log 8. 魔王城での迷子
ニックさんに手渡された地図を頼りに、私は魔王城の中を歩き始めた。
ーー案の定、迷子になった。
「前にバイトで入ったホテルの配膳みたい……。」
現実逃避するように、そんなことを考えてしまう。ホテルの裏も、魔王城も、同じような階段、同じような廊下が、どこまでも続いている。息が詰まりそうだ。歩けば歩くほど、自分がどこにいるのかわからなくなる。
時折すれ違う魔族たちの視線が、冷たく突き刺さるようだった。
その視線で改めて思う。私は、魔族たちと少し仲良くなれたと勘違いしていたのかもしれない。ニックさんやドワーフの親方が気さくに接してくれたからといって、それがすべてではない。
ーー戦争が終わって、まだたったの五年。
この城の中にも、家族や大切な人を人間に殺された者がいるのだろう。
思い出すのは、以前診療に訪れたハーピーの患者の言葉。
「ごめんなさいね。別にあなた自身は悪くないことはわかっているんだけど……でも、やっぱり、あまり関わりたくないみたい、私。」
彼女は、戦争で伴侶を失った。
それだけではないーー。
彼女の愛する人は、大砲で無惨に撃ち抜かれ、残された翼を人間の兵士たちに戦利品として奪われた。その後、切り取られた翼は、ゴミのように蹴り飛ばされたという。彼女の瞳に宿る深い悲しみと恐怖は、今でも忘れられない。
……そして、彼女は初診以降、二度と診療所へは訪れなかった。
異種族であることを十分に考慮し、彼女が安心して話せる環境を作れなかったーーそれは、私の落ち度だ。
(……私は、ただ存在しているだけで彼らの害になるのかもしれない。)
魔族たちにとって、人間は憎むべき存在。私の「誰かの役に立ちたい」という想いは、ただの自己満足に過ぎなかったのだろうか。
(おごがましかったのかもしれない……。)
足が自然と止まる。
そのときーー。
「先生?」
聞き覚えのある、少し低い声が耳に届く。
驚いて顔を上げると、そこにはアダムさんが立っていた。
「何してるんだ、こんなところで。」
赤い瞳が、じっとこちらを見つめている。
……目の下のクマが、以前よりもひどくなっている。
「……。」
何も答えられない私の顔を見て、アダムさんは怪訝そうに眉をひそめる。
「こっちに来い。」
そう言うなり、私の腕を掴んだ。
◇◇◆◇◇◆
連れてこられたのは、アダムさんの執務室だった。
豪奢な装飾の部屋なのに、中央には黒いオーク材で作られた重厚な作業机が鎮座し、周囲には本が無造作に散乱している。
ふと目を向けると、英語の書物が並んでいるのを見つけた。
(英語……?)
驚きながら、異世界転生者たちの共通言語として研究が進んでいることを思い出す。
「本棚を見れば、その人がどんな自分になりたいかわかる。」
以前読んだ洋書の一節が脳裏をよぎる。でもアダムさんの執務室からそれが一切みえてこない。
私は視線を巡らせながら、この雑然とした部屋が、大学院時代の研究室と重なって見えた。散乱した論文、床に置かれた参考書、同僚たちのコーヒーカップ……。異世界の本は羊皮紙でできているけれど、本の香りだけはあの頃と変わらない。
「……やっぱり、帰りたいな。」
ここに骨を埋めると決意したはずなのに、胸が少し痛む。そんな私の視線に気づいたのか、アダムさんが静かに言った。
「寝れないから、本を読んでいるんだ。本を読めば、他のことを考えずに済むからな。」
自嘲気味なその言葉に、少し胸が締めつけられる。
「座れ。」
促されるまま、私は赤いベルベットの椅子に腰を下ろす。
椅子のそばには一冊の本が落ちていた。
『笑顔の作り方――これで円滑コミュニケーションはお手のもの!』
思わず吹き出しそうになったが、堪える。
「練習してみたんだが……。」
「が?」
「鏡に映る顔が怖くてやめた。それに、ニックに見られて『悪魔!』と叫ばれた。」
つくづく不運な人なのかもしれない。
私は微笑みながら、言葉を探していると、気まずくなったのだろう。アダムさんが話題を変えた。
「ランプ……どうだったんだ? 直ったか?」
アダムさんが、ぽつりと尋ねる。
「あ、はい。とても綺麗になっていました。ドワーフの皆さんに感謝です。アダムさんも、ご手配ありがとうございました。」
「そうか。」
僅かに彼の表情が和らいだように見えた……気のせいかもしれない。
部屋に漂う静寂に、私は少し迷った後、意を決して切り出した。
「ですが、やっぱり診察に来てくださる方が、もっと嬉しいです。」
アダムさんの顔が、再び険しくなる。
「……ダメだ。また暴走するかもしれないだろう。」
「でも、以前、考えてくださるって言いましたよね?」
「……考えた結果が、これだ。」
「アダムさん。」
私は彼の赤い瞳を真っ直ぐ見つめた。
彼の瞳を見るのはまだ慣れない。けれど、カウンセリングの授業で一番最初に学んだこと――それは、「目を見て話すことが誠意の第一歩」だ。
「私は、しつこい女です。」
アダムさんがほんの一瞬、驚いたように目を見開く。
そして、しばらくの沈黙。
静かな睨み合い。
迷惑だろうと、やっぱりこんなに孤独を背負っている人を、私は放っておけない。
……彼の姿に、少しだけ昔の自分を重ねてしまったからかもしれない。
どちらが先に折れるかの勝負。
勝ったのは、私だった。
「……わかった。診察を受けよう。」
「本当ですか?」
思わず、顔が綻ぶ。
「だが、条件がある。」
「条件?」
「ここ、魔王城で診察してくれ。その方が俺が暴走した時、対処しやすい。」
さも当然のようにアダムさんは言う。まるで、過去に何度も暴走したことがあるような口ぶりだ。
「迎えはニックにやらせる。」
「……。」
拍子抜けするほど簡単な条件だったので、私は胸を撫で下ろした。
「わかりました。それなら安心ですね。」
すると、アダムさんは少しむっとしたようにこちらを見た。
「俺の魔力を甘く見るなよ。」
「大丈夫ですよ。私、しつこいですから。」
今度は、彼の口元がほんの少しだけ、緩んだような気がした。




