人間彫刻殺人事件
午前三時。
空は、呼吸すら許さない漆黒だった。
光と呼べるものは、どこにもなかった。
都市の最後の灯りさえ──この廃墟に届くことを拒んだかのように、
俺たちの頭上には、ただ闇だけが降り積もっていた。
都市の果て、捨てられた区域。
時間さえ腐り落ちるその場所で、
俺たちは静かに、息を潜めて立っていた。
風が吹く。
だがそれは、ただの空気の流れではなかった。
生きているかのように──
血の匂いを運び、
腐った肉の震え、
錆びついた鉄の呻き、
湿ったコンクリートに芽生えたカビの記憶を、
風はまとっていた。
俺は、防弾チョッキの下、
皮膚がじわじわと汗に濡れていくのを感じた。
鳥肌が立った。
外側ではない。
内側から。
筋肉が先に察し、
脊髄が先に警告を発した。
左腕。
その機械の関節が、微かに震えた。
まるで──
「ここに入ってはいけない」
そう訴えるかのように。
不快な痙攣は、皮膚を越え、
精神の奥深くにまで侵食してきた。
俺は息を吸い込んだ。
腐った血と金属、
湿った石の悪臭が、
肺の奥に、じっとりと溜まっていった。
**
司が、ポン、と俺の肩を叩いた。
「新人、ビビってんのか?」
俺は顔を上げた。
彼の目を、まっすぐに見返した。
答えはしなかった。
司は口元を吊り上げた。
その笑みは、軽い冗談のようだった。
だが──
義足から響く「ゴン、ゴン」という音は、
どこか不吉だった。
「すぐに、お前の中身を見せてもらうからな。」
そう言い残し、
司は闇の中へと一歩踏み出した。
**
未来が隣で、紙を一枚ひらひらと振った。
蛍光ペンで走り書きされた文字。
「吐いたら、真っ先に撮って送るからな。グループチャットに。」
俺は細く目を細めた。
反射的に、義手の感覚が微かに震えた。
彼らは笑っていた。
まるで、これが日常だと言わんばかりに。
毎回、こうしているかのように。
──だが、俺は知っている。
この冗談は、嘘じゃない。
軽口の裏に隠れているのは、
血と骨と肉の匂いにまみれた──現実だった。
ここでは、笑いも防弾の一部だ。
虚勢も、防衛本能だ。
そうでもしなければ──壊れてしまう。
俺は、息を吸い込んだ。
**
優月は、
蛍光灯すら消えた死んだ路地を、慎重に歩いていた。
杖も持たず、
指先ひとつ伸ばすこともなく──
まるで世界の輪郭を、手より先に感じ取るかのように。
彼女は、影の間をすべるように通り過ぎた。
その足取りはあまりにも静かで、
かえって異質だった。
死んだものしか存在しないこの場所で、
あまりにも鮮やかに生きている幽霊のようだった。
彼女が立ち止まった。
ゆっくりと──本当に、ゆっくりと
顔をこちらへ向けた。
目は見えていないはずなのに、
その視線は、確かに俺を捉えていた。
呼吸。
たったそれだけの微かなリズムで、
俺の位置を察知したかのような──精確さ。
そして、
ほんのわずかに、
ほとんど見えないほどそっと、
頷いた。
言葉を持たない彼女なりの、
静かな挨拶。
あるいは。
「耐えろ。」
目ではなく、心臓に届く、
とても深く、古びた──激励。
俺は、小さく息を吐いた。
**
俺たちは、廃工場地帯を抜け、
錆びついたフェンスを慎重に越えた。
鉄格子の隙間から覗いたのは──
凍りつくように残酷な闇だった。
フェンスの内側。
その影の向こう、俺たちが足を踏み入れた場所は──
地獄だった。
言葉ではない。
感覚が、先に悟ってしまった。
肺に流れ込んでくる空気は、腐っていた。
足元の泥は、血の匂いを孕んでいた。
**
最初に目に入ったのは──
「花」だった。
夜霧に乗って、ぼんやりと咲いた輪郭。
妙に柔らかく、
異様に美しかった。
その一瞬、俺は──
それを、本物の花だと信じかけた。
だが、それは花ではなかった。
花のように、無理やり開かれた──「人間」だった。
死体だった。
人の手足は、肉が裂けるまで引き裂かれ、
太く荒れた鉄パイプに、
無惨に──縫い留められるように吊るされていた。
関節はすべて砕かれ、
骨の節々はねじ曲げられ、
あり得ない角度にまで、無理やり開かされていた。
肉は血に濡れて、ぐったりと垂れ下がり、
