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生き残りに与えられる名前

地下のバンカーの扉が閉まった。

ガチャン──

鈍い音が、背後で静かに響いた。

俺は、世界と完全に断絶された。

空気は重かった。

湿り気を帯び、ねっとりとまとわりついた。

カビの匂い。

血の匂い。

錆びた鉄の苦い匂い。

すべてが混ざり合い、

喉をかすめ、肺の奥深くに染み込んでいった。


俺は暗い廊下を、ゆっくりと歩いた。

壁を伝って、赤い光が流れていた。

光というより、血が滲み出しているかのようだった。

ねっとりと、濁っていて、忌まわしく、鈍く広がる。

床は湿り気で濡れていた。

気を抜けば、すぐにでも滑りそうだった。

足元からは、濡れたゴムが擦れるような小さな音が漏れた。

鉄の靴が、床を重く鳴らしていた。


ドン──


ドン──


一歩踏み出すたびに、二度、反響が響いた。

息をするたび、その振動が胸に突き刺さる。

周囲は静まり返っていた。

あまりにも静かで、耳の奥が震えるほどだった。

誰もいなかった。

案内もなかった。

──それでも、感じた。

どこかから、俺を射抜く視線を。


首筋に何かが触れた気がして、振り返った。

だが、何も見えなかった。

音すら、なかった。

──それでも、確かに感じた。

冷ややかだった。

殺意を隠し持った視線。

不快なほど静かな眼差しが、肌を這い上がってくる。

俺はもう、振り返らなかった。

振り返ったところで、そこに誰もいないとわかっていたからだ。

ここは──そういう場所だった。

そして、悟った。

ここでは、人間は「選ばれる」ことなどない。

言葉も、理性も、倫理すらも──

すべてが無意味だ。



『赤者』は、人を選ばない。

選ぶのは──獣だ。

生き延びるために、噛みつける存在。

必要とあらば、人間性すら捨てられる存在。

死を踏み越えてなお、走り続けることができる──

そんな者だけが、生き残る。


**


廊下の端にある扉にたどり着いた。

錆びた蝶番、閉じられた隙間。

鉄の匂いが強く漂っていた。

扉の上には、かすかに刻まれた文字があった。


【赤者:第33期入隊式】

正確な活字。

冷徹な文面。

感情など混じらない、手続きの言葉。

第33期。

数字が不気味に刻まれている。


扉は思ったより重かった。

しばらく押し込んでようやく、ゆっくりと開いた。



ギィィィ—


まず、匂いが入ってきた。

油の匂い。

鉄の焼けた匂い。

乾いた血と、古い埃の苦い匂い。

光は赤かった。

どこから照らしているのかは分からなかった。

天井は暗闇に包まれていて、壁には窓がなかった。

赤い光が空気の上を漂っているように流れていた。

まるで心臓の中を歩いているような気分だった。


内部は体育館のように広々としていた。

天井は高く、壁は打ちっぱなしのコンクリートだった。

換気も、装飾も、時間の痕跡すらなかった。

ただ、機能だけが取り残された空間。

その中心に、

ひときわ大きなリングがあった。

四方を鉄柵で囲まれた、古びたリング。

マットには、濃い血の跡が広がっていた。

乾ききった茶褐色と、まだ滲む鮮紅色が入り混じっていた。

まるで誰かの心臓を、マットの下に押し潰したかのように。

そして、そのリングを囲むように、

人々が立っていた。

皆、黒い制服を身にまとっていた。

肩にロゴもなく、階級章もなかった。

それぞれ異なる体格、異なる佇まい、異なる表情。

だが、ひとつだけ共通していた。

彼らは、すべて――不具だった。


肋骨の一部がまるごと失われた者。

首が完全にねじ曲がった者。

