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獣たち

鉄の扉が、ガチャンと音を立てて閉まった。

金属が擦れる音と、鈍い施錠の音。

それだけで、世界との繋がりは断たれた。

鉄。

コンクリート。

血の匂い。

ここは、世界の底だった。

その上に、俺は──たった一人で立っていた。

リングの中央。

血に染まった床。

あちこちにこびりついた血の塊。

誰かの肉。

誰かの息。

そして、消えた名前たち。

空気はねっとりとまとわりついた。

酸素より重く、汗よりも湿っていた。

遠くで、誰かがカビたカーテンを引き裂くような、

湿気の臭いが漂ってきた。

だが、その匂いすら──

もう、俺には馴染みのものだった。


**


頭上の古びた蛍光灯が、チカチカと瞬いた。

ジイィ──

雑音のように唸りながら、

光と闇が交互に視界を覆った。

その薄暗い光の下、影が揺らめいた。

ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。

四つのシルエットが、

光に焼かれるように、半ば溶けて見えた。


影たちは、徐々にその輪郭を露わにしていった。

それぞれ異なる欠損。

それぞれ異なる狂気。

片足を引きずる者。

澄んだ目で、不気味にこちらを見つめる者。


彼らは言葉を発さなかった。

口を動かすことも、表情を作ることもなかった。

呼吸音すら聞こえなかった。

──仮に聞こえたとしても、それは刃のように薄く、鋭いものだった。

そして、その細い呼吸音たちが、

少しずつ、俺に向き始めた。

俺へ。

肌を突き刺すことなく、

それでも牙を剥く寸前の獣のように。


「これが、新入りか。」

しゃがれた、荒々しい声。

まるで金属片を引き裂くような音色だった。

義足を引きずりながら近づいてくる男。

金属が床を擦る音が、

空気よりも先に、俺へと迫ってきた。


神谷 司。

彼は鼻をひくつかせながら、俺を上から下まで眺めた。

「腕が一本ないって……本当だったんだな。」

嘲笑もなかった。

感心もなかった。

ただ、事実を突き刺すように言葉を吐いた。

司は俺の目の前に立ち、

ゆっくりと首を傾げた。

「これで……俺たちのチームの平均寿命が、また縮まるな。」

俺は黙って彼を見つめた。

何も返さなかった。

それだけで、司の口元がぴくりと動いた。

「まあ、それでも気にはなるけどな。」

彼は手を伸ばし、俺の肩を軽く叩いた。

軽いはずなのに、

侮辱のように重たく響いた。

「吠えるくらいはできるか?」

その瞬間、俺は彼の手を、ピシッ──と短く、鋭くはじき飛ばした。

司の手首がわずかに揺れ、

顔が歪んだ。

「犬よりも吠えねぇな。」

俺は司の手をはじいた後、

しばらく彼の目を見据えた。

──見据えた、とは違うかもしれない。

そこにあったのは、人間の瞳ではなかった。

獲物の弱点を探る、

獣の目だった。


『なんで、こんな場所に来たんだ。』

──きっと、彼はそう思っているだろう。

いや、ここにいる全員が、そう思っているはずだ。

俺は、この場所にふさわしい「欠損」を

持たない異物に見えているのだから。


「うるさい。」

静かな女の声だった。

だが、その一言が、空気に細かなひび割れを走らせた。

黒い髪。

光を失った虹彩。

早瀬 優月。

彼女の目は、見えていなかった。

杖も持っていなかった。

それでも、リングの上を歩いていた。

迷いもなく、

歪みもなく、

まるで影をなぞるように。

どこを見ているわけでもないのに、

優月は正確に、俺たち二人の間を通り抜けた。

「その呼吸音、うるさい。」

司が鼻で笑った。

「おお、感識犬様。ちゃんと聞こえてるんだな?」

優月は応えなかった。

その代わりに──

ほんの僅かに、唇の端を上げた。

ほとんど気付かれないほどの、小さな動きだった。

だが、俺は見逃さなかった。

彼女が、俺の声を聞いて

一瞬、足を止めたことを。

俺が吐き出した、あの短い言葉。

