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腕を斬られた夜、俺は獣になった

こんにちは、青いホウセンカです。


『赤者』は、私が初めて世に出す物語です。


書きながら、何度も迷い、

何度も消しては、書き直しました。


物語の主人公のように、

私も、何度も壊れて、

それでもまた立ち上がる時間を過ごしました。


だから、この第一話は、

私にとって小さな「生存の証」のように感じています。


残酷で暗い物語ですが、

その中で──もしかしたら、

一番人間らしい感情や問いに、

出会っていただけるかもしれません。


初めての挑戦で、至らない点も多いと思いますが、

読んでいただけたら、

もっと良い物語で応えたいと思っています。


ありがとうございます。


青いホウセンカ

雨が降っていた。

退勤を目前にしながらも、俺は傘も差さず、ぼんやりと窓の外を見つめていた。

水を含んだ空は、容易に晴れる気配を見せない。

まるで──誰かが長い間堪えてきた涙を、

今になって溢れさせたかのように。

雨は静かに、しかし恐ろしいほど深い感情を宿して、

しとしとと降り続いていた。


「お疲れさまでした。先に失礼します。」


帰り道、狭く湿った路地裏の地面には、まるで時間が止まったかのように水たまりが広がっていた。

水を吸って破れたチラシが泥のように散らばり、

その上には、濡れたタバコの吸い殻がいくつか、息絶えたようにへばりついていた。

隅──闇が最も深く染み込んだ隙間には、

雨水に半ば沈んだネズミの死骸が、寂しげに横たわっていた。


**


今日も交差点の真ん中で、時間を潰していただけだった。

名札には警察官としての名前と職位が記されているが、

人々は俺をただの標識のように扱った。

過酷でもなければ、危険でもなかった。

ただ、あまりにも「何でもない」ことが、

かえって俺を疲れさせた。


だからだろうか。

仕事が終わったというのに、足取りは重く、自然と頭が垂れていた。

俺はいつものようにコンビニに立ち寄り、

うつむいたまま家路についた。

手にはコンビニの袋がぶら下がっていた。

まるで、濡れた犬のリードのように。

中には、120円のカップラーメンが二つ。

一つは俺の分、もう一つは叔父の分。

別々に食べる力も、もっと良いものを選ぶ余裕もない。

だから、ただそれだけ──安く、習慣のように買って帰る。

まるで、俺たち二人とも「これで十分だ」と言い聞かせるかのように。


叔父は、最近ろくに食事をとらなくなっていた。

夜になると酒をあおり、

何の前触れもなく俺の顔を見て泣き出した。

それが──本当に、しんどかった。

俺のために泣いているのか、

それとも、自分の人生が哀れで泣いているのか。

もう、問いかける気力すら尽きていた。

だから俺は、帰り道に無駄に時間を潰し、

家に帰るのを嫌がって、

路地裏で長い時間をやり過ごしていた。



いつものように、無言でカップラーメンを机の上に置く。

叔父はきっと眠っているだろうし、

俺もわざわざ声をかける理由なんてなかった。

そうやって静かにドアを閉め、自分の部屋へ戻る──

それが、この家で固まった「動線」だった。

今日も、その日常をなぞるつもりだった。

──そう、思っていた。

だが。

玄関のドアは、開け放たれていた。

隙間から吹き込む風雨。

古びた蝶番が、濡れた体で軋むように呻いていた。



ギィ──

短く、聞き慣れない音に、俺の足が止まった。

俺は凍りついたまま、玄関の前に立ち尽くしていた。