顔の半分が溶け落ちた者。

耳が付いていない者。


その崩れを抱えたまま、彼らはそこに立っていた。

誰一人、笑わなかった。

言葉もなかった。

ただ、俺を見つめていた。

その瞳には、感情がなかった。

好奇心も、警戒も、敵意すらも感じられなかった。

無表情のままの視線が、じわじわと俺を締めつけてきた。


中央には、一人の男が立っていた。

隊長。

誰も口にはしなかったが、誰もがそれを知っていた。

彼は、誰よりも真っ直ぐで、

誰よりも静かだった。

背筋を伸ばし、

彼は灰色の制服を纏っていた。

階級章も、装飾もなかった。

ただ、単色。

光を弾かない灰色の布が、

まるで肌に吸いつくように、身体に張り付いていた。

言葉も、動きもなかったが、

空間は、彼を中心に静まり返った。

赤い照明すらも、

彼を照らす瞬間だけは、ひととき動きを止めたかのようだった。


彼の背後、

灰色の壁には、無数の武器が並んでいた。

銃も、刀も、斧もあった。

刃物は錆びつき、

鈍器は汚れにまみれて黒ずんでいた。

誰かが手入れをした形跡も、整頓した気配もなかった。

ただ、使われ、

また元の場所に突き刺されたものたち。

隊長は一歩、後ろに下がった。

そして、

武器の間に手を伸ばした。

迷いはなかった。

軽やかに、馴染んだ物を選び取るように、ひとつを掴んだ。

長く、重みのある剣。

彼はそれを引き抜き、

そのまま、ホールの中央の床に突き立てた。


「「結城 蓮。」

低く、鳴り響く声。

空間そのものが震えた。

天井が揺れたわけでもないのに、

声は壁を這い、床を貫き、

足元まで叩きつけられた。


俺は一歩、踏み出した。

金属音が地面を引っかいた。

空気が、軽くなった。

皆が、俺に向かって顔を上げた。

隊長が口を開いた。

「お前は、何のために戦う。」

低い声だった。

短い問いだった。

だが、その短い言葉が、心臓を抉った。

俺は答えなかった。

呼吸が乱れた。

何かが込み上げかけたが、それを必死に押し込んだ。

隊長は、首をわずかに傾けた。

「復讐か。」

その一言に、身体が硬直した。

俺は唇を噛みしめた。

今にも破れそうなほど、血がにじんだ。

「正義か。」

俺は首を振った。

はっきりと。それだけは違った。

彼はしばらく俺を見つめ、

そして、かすかに笑った。

「いいだろう。」

その笑みに、同情も、慰めもなかった。

ただ、獣を見抜いた者だけが持つ、認識だった。


そして、隊長が手を打った。


チャキン──


一度だけ、乾いた音が響いた。

すると、どこかで金属の擦れる音が鳴り始めた。

ギイイ──

ホールの一角、壁の一部が開き、鉄格子が現れた。

錆びついた格子扉が、ぎこちなく横に滑った。

その中から、人間が一人、引きずり出された。


半ば溶け落ちた肉体。

熱い液体で焼かれたかのように、

皮膚はじっとりと垂れ下がり、

あちこちで筋肉と腱が露出していた。

口は開いていたが、声はなかった。

その奥では、膨れ上がった舌がぬるりとうごめいていた。

指は、千切れていた。

いくつかは完全に失われ、

残った節も、血に潰され、ぶらぶらと揺れていた。

眼球は完全に裏返り、白く光っていた。

光を見るのではなく、

空気を嗅ぎ取る獣のように、ぎろりと動いた。


それは、二本の足で立った。

ふらつきながら。

ぎこちなく、前へとにじり出た。

リングの上へ、

崩れ落ちた人間が、よろよろと歩み出た。



隊長が口を開いた。

「お前の入団試験の相手だ。」

低い声だった。

それ以上の言葉はなかった。

俺は唾を飲み込んだ。

喉が乾き、胸が締めつけられた。

あれは──何だ?

