第八話 混浴と侵食
「大丈夫か?」
「うん……何とか」
ひどく小刻みに震わせた歔欷さながらの先代に、いつになく暖かな言葉でそっと支えんとする友人。何故か、心までも閉ざされてしまいそうな個室から数人の男子生徒らが大部屋を寝食を共にしていた。
記憶に留まっていなかったのか、将又瞬きによる一時的な飛躍なのかは定かではないが、傍らでありながら別のベットでほんの僅かに身を寄せる友人。
それとは対照的に中には茫漠とした恐怖に駆り立てられるあまり、何一つ口にせずに一つのベットで手を繋ぐ者や思わず目を背ける抱き合う者がいた。
窓辺の見慣れたランタンが微かな光を灯して……。
無論、ただの死に恐れる非力な生徒として偽り、近衛兵らの目の届かぬ影で「で、どうするんだ? どうやって逃げるつもり――」そう脱出計画を虎視眈々と企てる者を炙り出すための、魔道具として。
「起きてるか?」
「うん、起きてるよ」
「必ず、生きて帰るぞ」
「うん……絶対に」
頬に滴り落ちていくつぶさな雫の雨が視界を曇らせ、それは曖昧なまま緩やかに閉ざされていった。
しかし、夜を明けるよりも早く再び、開かれた。
頻りに微睡んで霞む眼を瞬いて、徐に立ち上がる。
「どうした?」
寝惚けて蕩けた声色で傍らの友人が問い掛けた。
「うぅん、ただ汗掻いちゃって」
「そうか、なら、気をつけて行けよ」
「うん」
そっと音を立てぬように立ち上がって、扉の先へと歩みを進めていく真っ只中、友人はこう告げる。
「あれはお前のせいじゃない、あの眼鏡の責任だ」
「……」
「あまり気に病むなよ、いずれ慣れる」
「うん」
瑣末な一言が先代を酷く苦痛に顔を歪めさせた。
そして、扉の先へと大きく一歩踏み出した瞬間、視界の片隅に映り込んだ。それは先の感情任せに口走る者とは異なり、爪痕の刻まれた兵士であった。
「あっ、ど、どうも」
再び早々に踵を返して舞い戻らんとするのだが、
「待て」と呼び止められ、身をビクッと浮かせた。
「な、何ですか?」頬に冷や汗を滲ませながら取り止めのない微笑みを浮かべる姿は想像に難くなく、無意識のうちに逃げるように数歩後ずさっていく。
「行くのだろう」
「え?」
その逃げに徹する一手は、思わぬ形で塞がれた。
無事に流した汗を落とそうとやや背を見つめる立ち位置で淡々と進んでゆく、背の差が顕著な二人。
「どうして貴方にだけ、爪痕が?」
「黙って、歩け」
雑音ばかりの屋内廊下に漠然とした虚無が漂う。
「良い国ですね」
重苦しき静寂に耐えかねて、今までの俺と先代の想いを玉砕するかの如く強引に沈黙を破りし一撃。
「みんな幸せそうですし」
「ふざけているのか?」
研ぎ澄まされた舌剣を突き立て、鋭い眼光が翻す。
「い……いえ。――――やっぱりか」
そう何処か自分に言い聞かせるように、囁いた。
「じゃ、じゃあせめて、その傷だけでも」
「駄目だ」
「ですよね」
間。
「これは異邦人を秘匿する者に課せられる戒めだ」
「一定の場所にまで到達してしまったら、何かあるんですか?」と恐る恐る恐れもなく言葉を連ねた。
「処刑される」
明瞭に鼓動の早鐘を鳴らしながら戦慄が走った。
「そう、なんですか」
無邪気過ぎる質問攻めを投げ掛けた先代は己の過ちを悔いているのか、あるいは思考の錯綜からか、緩やかに地に俯いていく。と、同時に「着いたぞ」
またしても閑散とした大浴場へと足を運んだ。
だが、浴槽には思いがけぬ先客がいた。
「えっ」
「ん? あぁ、あんたか」
艶やかでいて背中にも届く髪を下ろした少女が、特に露わにした身を隠す素振りもなく振り返った。
「ご、ごめん」
「いいよ、別に気にしなくて。もう慣れたから」
「どうしてこんな時間に此処に来たの?」
「それはこっちの台詞。私はちょっとでも汗かくと体痒くなっちゃってね、直ぐに傷まみれになるの」
「それは大変だね」
「こんな環境下じゃ、特にね」
「うん」
「異国の場所だから不衛生だろうし、傷はこれ以上増やしたくないの」そう言いつつも爪で頬を刻む。
だが、その大浴場の周囲を見回せば、至る所の外壁などが剥がれ落ちて老朽化が進んではいるものの、先程から数刻も経っていないというのに石鹸や変わり湯は新しく、隅々まで掃除が行き届いていた。
そして、またしても照明があるのにも関わらず、高価な鏡の上にランタンがさりげなく置かれていた。
「……」
「どうしたの?」
「いや、別に」
「早く入んなよ、ちゃんと体を洗ってからね」
「……うん」
そんなランタンを鋭い勘をいつになく働かせる先代は不思議そうに見つめながらも体を洗い流した。
身を清めて湯船に浸かっても尚、上の空であった。
「……」
「フッ」
「なに?」
「あんたって、もっと弱そうな感じだと思ってた」
「えっ、傷つくな……」
「見直したって言ってるのよ」
「それは、どうも?」
「やっぱり前言撤回しようかな」
「えぇ」
「あははっ、冗談よ冗談」
張り詰めていた強張りを解き、少女は微笑んだ。
「あんまり、そういうのは好きじゃないんだけど」
「ごめん、ごめん。揶揄い甲斐があるなって」
「はぁ」
「ほんと、ありがとう」
「僕、何かしたかな?」
「うん。貴方のおかげでちょっと元気出た」
「そう、なんだ。それはまぁ何というか良かったよ」
「――――頑張ろうね、絶対に乗り越えようね」
「うん……」
水面に浮かぶは二人の面相。一人は物憂げでありながらも何処か浮ついていて、もう一方は今にも深淵まで沈んでしまいそうなほどに深く陰っていた。
こうして生徒らは忘れられない犠牲者を払って、終わりの見えない一日目の闇夜を無事に終えた。