柔らかく、それでいて確かな響き。

その音が、

彼女の感覚を

かすかに──掠めていったのを。


『静かにしろ。』

紙に書かれた、

鋭く、整った文字。

背後から、誰かがその紙を差し出してきた。

そして──別の手。

俺は振り返った。

華奢な体躯。

微笑を浮かべた顔。

花村 未来。

彼は何も言わず、

一枚の紙を、ぽんと俺の手に落とした。

紙は軽かったが、

そこに記された言葉は、重かった。

『動物農場へようこそ。』

俺はしばらく紙を見つめたあと、顔を上げた。

「笑わせるな。」

短く、太い一言。

未来はその言葉を聞いて、口元をさらに大きく吊り上げた。

──悪戯を眺めるような眼差し。

だが、その奥に隠されていたのは、

感情のない計算機。

笑みは薄く、

視線はあまりにも静かだった。

彼は──声を持たない者だった。


優月は──

あの小さな会話の欠片すら、聞き逃していなかった。

呼吸の振動。

声の波紋。

言葉と言葉の間に生まれる、微細な空白。

彼女はそのすべての隙間を、

目の代わりに、耳で読み取っていた。

そして静かに、首を傾けた。

指先が、リングの床をそっとなぞった。

軽く。

痕跡すら残さぬほどに。

だが、その小さな動き一つで──

俺は気づいた。

かすかな興味。

優月は決して、表に感情を出さない。

表情を作らない。

どんな感情も、決して顔に浮かべない。

それでも──今、彼女は、

俺を少しだけ、違う目で見始めていた。


「やめろ。」

重い命令が、空気を裂くように落ちた。

鉄製の車椅子が、リングの床を擦りながら近づいてきた。

金属の車輪が、血にまみれた床の上を、

ゆっくりと押し進んできた。


伊達 玄一。

死んだような目。

氷のように冷たい命令者。

彼は車椅子を止めた。

「ここは遊び場じゃない。」

声は高くなかった。

だが、それでも誰一人、深く息を吸うことができなかった。

玄一はリングの中央に立ち、

俺たちを見回した。


神谷 司。

早瀬 優月。

花村 未来。

──そして、俺。


「俺たちは、英雄じゃない。」

「俺たちは、仲間でもない。」

「互いを信じる必要もない。」

彼の言葉一つ一つが、

鉄塊のように、ドスン、ドスンと落ちていった。

「ただ一つ。」

彼はゆっくりと拳を握った。

金属のような骨が軋んだ。

「隣の奴が死にそうなら、助けろ。」

一瞬の沈黙。

その次に放たれた言葉には、

ほとんど氷のような冷たさが宿っていた。

「さもなきゃ──お前が死ぬ。」


彼が手を振った。


ガチャン──


鉄の扉が開いた。

重く、低い音。

その隙間から、ストレッチャーが一台押し込まれた。

上には布がかけられていた。

形は人間だったが、

その姿勢はすでに、壊れていた。

玄一が、布をめくった。


腐った肉。

弾けた内臓。

白目を剥いた眼球。

血は乾き、

肉は膨れ上がり、

口は閉じることもできずに固まっていた。

首には、鉄の鎖で編まれた認識票がかかっていた。


赤者三十二期。


その数字ひとつ。

名前も、階級も、記憶もなかった。

彼は──死んだ先輩だった。

死んだ獣だった。


俺たち全員に、

その死体を直視させた。


これが──赤者だった。

生き延びられなければ、こうして死ぬ。


玄一は、死体を見下ろしながら、

淡々と告げた。


「覚えている。三十二期のことだ。」


「任務は単純だった。

都市郊外の廃墟群──偵察。

その地域は、"救いの輪" という組織の残党が

置き去りにしたゴミ溜めだった。

もともと、危険レベルも低かった。」


「だが──奴らが現れた。

人間でもなく、化け物でもない何か。

皮膚は人間のものだったが、

首は機械のように回り、

口からは“言葉”ではなく、

金属を引き裂くような音が漏れていた。」


「初撃で一人が死んだ。

脚をもがれたまま這いずり、

顔を叩き潰された。

次もすぐだった。

背骨が折れ、

肩が食い千切られた。

残ったのは三人だけ。」

「互いに、生き延びようと必死だった。