裂けた靭帯と筋肉は、
巨大な花弁のように広げられ、
宙に浮かぶように固定されていた。
そのすべての構造は──
残酷なほどに精巧だった。
誰かの手で設計され、
まるで芸術のように彫刻された──そんな残虐さ。
死者は、笑っていた。
血で固まった唇が裂けるように開き、
黒ずんだ歯茎が剥き出しになっていた。
その笑みは、もはや人間のものではなかった。
人形の。
あるいは、死んだ魂の、痙攣に近かった。
その中心。
本来なら心臓があるはずの場所に──
一輪のバラが、
美しく、そして固く、
突き刺さっていた。
濃い紅色だった。
血とは違う、
もっと完璧な──赤。
あらゆる凄惨な死骸の中で、
異様なほど際立つ、生。
俺は、一瞬で息が詰まった。
空気中の血の匂いが、肺の奥まで叩き込まれ、
胸のどこかが、名も知らぬ力で締め付けられた。
頭がぼうっとした。
全身の感覚が、ぷつりと断たれる錯覚。
背筋をつたって、冷や汗が──
蛇のように、ぬるりと流れ落ちた。
**
司が、俺の脇腹をポンと小突いた。
彼の手には手袋がはめられていたが、
その短い接触は、
不快なほど生々しかった。
「おう、新人。」
彼は言った。
まるで、これが当たり前のことのように。
飽きるほど、繰り返してきたかのように。
「大丈夫か? 倒れんなよ。」
その口調には、冗談めいた余裕が滲んでいた。
だが──
その余裕こそが、
俺をさらに息苦しくさせた。
**
未来は隣で、静かに端末を叩いていた。
その表情は、墓場のように空っぽだった。
しばらくして、彼は手を伸ばした。
ぽん、と渡されたメモ用紙。
蛍光ペンで書かれた、短く鋭い冗談。
『どうだ、新人?
初めての美術館体験は。』
俺は無言でその紙を受け取り、
ぐしゃりと力なく握り潰した。
手には、紙の感触ではなく──
まるで血のように湿った、不快感だけが滲んだ。
そして、それをゆっくりとポケットに押し込んだ。
**
無表情。
それが、俺にできる唯一の防御だった。
だが、内側では──煮えたぎっていた。
煮えるでも、燃えるでもない。
もっと、深いところ。
どこかで、何かが這い出してくるような──そんな感覚。
目の前の光景は、「死」ではなかった。
「芸術」だった。
肉と靭帯を彫り上げて作られた、
悪夢のような美。
──狂気だった。
**
「こっち。」
優月が、指先で静かに空を指し示した。
その動きには、迷いも、不確かさもなかった。
まるで──見えているかのように。
いや、
もしかすると俺たち以上に、
この闇の中に漂う悪臭を、
「感じ取って」いたのかもしれない。
俺たちは、無言のまま彼女の後に続き、
さらに奥へと歩みを進めた。
打ち捨てられた鉄骨の間を抜け、
錆びたはしご、割れたガラス、
無惨に引き裂かれた軋む鉄扉たち。
その向こうに──
闇ですら飲み込むのをためらったかのような空間が、
ぽっかりと口を開けていた。
そして、そこで俺たちは見た。
ただの「死」と呼ぶにはあまりにも異様で、
あまりにも意図的な──何かを。
人間、五体。
子供が二人。
女が三人。
彼らは、互いの腕と脚を切り離していた。
ただの切断ではなかった。
正確に──
執拗に──
関節ひとつひとつを分解し、
切り取った骨を編み合わせて、
巨大な構造体を作り上げていた。
巨大な──木だった。
人間の背骨と脛骨が、幹のように立ち上がり、
腕と脚は枝のように四方へと広がっていた。
骨と骨は、鉄芯ではなく──
筋肉と靭帯、
そして皮膚のしぶとい断片によって、
精巧に結び合わされていた。
最も──
おぞましかったのは、肋骨だった。
それは枝のように広がり、
その先端には、血に濡れた皮膚の断片が、
葉のように、湿りながら、
ぐったりと垂れ下がっていた。
血の雫が、一枚一枚、
葉を伝って、
じわり──と流れ落ちた。
滲むように、ゆっくりと。
だからこそ、なおさら──身の毛がよだつ。
血の匂いは、もはや「匂い」ではなかった。
それは──触感だった。
肌に張り付き、
眼球にまとわりつく──粘りつく感触。
誰かが、これを「作った」。
ただ殺したのではない。
積み上げ、
編み合わせ、