ドアの外には、何も見えなかった。

それが──かえって不気味だった。

雨に濡れた靴を脱ぎ、そっと玄関に足を踏み入れた。

誰もいないはずの家の中。

なのに、どこか空気の中に"人の匂い"が漂っていた。

湿っぽく、ねっとりとした、古びた肉体の匂い。

そして──

その奥底で、何かが煮え立つような臭いが、微かに混じっていた。


食べ物の匂いではなかった。

血の臭いでも、汗の臭いでもない──

だが、どこか異様に動物的だった。

湿っぽく、汚らしく、

どこかで、何かが死にかけているかのような──

そんな獣の臭いだった。


「……叔父さん?」

俺は無意識のうちに名前を呼んでいた。

唇が自然に固まり、声は地を這うように低くなった。

返事はなかった。

代わりに──ゆっくりと。

とても、とてもゆっくりと。

台所の暗闇から、何かが這い出してきた。

それが腕なのか、脚なのかも分からない、湿ったシルエット。

そして、床を引きずるような音。

まるで、わざと俺に向かって這い寄ってくるかのような音だった。

呼吸することも、目を閉じることすらも、その音に飲み込まれた。

廊下の奥に──奴らが立っていた。

黒いスーツ。

雨に濡れたように、肩はぐったりと垂れ下がり、

襟元には泥のような汚れがこびりついていた。

初めからそう仕立てられたかのように、

整然とした服装は、しかし血に染まっていた。

血痕は広く、深かった。

──人間の血だった。

きちんとした装いとは到底釣り合わない、

残酷で、静かな血の跡。

靴は何も語らなかった。

だが、その表面には、言葉以上のものが宿っていた。

甲を伝って乾いた血の跡は、

雨に濡れて再び滲み出し、

床にじわじわと粘つく痕を広げていた。

三人いた。

言葉もなく、動きもなく──

生きているのか、死んでいるのかすら分からないほど、静かに。


俺は息を吸い込んだ。

静かに、できる限り静かに。

だが、胸が激しく脈打つ音は、かえってその静寂の中で大きく響いた。

手首にぶら下がったコンビニのビニール袋が、

急に異様なものに感じられた。

濡れた袋の取っ手を──

本能的に、ぎゅっと握りしめた。



カサリ──


小さな音だった。

本当に、かすかな摩擦音にすぎなかった。

だが、その瞬間。

奴らのうちの一人が、こちらを向いた。

ゆっくりでもなければ、速すぎるわけでもない。

むしろ──骨が折れる音のように、

不自然なまでに正確に。

体は動かなかった。

肩も、背骨も、脚も、

すべてその場に固定されたまま。

ただ──首だけが、コクリと折れるように、こちらを向いた。

そして──目が合った。


空気すら凍りつきそうな静寂の中で──

交わった視線は、生きた人間のものではなかった。

確かにこちらを向いてはいた。

だが、それは「見る」という行為ではなかった。

仮に見ていたとしても、理解などしていない──そんな目だった。

空っぽだった。

奥には、人間など存在していなかった。

瞳という窓を満たした虚無が、

生きた存在にあるべき温もりを、すべて奪い去っていた。

それは人間の顔をしていたが──人間ではなかった。

まるで、人の顔の皮をかぶり、

その中に潜む獣が、ただ眼球だけを転がしているかのようだった。

「結城誠は──どこだ。」

その中の一人が、叔父の名前を呼んだ。

唇はほとんど動かず、

声はまるで深い水底から響いてくるかのようだった。

言葉の意味よりも、

その声に滲んだ感情のほうが、ねっとりと重たかった。

──獣が、獲物を呼ぶ時のように。

