赤者の門
雨は止んだ。
それでも、俺の頭の中は、まだ雨音に支配されていた。
空っぽの肩。
失われた均衡。
掴むものも、支えるものもない手。
俺は病院のベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見上げていた。
冷たく乾いた空気が肺を擦り抜ける。
かすかに瞬く蛍光灯が、視界の端を刺した。
まるで、この場所に俺ひとりだけが取り残されたかのように。
耳を押し潰すような静寂。
呼吸音すら贅沢に感じる沈黙。
時間は死んでいた。
そして俺も、その中で静かに壊れていった。
**
医者は目を伏せ、短く首を振った。
「腕は、もう戻りません。」
慎重な口調だったが、結論は冷たかった。
すべての可能性を閉ざす、その一言が空中に漂った。
──取り返しは、つかない。
**
警察署長は無表情のまま書類を整理していた。
机越しに差し出された一枚の紙。
そこには、ただ一行だけが記されていた。
『身体欠損による職位解除』。
彼は俺を見なかった。
もはや興味などないと言わんばかりに、
すでに処理済みの案件として片付けた。
**
病室の外、壁に掛けられたテレビからニュースキャスターの声が流れていた。
「今後のリハビリ次第では、日常生活も可能に──」
言葉は次第にぼやけ、声は耳鳴りのように響いた。
世界は静かに、俺を消し去ろうとしていた。
誰も俺に怒りを向けなかったが、
誰も俺を守りもしなかった。
静かに押し出し、静かに扉を閉じた。
俺は何も言わなかった。
舌が喉の奥に巻き込まれたようで、
何を言えばいいのかもわからず、
言葉にする意味すら残っていなかった。
説明は終わった。
選択も終わった。
──生き延びた罪。
それだけが、俺に残された。
世界は語った。いや、態度で示してきた。
「お前は、もう終わりだ」と。
そして俺は悟った。
本当に──
すべてが終わっていたのだと。
**
叔父の葬式は非公式だった。
葬式と呼ぶのも憚られるほどの、小さな規模。
棺一つ。
遺影一つ。
そして弔問客は、俺ひとりだけ。
花もなければ、弔辞もなかった。
泣く声も、慰めの言葉も──
何ひとつ許されなかった。
あの日、遠巻きに立っていた黒いスーツの男たちが
俺を監視していた。
無表情な顔。
携帯も持たず、
口元すらほとんど動かさない人間たち。
弔問ではなかった。
ただの監視だった。
俺は視線を向けなかった。
振り返りもしなかった。
罵りも、しなかった。
──彼らが奪うものは、すでにすべて奪われた後だった。
俺の腕。
叔父の命。
そして、この世界で生きる最後の理由までも。
**
そうして数日が過ぎ、俺は退院した。
──退院、という言葉が、滑稽に思えた。
治療は終わったが、何ひとつ良くなっていなかった。
行くあてもなかった。
ポケットには千円札一枚すらなく、
身体は半分になり、
人生はすでに崩れ去っていた。
結局、足は本能のまま、
馴染みのある場所へと向かっていた。
**
叔父と暮らしていた半地下の部屋。
古びたドアロックの暗証番号を押し、
きしむ鉄の扉を開けた。
湿った空気。
ぼろぼろのカーテンの隙間から差し込む光。
──すべて、あの日のままだった。
床には、まだ黒く固まった血痕が残っていた。
雑巾で擦っても消えそうになかった。
その隣には、こぼれたカップラーメンのスープが乾ききった跡。
テーブルの端には、斧で打ち込まれた痕がそのまま残っていた。
壁の一角には、叔父の警察制服が掛かっていた。
まるで何事もなかったかのように、きちんとアイロンがかけられたまま。
俺はその前に座り込んだ。
背もたれもない床に、ぐったりと体を預け、
ただ、ぼんやりと時間を殺した。
何をすればいいのかもわからず、
何をしたいのかもなかった。
──いつ死ぬのか。
──どう死ぬのか。
そんなことばかりが、習慣のように頭を巡った。
呼吸をしているから、生きてはいるのだろう。
──それだけだった。
その時だった。
古びたインターホンが鳴った。
チン──ドン。
俺は立ち上がらなかった。無視した。
再び鳴った。
チン──ドン。チン──ドン。チン──ドン。
今度は執拗だった。
諦めることなく、しつこく何度も押され続けた。
堪えきれず、俺は体を引きずるようにして起き上がった。
床の端に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
肩から重みが消えたせいで、
体のバランスを崩し、
