log 10. 消された名、削られた記憶
「イブ」
思わず声に出して呟くと、風が答えるように頬を撫でた。
ふわりと鼻をくすぐるのは、お日様の温もり、青草の香りーーもし「穏やかさ」というものを香りに詰め込めるのなら、きっとこんな匂いになるのかもしれない。
私は鈍い方だけれど、仕事柄、患者さんの言葉の裏を読むことは多い。
だから、もしかしたらイブさんは故人かもしれないーーそんな予感はしていた。
それどころか、アダムさんのトラウマは、イブさんの死によるものなのかもしれない、とも。
気がつけば、私は墓の前に膝をつき、そっと手を組んでいた。
私は仏教徒だけれど、この異世界ではユダヤ教とキリスト教を組み合わせたような宗教が存在し、人々の信仰の中心となっている。
私のような異教徒の祈りで死者が救われるのかは分からないーーでも、きっと大切なのは「気持ち」だ。
目を閉じ、静かに祈る。
祈りを終えたあと、ふと違和感を覚え、もう一度、墓標を見直した。
「1200 - 2020」
単純に計算すると、800年以上生きていたことになる。
人間の寿命では、到底成し遂げられない快挙だ。
周囲の墓石にも目を向ける。
刻まれた誕生年はまちまちだが、亡くなった年は2020年代が多い。添えられた花もまだ新しい。
ーーそうか、ここは戦死者たちの墓地なのだ。
ずらりと並ぶ墓標たちは、何も語らない。
けれど、それぞれに確かに人生があり、想いがあり、生きていた人たちがいた。
これほど多くの命が、一つの出来事で犠牲になったという現実ーーそれが、まるで現実感を持たず、ただ静かにそこにある。
異世界に行っても、戦争はなくならない。
この世界にも、争いがあり、傷ついた心がある。
ーー私の仕事は、きっと必要なのだろう。
少し感傷的になってしまった。気持ちを切り替えて、もう一度墓標を見直す。
やはり気になるのは、「アダム」という文字が故意に削られていることだ。かなり力を込めたのか、削られた部分は深く抉れており、かろうじて判読できる程度だった。
それに、もう一つ気になるのは、アダムさんの「イブ」という言葉への反応。
墓標に刻まれた「愛を込めて」という言葉から察するに、イブさんはアダムさんの配偶者だったのかもしれない。
だが、カルテには配偶者は「いない」と記載されていた。
それなのに、「配偶者はいるのか?」という私の質問に、彼は明らかに過剰な反応を示した。
もしイブさんがアダムさんの恋人だったとしたら、配偶者欄には「いない(死別)」と明記してもいいはず。
だとしたら、イブさんは血縁者だったのだろうか。
私は首を傾げる。
やはり、今日の診察で本人に直接聞くしかないかもしれない。
そう心を決めて、墓地をあとにする。
そのときーー
ふと、風の中で誰かが「よろしくね」と囁いたような気がした。
空耳かもしれない。
けれど、思わず私は背筋を正し、静かに城へと戻った。
◇◇◆◇◇◆
しかし、聞いたところで、そう簡単にうまくいかないのが人の心というものだ。
アダムさんの執務室の椅子に腰掛け、持参したカルテに筆を走らせながら、私はアダムさんを観察する。
蝋細工のように白い肌。彫刻のように整った顔立ち。鋭く輝く赤い瞳。
まるで、長い時の中で何も変わることなく、そこに存在し続けているようなーーそんな不変性を感じさせる美しさ。
私はなるべく笑みを崩さないようにしながらも、内心では落胆を隠せなかった。
「イブ? 誰だそれは?」
アダムさんは、平然とそう言った。
ーー流石に、想定していなかった答えだった。
すみません、課題で更新が死んでました涙