俺は答えることができなかった。

口も、喉も、心臓も、まるで塞がれたように。

その場に打ち付けられた人形のように、ただ硬直していた。


ドン──


心臓が鳴った。

何かが内側から激しく叩いているようだった。


ドン──ドン──ドン──


息が喉に引っかかった。

吸い込んだわけでもないのに、

何かが、体の奥底で煮えたぎる感覚があった。

その時だった。

音は短かった。

だが、その一瞬の音が──

俺の視界を左側ごと吹き飛ばした。

耳が鳴り、顎のあたりで何かが砕ける感覚が走った。

鼓膜の向こうで、骨が「パキッ」と割れる音が響いた。

息を吸おうとしたが、先に口の中いっぱいに血が広がった。

鉄の匂いが喉を逆流するように押し寄せた。

意識を保つ暇もなく、

体は床に叩きつけられた。

膝が折れ、肩が打ちつけられ、

そのすぐ後を頭が追いかけた。


バンッ──


ビニール袋が破れた。

床に落ちたカップラーメンの容器が二つ、跳ね飛んだ。

一つは破れ、

赤いソースと乾きかけた麺が、泥まみれの床に散らばった。

手首にはまだ、ビニールの取っ手が引っかかったままだった。

それすらも、手放すのが遅すぎた。

「口を閉じていろ。」

そいつは俺の頭を踏みつけながら言った。

単なる暴力ではなかった。

肉を押し潰す悪意が、

靴底を通して額に、正確に、沈み込んだ。


ゴンッ──


額の骨が押し込まれる感覚とともに、視界が閃いた。

血なのか汗なのか分からない液体が、目尻を伝って流れた。

世界が片側に傾き、

その隙間を縫うように、俺はずるずると引きずられていった。

手は使えず、足は勝手に縮こまった。



リビングにある、カビ臭さの染みついた古いソファ。

子供の頃から叔父が座っていたあの場所。

今では、すえたタバコの匂いと、腐った埃がこびりついていた。

その前に、俺は叩きつけるように放り出された。

床は湿っていて、俺の体はすでにボロボロだった。

「誠はどこにいるんだッ!!」

同じ質問だった。

だが今回は、さらに深く、低く。

まるで、次に間違った答えをすれば──

今度こそ息の根を止める、そう告げる声だった。

俺は歯を食いしばった。

血が歯の隙間から滲み出し、

砕けた顎はじんじんと痺れながら震えていた。


叔父も、俺と同じ警察官だった。

誰かに誇らしげに語ったことは、一度もなかった。

彼が法を破らなかったわけではない。

むしろ、時には誰よりも先に法を無視することさえあった。

だが──人を傷つけることだけは、しなかった。

誰かの血を楽しむような人間ではなかった。

誰かを売り渡すような人間でもなかった。


俺は、それを知っていた。

だから、口を閉ざした。

たとえ拳が飛んできても──

たとえ足先が再び俺の顎を蹴り上げても──

俺は口を割らないと決めていた。

叔父は獣なんかじゃなかった。

そして──その信念は、今この痛みよりもずっと大切だった。


そして──その時、

鉄の斧が取り出された。

スーツ姿の男が、黒いバッグを床に置いた。

ジッパーがゆっくりと開かれる。

妙に静かなその音さえ、

部屋の緊張を裂くほど鮮明に響いた。

男は布を一枚めくり、

その下に隠されていた何かを、慎重に取り出した。


鉄の斧。

摩耗した刃。

金属の地肌はほつれ、

血と錆が混じった跡が刃先にこびりついていた。

柄は長年使い込まれたように、

革の手触りが黒ずみ、汗に濡れて滑りやすくなっていた。

俺には理解できなかった。

なぜ?

なぜ、そんなものを取り出す?

何をしようとしている?

