指を夢中になって舐める。恥ずかしいことをしている自覚はあった、だがそれ以上に彼の綺麗な手が心地よかった。
手を引き戻されると、お預けを食らったような切ない気持ちになってしまう。
「そなたという娘は・・・!」
聞こえたと同時に布団に押し倒された。下から見上げる僧正様は、困ったような怒ったような複雑な顔をしていた。
優位に立てたような気がして、少し嬉しい。
私だって、この体になる前はちゃんと経験を積んでいたのだ。そう易々と手玉に取られてたまるか。
反撃をされることも考えていた。のだが、意外なことに彼はその体制のまま何かを考えて、そして口を開いた。
「私は、そなたがなぜその力で市井の者らを治すのか、理解ができなかったのだ」
僧正様は限りなく悪役側の人間だろうし、そう思うのも無理はない。
この力だって、悪用方法なんて限りなく思いつくだろう。
「だが、昨日のそなたの話を聞いて理解した」
優しく微笑みながら頭を撫でられる。子ども扱いをされているような、少し恥ずかしい撫で方だ。
「そなたは、夫と子への罪悪感を質に取られていたのだな」
罪悪感。僧正様に話した時、私はその単語を口にしなかった。自分でもはっきりと自覚していなかったからだ。
けれど彼はこうやって、私の心をちゃんと拾い上げてくれる。
向き合って、想ってくれる。
それが、どんなに嬉しいことか・・・!
あふれ出てしまった涙が次々と零れていく。恥ずかしくて、僧正様から逃れるように横を向いた。
悪魔のように蠱惑的で、魔王のように酷いのに、本当は慈悲深くて優しい人。怖くて綺麗でかわいい人。
泣いてしまうほどに、どうしようもないくらい彼が好きなのだ。
僧正様は、私を後ろから優しく抱きしめてくれて、その温もりにまた涙が出る。
そのまま彼は、私が泣き止むまで抱きしめていてくれた。
「そなたの涙に、私は敵わぬのだ」
泣き止んだ私の耳元に、切なげな僧正様の声が囁かれる。
先ほどまで安心する体温だったのに、急に心臓がドキドキと脈打ち始めた。
じっとりと汗かいていても、体に残る余韻のせいで気にならない。
頬を撫でられ目を上げると、僧正様が優しく微笑んでいた。
熱は冷めても彼に触れるのは心地よい。
招き入れられて腕枕の位置に収まると、少しだけ恥ずかしくて顔をグリグリと彼の胸に押し付けた。
「私の話も聞いてくれるか?」
それは、独り言にも聞こえる声だった。
私の返事を待たず、彼は続ける。
「そなたには知っていて欲しいのだ」
泣いているのかと思った。それくらい静かな声だった。
彼の手が、顔を見られたくないかのように私の頭を撫でるので、私は彼にしがみつくのを返事にした。
僧正様の話は彼の生い立ちと、今の立場を得た目的についてだった。
殿のお父上様は、お若い頃によく領内を散策されていたそうで、その時に見初められたのが僧正様のお母様ということらしい。
だが、お母様は体が弱く、城での生活には耐えられないからとお断りしてしまう。その身に僧正様を宿しているとは知らずに。
お母様はそのまま生家に戻り、僧正様を産み育てることになる。
しかし、祖父母も早くに亡くなってしまうと、生活は途端に立ち行かなくなった。
「物心がついた時分には既に大人の真似事で金銭を稼いでいた」と言っていたが、どんなに辛かったことか想像もできない。
僧正様は子どもの身ながら仕事をし、お母様との生活を支えたそうだ。
そして十歳になった年、状況は一気に変わる。
お父上様がやっとの思いでお母様を探し出し、貧困の暮らしから救い出してくれたのだ。
急な生活の変化に戸惑いつつ、お母様の病をきちんと治療できることに喜んだ僧正様。十歳の彼はさぞかし可愛かったことだろうと思う。
新しい環境になって半年で、治療のかいなくお母様は命を落とされてしまったそうだ。
でも、「元より治るものではなかった故、最期に夢を見れて幸せそうであった」と言うからには、お母様は幸せな中逝かれたのだと思う。
喪が明けて初めてご正室であるお母上様と五つ下の弟、殿を紹介された。お母様への配慮だったのだろうが、突然紹介されて驚かないわけが無い。
お母上様と殿はお優しくてまるで本物の親子のように接してくださり、そのうちお父上様は僧正様に跡を任せたいとまで言ってくれたそうだ。
なのに、それを振り切り出家してしまったという。
ここで疑問に思う。何故そこまで頑なに跡継ぎを嫌がるのか。
話を聞く限りは家族仲も良く、跡目争いもせずに継ぐことだってできたはずだ。
でも、その答えはとても予想外なものだった。
「飼い慣らされた鶏に野生のカラスが紛れ込んだような違和感」なのだと僧正様は言った。
幼い頃より人の悪意に晒され、騙され、欺かれてきた彼には、人の善悪を見抜き一度懐に入れた相手は全面的に信じるという殿の一家に混じることが苦痛だったらしい。
だが、暖かく迎えてくれた恩義からできる限りの恩返しをしたいと考え、僧になったという。
「家臣では無いのですか?」と聞いてみた。たぶん的外れな質問であっただろうが、彼は優しく答えてくれた。
この八ツ笠の地に接する霧巻という土地がある。この霧巻にはかつて戦争好きな武将がおり、当領地とも何度も戦をしたらしい。
現在の霧巻の領主はその武将とは違う家の人だけど、実はその戦というのは霧巻にある聖雅院というお寺の僧侶達が先導したものであったのだ。
平定の世とはいえ、その僧侶達がいる限りは戦の禍根は消えてはいない。
「殿と八ツ笠の地を守るには聖雅院の院主になるしかなかったのだ」と言うことらしい。
僧正の地位を得て、もう少しでそこまで手が届くのだそうだ。
ここで再び疑問が湧く。
「聖雅院の院主というのはそんなに簡単になれるものなのですか?」
僧正様からは返事がなかった。が、その反応から、あまり宜しくはない方法で成り上がっているのだと言うことだけは分かった。