ただ、仲間が"弱い"という理由で──

三人はそれを言い訳にした。」


「……だから、背を向けた。」

「助けには行かなかった。」


「崩れた階段の下で、一人が命乞いをしていた。

声は潰れ、

肺は血で溢れ、

内臓は床を引きずっていた。

それでも──まだ息はあった。」


「最後に彼が見たものは、

仲間たちの、背中だった。」



「そうして、ゆっくりと死んだ。

肉は裂け、

内臓は引きずり出され、

眼球は石に擦れ、

歯は折れた。

記憶なんて、もう残らなかっただろう。

残ったのは、

潰れた脳みそと──

首にかかった認識票、ただ一つ。」


「……だから、俺たちが連れてきた。

助けなかった連中は、抹消した。

救助できなかった奴は、ここに寝かせた。」



「今、見ているだろう。」


「これが、その死体だ。」


「チームが──救わなかった。」


声は低く、乾いていた。

そこには、いかなる感情も乗っていなかった。


「耐えろ。」

短い言葉だった。

だが、その一言が、

俺たちの呼吸を押さえつけた。

彼はゆっくりと顔を上げた。

俺たち全員を見渡しながら、

片腕を──すっと伸ばした。


「ここでは、死んでも誰も泣かない。」

「泣く資格なんて、ない。」

「ここにいる誰一人として。」


呼吸音ひとつ、聞こえなかった。

死体は依然として、ストレッチャーの上に横たわっていた。

口は開き、目は閉じることなく晒されていた。

「お前たちも、すぐにそうなる。」

その言葉は、脅しではなかった。

ただ、この世界に存在する一つの統計にすぎなかった。

死んだ者、一人。

すぐに死ぬ者、四人。

そして、その間で生き残るのは──誰か。


**


最初に動いたのは、司だった。

彼は死体を一瞥し、

顎を斜めに突き上げると、

ぽつりと吐き捨てた。

「結局、自分の命を守っただけだろ。」

そこに嘲笑はなかった。

むしろ、その言葉は──

「俺だって、同じことをしたかもしれない」

そんな自己嫌悪に近かった。

司は一瞬、唇を噛み、

無言で背を向けた。

壁にもたれかかりながら、

タバコを取り出しかけ──そしてやめた。

指先が、微かに震えていた。


**


優月は、静かに息を吸い込んだ。

そして、リングの床にそっと指先を触れた。

乾ききった血の跡。

その微かな震えを、

まるで掌でなぞるように、

ゆっくりと撫でた。

「……そうだったんだ。」

彼女は独り言のように呟いた。

「誰も──泣かなかったんだね。」


**


未来は、誰よりも長く、死体を見つめていた。

表情はなかった。

瞳は、いつもよりもゆっくりと瞬きを繰り返し、

彼は静かに膝をついた。

そして、死体の顔をじっと覗き込んだ。

彼が取り出したのは──紙と、モナミのボールペン。

何かを書きつけた。

短い、一文だった。

未来は、それを静かに折りたたみ、

死体の胸元にそっと置いた。

『お前も──生きたかったんだろう。』


**


俺は、リングの中心に立っていた。

左腕。

金属と筋肉が、皮膚の下で蠢いていた。

肉ではない──鋼鉄の感覚が、

ゆっくりと指先へと滲み出していた。

周囲には、人間という仮面を脱ぎ捨てた獣たちがいた。

血の匂い。

鉄の匂い。

尖った呼吸音。

すべてが、音もなく俺の肌を削り取っていった。

その中で──俺は、微笑んだ。

柔らかくもなかった。

温かくもなかった。

冷たい筋肉の上に、

乾ききった血の上に、

ねじれた意志だけが、引っかかっていた。


死にはしない。

砕けようとも、屈しはしない。

生き延びる。

獣たちの中で──

たとえ、より醜くなってでも。

この世界には、死よりも恐ろしいものがある。

それは──誰にも記憶されない死。


『獣たち』は、そんな死を目の当たりにした者たちが、

生き延びるために互いをどう見つめるかを描いた記録です。


私は、死から目を背けません。

そして──最後まで、戦い続けます。

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