だが──

問いかけるという行為は、

まだ"余地"がある者だけに許されたものだった。

俺には、その余地すら与えられなかった。

左側から、誰かが俺の腕をつかんだ。

冷たく、硬い手。

人間の体温を持たない感触だった。

まるで、腐った機械部品に掴まれたかのような、異様な感覚。

その手は、俺の左腕を引き寄せ──

古びたテーブルの上に、ねじ伏せた。


バタン──


前腕がテーブルに叩きつけられた。

その瞬間、俺は本能的に体を捩った。

全身に力を込め、あらゆる方向に必死にもがいた。

──だが、指一本すら動かなかった。

まるで、体そのものに見捨てられたかのように、

力がどこにも湧いてこなかった。

「メッセージだ。」

男が言った。近い。あまりにも近い。

耳元をくすぐるような囁き声。

「誠に、残してやるんだ。」

そして──

斧が持ち上げられた。

ゆっくりと。

まるで、見せつけるために。

俺に、恐怖の極みを味わわせるために。


一撃目が振り下ろされた。


ゴンッ──


鉄の塊が骨を押し潰す音。

手首の骨が粉々に砕けた。

関節一つ一つが、断末魔の悲鳴をあげながら崩れていった。

神経が断ち切られる感覚。

脳と指先を繋いでいた細い糸が、プツリと音を立てて途切れた。

感覚はねっとりとした液体のように流れ落ち、

そこに残ったのは、無力感と──

気が狂いそうなほどの裂ける痛みだけだった。

叫ぼうとした。

だが、喉は凍りついたままだった。

──あまりに深い恐怖は、叫びすら奪う。

結局、口から飛び出したのは

唾と血だけだった。

涙と鼻水がぐちゃぐちゃに混ざり、

顔中に熱く湿ったものが広がった。


二撃目が振り下ろされた。


ゴンッ──


前腕の骨が折れた。

骨がねじれ、肉が裂けた。

ビリビリと広がる音。

肉が引き裂かれ、皮膚が裂け、

赤い血が噴水のように飛び散った。

俺は息すらできなかった。

空気さえも血の匂いに染まり、

心臓は肋骨を叩きつけながら、

狂った獣のように逃げ出そうと暴れた。


三撃目が振り下ろされた。


ゴンッ──


──決して忘れられない、

何かが完全に断ち切られる音。

前腕が、テーブルの上からぽとりと落ちた。

体全体が震えた。

噴き出した血が、

宙に赤い弧を描いた。

壁に──天井に──俺の服に──

血が雨のように降り注いだ。

俺は体を震わせた。

あまりに熱くて冷たく、あまりに痛くて感覚すら消えた。

「伝えろ。誠に。」

斧を持った男が言った。

そして、切断された俺の腕を、

まるで不要になった荷物のように、

足先で軽く蹴った。



血に濡れた斧は、

今にも再び使われるかのように、

ゆっくりと回転を止め──

コトリ、と床に落ちた。

鉄とコンクリートがぶつかる無機質な音に、

俺は息を吸い込んだ。

──いや、吸い込んだ"つもり"だった。

だが、それは呼吸ではなく、

喉に溜まった血をすすっただけだった。

そして、奴らは去った。

一片の痕跡も残さずに。

俺は血だまりの中に横たわっていた。

指が──なかった。

腕が──断たれていた。

肉体は床に、精神はどこか遠くへと砕け散っていた。

冷たいコンクリートの床。

髪を濡らす降りしきる雨。

ちらつきながら崩れ落ちる蛍光灯の光。

世界が、ゆっくりと溶けていく。

まるで現実そのものが、夢のように崩れようとする、その刹那──

まぶたが、鉛のように重かった。

意識は沈んだ。

床よりも深い闇へと。

俺は──あの日、死ぬべきだった。

もし、そうなっていれば。

この痛みも、すべて忘れられたかもしれない。

──そうなっていれば、きっともっと楽だっただろう。


**


10分後──

扉が開いた。

ギイィ──

雨に濡れた蝶番が、小さく悲鳴をあげる。

そして、誠が帰ってきた。

玄関に足を踏み入れた誠は、

何も言わず、長い間その場に立ち尽くした。

床一面に広がる血だまり。

冷えた血にまみれた俺の体。

折れたテーブルの脚。

壁に飛び散った血飛沫。

そして──俺。


息だけをかろうじて繋いだまま、

意識を失った俺の姿を見て──

誠は、ゆっくりとうなだれた。

一歩、また一歩。

膝をつき、

そっと俺を抱き上げた。

片腕だけがだらりと垂れ、

肌はびしょ濡れに濡れていた。

その時初めて──

誠は拳を握り締めた。

手の甲が小刻みに震えた。

奥歯が噛み合わさる音。

頬の筋肉がひきつり、

瞳が震えるように波打った。


何も──言葉にできなかった。

誰の名前も呼べなかった。

電話線は断たれ、携帯電話も床で粉々に砕けていた。

助けを求める相手も、逃げる場所もなかった。