組み上げたのだ。
誰かの手が、
この精緻な狂気の造形を、
ひとつひとつ──組み立てたという事実が、
何よりも──背筋を凍らせた。
そして、その奇怪な樹の根元。
血に濡れたコンクリートの上に、
一枚の紙切れが置かれていた。
風ひとつないこの場所で──
まるで誰かが、わざと「配置」したかのように。
一枚。
たった一枚。
真っ白だった。
血の一滴さえなく──
かえって、恐ろしかった。
優月が静かに歩み寄り、
指先でそれを、そっとなぞった。
彼女の指先の動きは、
いつも通り──慣れていて、慎重だった。
だが、今だけは。
ほんのわずかに、
何かが揺らいでいた。
優月の手が止まった。
そして──
ゆっくりと、唇が開かれた。
「紅の庭へ、ようこそ。
美しさは、苦痛の中で咲き誇る。」
彼女の声は、いつも通り──低く、静かだった。
震えひとつない口調。
だが、俺には分かった。
彼女もまた、今、内側で軋んでいることを。
言葉は平静を装っていたが──
それよりも微細な、何か。
呼吸音。
彼女が息を吐くたびに、
そこには、
ごく小さく──ごく細い震えが混じっていた。
まるで、見えない棘が
肺の奥を刺し続けているかのように。
彼女は、何も言わなかった。
驚きもせず、怒りもせず、
ただ静かに──あの文章を読み上げただけだった。
だが、俺には聞こえた。
その震えに滲んでいた感情が。
悲しみ。
怒り。
嫌悪。
そして──
何度も、何度も見てきた者だけが持つ、
酷く深い──諦念。
俺は目を逸らした。
そして再び、あの樹を見た。
肉で編まれた枝。
骨で築かれた幹。
皮膚のように、ぶらりと揺れる葉。
**
「クソみてぇだな。」
司が、低く、荒々しく吐き捨てた。
彼の目には、もはや感情は宿っていなかった。
軽蔑すら──
冷めきった表情。
ただ、嫌悪だけが残った瞳で、
筋肉が剥がれた死体を、
つま先で乱暴に蹴り飛ばした。
「作品? ふざけんな。」
ドス──
乾ききった肉片が、空中でわずかに揺れた。
だが、死体は崩れなかった。
揺れもしなかった。
あまりにも完璧に、固定されていた。
まるで、機械のように。
ネジもなかった。
釘もなかった。
それでも、その「形」は動かなかった。
それは固定ではなく──設計だった。
正確な重量配分。
人体の靭帯と関節を計算し尽くした分割。
生きた人間を再構成した、
異形の彫刻だった。
**
未来が、ゆっくりと隣に歩み寄った。
言葉はなかったが、
その表情だけで、
彼が何を感じているのか、分かった。
彼は端末に素早く何かを打ち込み、
トン──
手のひらに、メモをひとつ落とした。
『これ、一人でやったと思うか?』
俺は、目線をメモから逸らさず、
小さく首を横に振った。
未来は再び、メモを差し出した。
今度は、筆圧がさらに強く刻まれていた。
『違う。一人じゃない。
パターンが、おかしい。』
俺は、ゆっくりと視線を巡らせた。
現場を、改めて分析した。
死体の配置。
骨の角度。
支えとなる構造。
これは──
単なる激情で作られたものではなかった。
計画だった。
そして、分業だった。
犯人は、少なくとも二人以上。
役割は明確に分かれていた。
一人は、構造を設計し。
一人は、肉を切り裂き。
そしてもう一人は、それを編み上げた。
──あるいは。
たった一人かもしれない。
だが、その一人は、
最初からすべてを設計し、用意していた者。
場所も。
構造物も。
固定の道具も。
解体の手順すらも。
俺は、小さく息を吐いた。
──これは、始まりに過ぎない。
ここまで精緻に作り上げたということは、
ここで終わるはずがない。
もっと大きく、
もっと──おぞましい何かが、
どこかで待ち受けている。
その可能性が──あった。
**
「新人。」
司が俺を呼んだ。
俺は、そちらに顔を向けた。
彼の顔には、まだどこか、悪戯っぽい色が残っていた。
彼は舌打ちした。
「顔、真っ白だぞ。」
そして、いつもの調子で笑った。
「大丈夫だ。まだ吐く時間は残ってるからよ。」
血の匂いが満ちた空間。
肉片がぶら下がる死体の前で──
司は、それでもそんな冗談を飛ばせる人間だった。
あるいは。