半ば潰れたような姿勢で玄関へ向かった。
だが、ドアは開けなかった。
開ける気も、理由もなかった。
俺は静かに、猫用の小窓を開いた。
カチャリ──
外が見えた。
革靴。
黒いスーツのズボン。
そして、足元だけが見える誰か。
その人物は、何も言わなかった。
動きもしなかった。
インターホンの音も止まった。
静寂が広がる。
──だが、確かに感じた。
あいつは、この中に俺がいることを知っていた。
そして、待っていた。
立っていたのは、黒いスーツを着た男だった。
顔は──普通だった。
いや、あまりにも普通すぎて、不気味なほどだった。
目立たない顔。
記憶にすら残らない表情。
叔父を殺した男ではなかった。
だが、ぞっとする何かがあった。
彼はドアの隙間から俺の視線を感じ取ったのか、
わずかに首を傾げ、
異様なほど柔らかな笑みを浮かべた。
「結城 蓮さん。」
口の動きだけで、はっきりと聞き取れるほどだった。
「招待状を届けに参りました。」
「──招待状?」
俺は反射的にドアの鍵をかけた。
すると、男がドアをノックし始めた。
一定の間隔。
規則的な音。
コン、コン、コン、コン──。
まるで何かの合図のようだった。
不快な感覚が背筋を這い上がる。
次の瞬間、ドアの隙間から、折りたたまれた何かが滑り込んできた。
俺は後ずさった。
白い紙が、床に──ストン、と落ちた。
静寂の中、一枚の紙が、
信じられないほど重たく着地した。
『赤者』。
──二文字。
その下には、簡単な一文が記されていた。
「お前はまだ、終わっていない。」
**
その夜。
俺は夢を見た。
斧が俺の腕を叩き落とし──
叔父が浴槽の中へ、静かに沈んでいく。
血が、俺の体から噴水のように噴き上がった。
現実よりも鮮明で、熱く、そして粘つく悪夢だった。
息が詰まった。
それでも、目を覚ますことはできなかった。
「はぁ、はぁぁっ──!」
俺は叫びながら目を覚ました。
胸が大きく波打ち、荒い息が漏れた。
部屋は暗かった。
湿っぽく、冷たかった。
悪夢は終わったはずなのに、
現実は何ひとつ良くなっていなかった。
──だが。
何かがおかしかった。
暗闇の中に、誰かがいた。
部屋の真ん中に。
昼間、家の前に立っていた、あの黒いスーツの男。
背筋を伸ばし、まっすぐに立っていた。
言葉もなく、動きもなかった。
息遣いすら感じさせず、ただ、そこにいた。
俺は反射的に後退った。
背中が壁に触れるまで、静かに。
それでも、男は一歩たりとも動かなかった。
まるで──さっきとは別人のように。
「──選べ。」
男が口を開いた。
「死ぬか。それとも──戦うか。」
俺は息を呑んだ。
声は出なかった。
彼の声は重くもなく、軽くもなかった。
まるで、すでに定められた運命を
ただ読み上げるかのような口調だった。
「お前は腕を失った。」
「家族も失った。」
「人生も、名前も──今や、何もかも失った。」
男はわずかに首を傾げた。
その瞳は、微塵の揺れもなく俺を射抜いていた。
「──それで、お前は今、何をする?」
彼は俺の目の前に、小さな箱を置いた。
赤い箱。
──正確には、血に濡れたように染まった色だった。
俺は思わず身を引いた。
指先が震えた。
それでも結局、俺は蓋を開けた。
中にあったのは──腕だった。
いや、腕のような"何か"だった。
鉄と肉が入り混じった奇怪な形状。
人工筋肉が有機物のように伸び、
ポリマー組織と金属神経線が生きた神経のように絡みついていた。
見た目は確かに「腕」だった。
だが、それは──
生きていた。
ビクリ──
微かに、極めて微かに。
内部で何かが、まるで自らを調整するかのように動いていた。
俺は息を呑んだ。
これは、ただの義手ではない。
──俺が再び生きるための、唯一の手段だった。
男は箱の脇に膝をついて座った。
赤く脈打つ人工の腕は、いまだ微かに蠢いていた。
まるで、金属そのものが生きていて、
俺の脈動に応えるかのように。
「これが──お前の新しい腕だ。」
男は言った。
「──だが、代償は安くない。」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
目の前にあるのは、ただの義手ではなかった。
──俺の人生そのものを根こそぎ変えてしまう、"何か"だった。
男は首をわずかに傾けた。
まるで俺の内側を覗き込むかのように、静かに、ゆっくりと言った。
「──お前はもう、警察官じゃない。」
