log 9. イブに誘われて
アダムさんとの診察は、毎週水曜日の朝、魔王城で行うことで決定した。
ちょうど水曜日は休診日だったし、診察が朝にあれば、嫌でも早起きしなければならない。私にとっては都合がいい。
「ここにいると、本当に引きこもりになっちゃうから……。」
森の奥にひっそりと構えた診療所には、異世界の研究所から取り寄せた専門書や、王立図書館から借りた異世界転移者たちの手記が揃っている。加えて、薬草の研究にも没頭してしまうため、気がつけば2週間も外に出ていなかったなんてこともザラにある。
いわゆる、引きこもりニートだ。
だから、魔王城に通うことになったのは、運動不足解消にも気分転換にもなってちょうど良かった。
それに、診察のあとは魔王城近くの歓楽街ルーナを散策できる。
ルーナは、魔族や亜人たちが人口の八割を占める街。人間たちが立ち入るには少々危険だけど、ここでしか手に入らない素材や、異種族ならではの珍しい薬草が揃っているので、私にとっては貴重な仕入れ先だ。
最近は観光客も増えてきたとはいえ、やっぱりルーナを囲む城壁がなくなる気配はない。
人間への暴行もまだまだ多く、女性一人では危険な場所だ。
でも私は、ニックさんに付き添ってもらいながら、あえてこの街に足を運んでいる。
薬の調達というのも理由のひとつだけどーー
戦争の爪痕を、自分の目に焼き付けるため。
そもそも、私のいた世界での「心療内科」や「カウンセリング」の概念は、第一次世界大戦で傷ついた兵士たちの治療から始まった。その記憶のどこに問題があるのか、会話を通して探る試みを始めたのが、精神分析学の祖・フロイト。
もちろん、彼の理論にはいろいろな批判もあるけれど、心のケアを確立した功績は大きい。
けれど、この異世界ではーー
精神とは神の宿る神聖なものであり、神が導くもの。精神と体はまったく別のものだという考えが、根強く残っている。それに加えて、中世ヨーロッパのような宗教観が色濃くあり、ダーウィンの進化論のような「神の存在」を根本から疑問視する理論は、まだ登場していない。
人間たちの研究は、科学的な探究よりもむしろ「神のお言葉の解釈」に熱心であり、あらゆる現象を神の意志と結びつける傾向が強い。
そのため、神にまつわる差別や偏見も根強く、「精神=神聖」で崇高なものとする考えは今後も変わりそうにない。
だから、心の病を病気として捉える概念そのものが、この世界には存在しないし、フロイトのような先駆者が、ここにはいない。
……つまり、私がやるしかない。
この世界の「心療内科医」としてーーたった一人で。
◇◇◆◇◇◆
魔王城に通い始めて、すでにアダムさんの二回目の診察を終えた。
火曜日の朝方、診療所の扉を閉めると、机の上に広げたアダムさんのカルテを見つめる。
「……。」
横に置いたマグカップから、アイスコーヒー(仮)をひと口。
羊皮紙に筆ペンを走らせながら、何度もカルテを書き直している。
この世界の羊皮紙は、インクの部分を削れば綺麗に再利用できるのが便利だ。
アダムさんのカルテは、彼の情報が更新されるたびに書き換えられ、すでに何度も修正が加えられている。
二回の診察で分かったことは、彼自身のことがほとんどだった。
アダムさんは、元・魔王軍中将。
今は、解体された魔王軍の立場から、魔王の補佐役として働いている。仕事内容は、週に4回の魔王城での勤務と、週に1回の偵察任務。主にルーナ内外の視察や、他都市の調査を担当しているそうだ。
「魔王様に恩がある。だから、この仕事を続けているだけだ。」
そう言っていた。
仕事のストレスが不眠の原因かと思ったが、どうやら違うらしい。むしろ、言葉から察するに、彼は今の仕事にやりがいを感じている。
そうなると交流関係か。そう思い、「ご友人などは?」と尋ねたとき、彼は静かに目を伏せてこう言った。
「……みんな、いずれ先に死ぬからな。」
周りに置いていかれることに関してはもう悲しみはなく、ただ静かに受け入れているとのこと。言葉に嘘はなさそうだった。
ーーそうなると、どこか達観しているアダムさんをあそこまで動揺させた「イブ」という名前が気になる。
診察中に名前が出ていないにも関わらず、カルテに何度も書き込んでは消している名前だ。
やはり、眠れない原因はこの名前に帰結するのかもしれない。
私はもう一度、「イブ」の文字の上に丸をつける。