誠は静かに俺を背負い上げた。

そして、走り出した。

土砂降りの雨の中──

誠は裸足だった。

アスファルトの地面は鋭く、

水たまりは骨まで冷たかった。

誠は、何も感じないまま走り続けた。

俺のために。

ただ、それだけを信じて。

──あの夜、

世界で一番速く走った罪人が、そこにいた。


**


「──ハッ!」


俺は夢を見ていた。

とても気味の悪い悪夢だった。

切断されたはずの腕が、まだそこにあるような──

偽りの感覚に囚われたまま、

再び斧が振り上げられる、その瞬間──



「アアアアアアアアッ!!」


俺は病院のベッドで悲鳴を上げながら飛び起きた。

体が跳ね上がり、

心臓は胸の中で狂ったように暴れた。

冷や汗が首筋を伝って流れ落ちた。

目の前はかすかに滲み、

肩から下には──感覚がなかった。

本能的に、腕を伸ばそうとした。


──だが、なかった。左腕が。


真っ白な包帯が肩まできつく巻かれ、

その下は、空洞だった。

裂け、断ち切られ、切り落とされた跡。

腕は──消えていた。

残ったのは、痛みと虚無だけだった。

全身が──壊れていた。

骨の一つ一つにひびが入ったかのように痛み、

動かせるのは、かろうじて目玉と唇、

そして──忘れたかった記憶だけだった。


窓の外では、まだ雨が降り続いていた。

窓ガラスを伝って流れる水滴が、まるで血のように見えた。

──目覚めた。

だが、そこにあったのは空っぽの体だけだった。

肉体だけが残り、

俺の中の何かは、あの夜に──死んだのだ。

誠は、死んだと警察の同僚から知らされた。

自殺だった──そう、告げられた。


「ハアアアアアアアッ!!」


声が枯れるまで、俺は叫び続けた。

ただ一人の人間が死んだわけじゃない。

俺の世界そのものが、崩れ落ちたのだ。

誠は──

どんなに疲れた日でも、家に明かりを灯してくれた人だった。

不器用で、バカみたいに生きていたけれど、

この汚れた世界の中で、

どうにかして俺を守ろうとした、そんな人だった。


そんな誠が──死んだ。

浴槽の中で。

血と水が混じり、黒ずんだ赤に染まりながら。

冷たくなった体で。

手首を切ったまま。

遺書には、何の言葉もなかった。

ただ、四文字だけ。

「ごめんな」


それすらも、紙の片隅に、

震える手で──ようやく残された跡だった。


俺は、それを見た瞬間、崩れ落ちた。

足がすくんだわけでも、心臓が壊れたわけでもない。

俺という存在そのものが、粉々に砕けたのだ。

誠は──諦めを知らない人間だった。

何度倒れても、歯を食いしばって立ち上がった人だった。

世界を呪いながらも、

最後まで背を向けることなく、生きた人だった。

そんな誠が、自ら死を選んだだと?

──信じられなかった。

──信じたくなかった。

あいつらは、なぜ誠を探していたのか。

なぜ誠が死ななければならなかったのか。

肩をすくめ、首を振りながら、

ただ、「どこだ」と繰り返すだけだった。


これは──誠が何かをやらかしたから死んだわけじゃない。

ただ、誰かが──誠を消すと決めた、それだけだ。

誠は、知ってはいけないことを知ったか、

守ってはいけないものを守ろうとしたか。

だから、静かに──跡形もなく消されたのだ。


俺は、冷たい椅子に座っていた。

机の上に置かれた紙コップが、風に揺れていた。

雨の音が、遠くから滲むように聞こえてくる。

俺の体も──心も──ゆっくりと、崩れ落ちていった。


信じていた世界は、

何の意味もなかった。

正義なんて、どこにもなかった。


俺は、幼い頃から信じていた。

世界は、ときに不公平でも、

最後には──報われるものだと。

法律は弱き者を守ってくれるものだと。

誠は、俺を裏切らないと。


でも──違った。

誠は死んだ。

誰も、その理由を教えてはくれなかった。


俺だけが、残された。

呼吸することさえ、目を開けることさえ──痛みだった。

消えた腕が、鈍く疼き、

冷えゆく心臓が、体のどこかで静かに泣いていた。


俺は、あの日、悟った。

この世界では──

生き残ることも、生きていることも、罪なのだと。

家族も、名誉も、生きる理由さえも、

すべてが──罪だったのだと。

白い患者服が、じわじわと濡れていく。

指先まで、心臓まで、

静かに、ゆっくりと──染み込んでいった。


俺は、ゆっくりと崩れていった。

壊れた世界の中心で。

誰にも知られない──闇の中で。


誰一人、俺の名を呼んでくれない。

完璧な──孤独だった。

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