「法も、正義も、神さえも……今や、何の役にも立たない。」
「残るのは、ただ一つ。"任務"だ。」
俺は乾いた唇を舐め、かろうじて声を絞り出した。
「……任務?」
俺がそう絞り出すと、
男は口元をわずかに吊り上げた。
笑っているように見えたが──目は、笑っていなかった。
「汚れたものを──消すことだ。」
その言葉には、妙な匂いが混じっていた。
血と煙、そして腐った真実の匂い。
俺は本能的に身をすくめた。
男は一歩、俺に近づいた。
「──俺たちは、お前に腕を与える。」
声はますます低くなっていく。
「その代わりに──お前は、心臓を差し出せ。」
──心臓。
その言葉が、胸に突き刺さった。
痛みと共に、引き裂かれるように。
生きる意味も、希望も、人間らしさも──
すべて、その一語の中に詰まっていた。
男が言っていたのは、
単なる臓器のことではなかった。
それは、俺が人間であり続けるための、最後の誇りだった。
俺は、何も言わなかった。
だが、男はすでに知っていた。
──俺が、答えを出したことを。
俺は──腕を得た。
そして、心臓を差し出した。
***
朝。
俺は赤い箱を抱えて、病院へ向かった。
──『赤者』指定病院。
看板もなければ、窓もなかった。
光すら届かない灰色の外壁。
死んだような気配だけが滲み出ている建物だった。
誰かに説明されるまでもない。
ここは──二度と戻れない場所だ。
ドアを開けて中に入ると、
純白の手術着を着た人間たちが並んでいた。
表情もなければ、挨拶もなかった。
彼らは何も尋ねず、俺を寝かせた。
毛布も、麻酔も──なかった。
痛みは、嘘のように鮮明だった。
メスが肉を裂き、神経を縫い合わせる。
骨を切断し、その隙間に金属が埋め込まれた。
俺の肉は悲鳴を上げ、
神経は焼け焦げるように軋んだ。
手術室の中に、俺の悲鳴が響き渡った。
俺は叫び声を飲み込み、目を見開いた。
気絶するものか、意識を手放すものかと、必死に耐えた。
死ぬほど痛かった。
──本当に。
だが、死ななかった。
むしろ──俺は、生きていた。
──初めて。
**
手術は終わった。
俺は、赤い人工の腕を手に入れた。
だが、それは決して"完成"されたものではなかった。
機械は、無言で蠢いていた。
金属と肉が入り交じったその腕は、
獣のように、俺の体の中で何かを蠢かせながら成長していった。
肉を裂き、神経に食い込み、
生きているかのように、自らを作り上げていった。
それは腕ではなかった。
──欲望だった。
破壊でも、憎悪でも、目的でも。
それは絶え間なく、俺の内側を叩き続けていた。
俺は、そのとき悟った。
──左腕は、もう戻ってこないのだと。
俺は『赤者』になってしまったのだ。
**
その夜。
俺は『赤者』部隊の拠点へ向かった。
街の外れ──地図にも載っていない区域。
錆びついた鉄の門、三重のセキュリティ、
そして地下深くに隠されたバンカー。
扉が開いた瞬間、臭いが押し寄せた。
火薬の匂い、血の匂い、油の匂い。
長い年月、戦争の匂いが染みついた空気。
どこかで銃声が響いていた。
──地下とは思えないほど、
壁を伝って振動が伝わってきた。
そしてその中で、
俺は──俺と同じような連中を見た。
義足をつけた男。
動きは鋭く、義足は軽量型の戦闘用に見えた。
彼は片手でサブマシンガンを整備しながら、ちらりと俺を見た。
目の見えない女。
黒い包帯で目元を覆っていた。
目は隠れていたが、そこに迷いはなかった。
彼女は、弾丸に付着した血痕を検査していた。
そして──隅に静かに座っている一人の少年。
普通の装備よりも小さく見えるほど、痩せ細った体格。
それでも、彼の手は片時も止まることなく動き続けていた。
各種ケーブルやモニター、
チップセットやインターフェース機器が彼の前に広がっていた。
少年は、それら複雑な機材を、まるで呼吸するかのように手際よく操っていた
最後に──心臓を持たない隊長。
胸元は人工プレートで覆われていた。
彼の声は、響きのない金属のように乾いていた。
「──新入りが一人、入る。」
その一言で、戦場は静まり返った。
ここにいる全員が──
一度は死に、
そして再び生まれ落ちた者たちだった。
腕を失い、
心も失いました。
それでも、生きろと言うのです。
この世界は、
優しい人間を二度殺します。
だからせめて一度だけ──
怪物になって、生きてみようと思います。
今日も来てくださって、本当にありがとうございます。
『赤者』の門は、今、ようやく開かれました。