確かに、それは人間だった。

ふらつきながらリングの中を彷徨うそれは、

少なくとも、かつては人間だったはずだ。


一歩、また一歩。

均衡もなく、方向もなく。

それを見つめる俺の目の前で、

隊長が無造作に言葉を継いだ。

「元・赤者だ。」

その瞬間、脳内で何かが引き裂かれる音がした。

「試験に失敗し、獣になり果てた者。」

その言葉は、説明ではなかった。

警告だった。

予告だった。

そして、俺自身が辿るかもしれない影でもあった。


俺は信じられなかった。

本当に──あれも、かつては人間だったというのか?

皮膚は溶け、

指は千切れ、

目は裏返り、白く光っていた。

それでも、心臓は脈打っていた。

肺は、動いていた。

あんなものが、かつて俺と同じく入団を目指していた者だなんて──。

戸惑う俺の前で、隊長は手を上げた。

そして、地面に突き刺さっていた剣を指し示した。


びっしりと突き刺さっていた武器の中で、たった一つ。

隊長は言った。

「お前に与えられる武器は、一つだけだ。」

それは選択ではなかった。

それは、条件だった。


私は慎重に近づいた。

手を伸ばした。

冷たかった。

鉄の刃が、指の間にしみ込んできた。

そして、私は刀を抜いた。

カチリ—

金属が抜ける音が、体の中で響いた。


手に握った瞬間、柄はねばついていた。

血だった。

汗だった。

そして、乾ききった時間そのものだった。

刃は古びており、

柄は、誰かの手によってあまりにも長く握られ、

形さえ擦り減っていた。

それは、ただの武器ではなかった。

生き延びるために握りしめたもの。

死ぬ前に、絶対に手放すまいとしたものだった。


警告もなかった。

音もなかった。

歪んだ肉体が、

悲鳴を上げることもなく、

フッ──

空気を裂きながら、一直線に襲いかかってきた。

俺は考えなかった。

本能だった。

左手が動いた。

剣を握った手は、背後に回ることもなく、

正面に向かって振り抜かれた。

金属が風を切り、最短の弧を描いた。

初めての一太刀。

それは意志ではなく、生存の反射だった。



スッ──


剣は空を裂いた。

刃が通り過ぎた跡には、

血も、悲鳴も、手応えもなかった。

それは、獣のように腰を折り曲げながら、

俺の目の前に食い込んできた。

関節が外れたかのように、

奇妙な角度で上半身を屈め、

脚は床を裂くようにすり寄り、

腕はだらりと垂れたまま引きずられていた。

そして、腐りきった歯が覗いた。

顎は異様に開き、

その隙間から、黒く爛れた歯並びがむき出しになった。


俺は後退った。

剣は握っていたが、

身体はついてこなかった。

だが、床は滑りやすかった。

血だった。

汗だった。

乾ききった液体が、薄く広がっていた。

足が滑り、バランスが崩れた。


ドン──


身体が床に叩きつけられた。

冷たかった。

硬く、濡れていた。

血の匂いが鼻を突いた。

息が止まった。

その瞬間──何かが、俺の上に──。



ゴッ──

それが覆いかぶさってきた。

鉄のように重い身体。

腐った肉と熱い息が、

顔のすぐそばで震えていた。

口が開かれた。

顎ががたついた。

今──ここで、喰われる。


俺は、左腕──

金属の義手を、そのまま叩きつけた。


ドン──


重く、鈍い衝撃音。

骨が折れる音ではなかった。

鉄と肉が弾け飛ぶ、本物の破裂音だった。

それは吹き飛んだ。

短い呻き声すらあげず、

一回転して、床に叩きつけられた。

俺は荒く息を吐いた。

肺が縮んだようだった。

呼吸は喉を掻きむしり、

心臓は胸から飛び出しそうに暴れた。

天井が揺れた。

赤い照明が、血のように降り注いだ。

俺は身体を起こした。

手に力を込めた。

重さを感じた。

──この腕は、俺のものだ。

だが、思ったよりも鈍かった。

意識が追いつかず、視界が歪んだ。

それでも、あの獣は──

まだ、這い上がってきた。

このままでは、殺される。


俺は剣を握り直した。