そうでもしなければ、
この光景に耐えられなかった人間だったのかもしれない。
俺は、じっと彼を見つめた。
微動だにしない視線で、
沈黙のまま。
そして、短く言い放った。
「黙れ。」
ためらいのない一言だった。
声は低く、硬かった。
空気すら、一瞬、ビクリと凍りついた気がした。
司は、びくりと肩を揺らした。
眉がわずかに跳ね上がり、
口元にかかっていた笑みが、
ぎこちなく歪んだ。
彼は、しばらく俺を見つめたあと──
乾いた苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「へぇ。やるじゃねぇか。」
その言葉に、本心が混じっていたのかは分からなかった。
ただ、
彼はそれ以上──何も言わなかった。
優月が、そっと首を傾けた。
俺の方へ。
彼女の目は見えていなかった。
だが、俺には分かった。
彼女が──
今、俺の声を記憶に刻み込んだことを。
その響き。
その確かさ。
それを、静かに──
胸の奥深くにしまい込んだことを。
表情も、言葉もなかった。
だが、それは、確かだった。
彼女は、そうやって聞く。
音ではなく──心で。
空気に走る微かな震えと、
人と人との間に生まれる裂け目を、
感覚することで。
俺は、再び前を見据えた。
骨で作られた樹。
人の形を模した、狂気の象徴。
──吐く時間は、まだ残されているかもしれない。
だが、倒れる時間は、ない。
「集中しろ。」
無線を通じて──
伊達 玄一の声が流れた。
雑音の中でも、その声は揺るがなかった。
まるで、現場のどこかに彼自身が立っているかのように。
「奴はまだ、この近くに潜んでいる可能性がある。」
静寂が、ずしりと降りた。
風さえも止まったかのように、
俺たちの間には、一言も交わされなかった。
ただ──
それぞれの呼吸音と、
高鳴る鼓動だけが、
この闇に満ちていた。
「生きた造形物が、追加されるかもしれない。」
それは──
単なる警告ではなかった。
紛れもない、事実の通告だった
生きている──
まだ、完成していない。
まだ、絶叫している。
皮膚が剥がれ、
靭帯が引き裂かれ、
筋肉が慎重に引き伸ばされていく──
そのすべての過程の中で、
誰かが──
まだ「生きている」可能性があるということだった。
息を吐くたびに、
肺の奥から、錆びた鉄の味が込み上げた。
単なる恐怖ではなかった。
嫌悪でも、怒りでもない。
それは──想像だった。
誰かが、この夜を──
生きたまま、耐え続けているかもしれないという、
おぞましい想像。
俺は銃を、さらに強く握り締めた。
金属の指の関節が、ギリリと軋み、
その音が、闇の中へと溶けた。
もしかしたら──
次は、
まだ叫び続けている誰かを、
「彫刻」にされる前に──
見つけなければならない。
嫌な予感が、
首筋を這い上がってきた。
血の匂いにまみれた空気のどこかから──
死が、忍び寄ってきていた。
まだ輪郭はなかった。
だが、それは確かだった。
本能は、いつだって言葉より先に動く。
死が、近づいている。
──分かっていた。
ここは、ただの犯罪現場ではない。
ただの殺人の痕跡でも、
証拠を拾うための場所でもない。
**
ここは──
紅の庭。
死が根を張り、狂気が花を咲かせる地。
肉片が種となり、絶叫が肥料となる場所。
芸術という名の下に、
命が踏みにじられる庭。
そして今──
そのど真ん中に、
俺たちは
投げ込まれた。
誰かが描いた通りに。
誰かが仕組んだシナリオの上に。
俺たちは──
寸分違わず、踏み込んでしまった。
すべての仕掛けは、あまりにも完璧だった。
形も。
配置も。
残されたメッセージすらも。
──これは、展示だ。
死を見せるための、
誰かの、神聖な儀式だった。
そして──
次は、
たぶん、俺たちだ。
死者たちの微笑みは、何を語っているのだろうか。
第5話は、単なる死体の羅列ではなく、
誰かの「メッセージ」として──
死をデザインした事件を描いています。
これは、まだ始まりに過ぎません。
『赤者』は、これから本当の闇へと足を踏み入れます。
どうか、共に歩んでください。
暗い庭の向こう側まで。