…まだ踏み込むべきではないのかもしれない。
でも、「イブ」についてもっと知らなければ、アダムさんの治療はできないと直感も告げていた。
◇◇◆◇◇◆
すり鉢を取り出し、処方する薬草の組み合わせを考える。
現在、アダムさんには以下の調合を試している。
•ハーピーの涙(鎮静作用)
•人魚の鱗(ストレス緩和)
•夢喰いバクの背骨(悪夢を抑える)
•お眠りキャロット(催眠効果)
飲み合わせの効果は、私自身で試したものだ。
ただし、最近ではその薬さえも効かないという、アダムさんの悲しそうな報告があった。
「……私が使ったときは、死んだように24時間眠れたのに。」
もちろん、ハーピーの涙の割合を増やせば強力な効果は得られる。
だが、その分、中毒性が強くなり依存症のリスクが高まる。
「やっぱり、別の方法を考えないと……。」
ため息をつきながら、ふと別の方法が頭をよぎる。
本当は、薬の効果を試すためにマウスを使いたいのだけど……。
しかし、この世界の「ネズミ」たちはーー私の知っているそれとは違う。
彼らは、なぜか人の言葉を話すのだ。
「どうか命だけは! 家族がいるんです!」
以前、捕まえたネズミに必死に命乞いをされ、思わず逃してしまったことがある。
それ以来、彼らを検体にするのはやめた。なぜ、私が知っている羊や豚、牛と同列の家畜は普通の動物なのに、ネズミだけが喋るのか。
いまだにその謎は解けていない。
私は深いため息をつきながら、すり鉢の中の薬草をすり潰し始めた。
◇◇◆◇◇◆
そして迎えた水曜日の朝。
3回目の診察の日。
処方箋をカバンに詰め、白衣を身に纏った後、首から聖水の入った小瓶をそっと垂らす。この聖水も診察の条件の一つだ。アダムさんの魔力を無効化する効果があるらしい。
「まったく……魔王城に行くのに、まるで吸血鬼退治みたい。」
そんな独り言を呟きながら玄関を開けるとーー
「よっす、先生。」
ニックさんが満面の笑みで手を振っていた。
今日は、珍しく首に頭を乗せるスタイル。いつもは手に持っていたこともあったが、今日は落ちそうで逆にハラハラしてしまう。
「白衣姿もやっぱり凛々しくていいね。惚れ直しちゃう。」
「はいはい、行きますよ。」
ニックさんの軽口は適当に流し、一緒に「相棒」に飛び乗る。そしてその軽快な走りであっという間に森を抜けてルーナへと向かう。ルーナの城壁を抜け、ガーゴイルたちに見送られながら、いつものように魔王城に入城した。
「先生、ちょっと待ってて! 早めに着いたからアダムさんが行けるか見てみる!」
到着した途端、ニックさんはそう言うと、相棒からひらりと飛び降り、城の奥へと駆けて行った。
私はというと、中庭のベンチに腰を下ろし、人喰い花が風に揺れる様子をぼんやりと眺めていた。
紫色の花びらが不気味に開閉し、キラリと鋭い歯が光る。
(……本当に、食べられたりしないよね?)
なんて思いながら、ぼんやりと花を眺めているとーー
「先生……」
ふいに、どこからか女性の声がした。掠れたようでいて、どこか力強い響きを持った声。
私は驚き、思わず立ち上がった。
「先生、こっち。」
誰?
周囲を見渡すが、城の中庭を行き交う魔族たちは、誰も気にしていないようだった。
「……またネズミ?」
先日、しゃべるネズミに散々驚かされたばかりだ。
身構えつつも、声の方へと足が自然と向かう。まるで、何かに導かれるように。
中庭を抜け、裏口へ。
ひっそりとした裏庭の先に進むと、薔薇のアーチが現れた。その奥には果樹園が広がり、甘い果実の香りが漂う。
「……?」
声が、私をさらに奥へと誘う。
気がつけば、私はどこまでも続く小道を歩いていた。
そして、20分ほど歩いただろうかーー
視界の先に広がるのは、墓地だった。
赤い花々が風に揺れ、静かに墓標が並ぶ。ここだけ時が止まったかのように。
「……ここだよ。」
再び、声が囁く。
私は足を止め、最も声が強く響いた墓石の前に立つ。
そこに刻まれていたのはーー
イブ
1200-2020
愛を込めて アダム
……最後の「アダム」の部分は、何者かが削ったのだろう。かろうじて読み取れる程度の痕跡が残っていた。
「イブ……」
思わず、呟く。
アダムさんのカルテに何度も書き記し、何度も考え続けた名前ーー
その主が、目の前にいる。
……私は、ただ呆然と立ち尽くした。