右手だった。

折れた腕だった。

骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げた。

身体は歪んでいた。

呼吸は乱れ、視界はぼやけて揺れた。

それでも、俺は──再び飛びかかった。

誰に命じられたわけでもない。

ただ、生き延びるために。

震える手先で、剣先が閃いた。

俺は、そのまま身体ごと叩きつけた。



グサリ──


剣が胸を貫いた。

何かが内側で裂けた。

血飛沫が上がり、身体が動きを止めた。

だが、それは倒れなかった。

ゆっくりと、頭を垂れた。

胸に突き刺さった剣を、じっと見下ろした。

瞳は依然として白く、

口が、ゆっくりと開かれた。


それどころか──それは剣の柄を掴んだ。

機械でも、人間でもない指先が、

柄を震わせながら握った。

奪おうとするわけでもなかった。

引き抜こうとするわけでもなかった。

ただ──反射のように。

動き続ける感覚に従う、死にきれない本能のように。

俺は、息が止まるのを感じた。

冷や汗が背中を這い落ちた。

目をきつく閉じた。

そして、左腕──

金属の義手に、

全ての力を、全ての怒りを、全ての生存を叩き込んだ。

俺は、それの首を掴み締めた。

骨の感触があった。

滑る肉があった。

それでも、俺は離さなかった。

ギリ──ッ。

義手が震えた。

圧力が、一点に集中した。


ゴキ──ッ。


腱が千切れた。

骨が砕けた。

俺は獣のように咆哮した。

「死ねぇぇッ、このクソ野郎ォォ!!」



「グルルル.....」

それは呻きながら、もがいた。

肺のどこかで沸き立つような音。

もはや言葉でも、泣き声でもない。

ただ、痛みによる本能的な反射だった。

俺は目を開いた。

そして、首を捻った。

金属の指に、力を込めた。

骨が滑り、肉が裂け、神経が断たれた。

乾いた、小さな音がひとつ。

それは、ゆっくりと眼球を転がし、

そして、力なく崩れ落ちた。

その瞬間──すべての音が、消えた。


静寂─


聞こえるのは、呼吸音だけだった。

それが自分のものか、

死んだそれの残滓なのか、

判別できなかった。

隊長が小さく頷いた。

「合格だ。」

その一言。

それだけで、すべてが終わった。

周囲に座っていた黒い制服の者たちが立ち上がった。

拍手はなかった。

歓声も、賛辞もなかった。

彼らはまるで、処刑を終えた執行人のように、

無表情で俺を見つめた。

俺は、血に塗れたまま、

その視線を正面から受け止めた。

手に握った剣が重かった。

指先から力が抜けた。



カシャン──

剣が床に落ちた。

血飛沫が跳ねた。

俺は荒く息を吐いた。

乾ききった唇。

震える腕。

それでも、俺はまっすぐに立っていた。


隊長が近づいてきた。

血の匂いを裂くように、

無表情のまま俺の前に立った。

彼は無言で、俺の右手を取った。

そして、床に落ちていた剣の柄を、

再び握らせた。

掌が熱かった。

それが血のせいなのか、

生きている実感なのか、

俺にはわからなかった。


「これで、お前は赤者だ。」

彼の声は低く、静かだった。

誰かに聞かせるための言葉ではなかった。

彼は、そっと囁いた。

「死ぬまで──戦い続けろ。」


俺は、微笑んだ。

裂けた口元。

破れた皮膚。

乾いた血の上に、

歪んだ表情が乗った。

腐りかけた笑みだった。

そして、ゆっくりと頷いた。

──死ぬまで、戦う。

死ぬまで。

『赤者』とは、選び取ったものではなく、

ただ、生き残った者に与えられる"結果"です。


死を越え、なお残った者に与えられる、たった一つの名。


第3話では、その名を得るために払う

最初の代償を描いています。


残酷だと感じるかもしれません。

ですが──赤者たちの世界では、

これこそが「歓迎の儀式」なのです。


読んでくださり、ありがとうございます。

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