第二十六話 生命力
朧げな意識と微睡んだ目を徐に開けば、其処には見慣れぬ純白の天井が待ち侘びていた。ふかふかなベットに体が沈み込んで、枕も決して埃臭くなく、まるで天国のような心地良い気分に包まれていた。
「お目覚めになりましたか?」
傍らに柔らかでいて冷徹なる声色がそっと訊ね、ミイラ寸前までガチガチに硬められたぐるぐる巻きにされた白き包帯のせいで、視線だけで一瞥する。
黄金色の艶やかな長髪をお団子にして纏めた、整った顔立ちのそう俺と歳も変わらぬ麗しい淑女が、大人びた白黒のメイド服を華奢な身に纏っていた。
「此処は?」
本当に天国か? それともこれから地獄の裁判でもするのか? と、恐る恐る徐に周囲を見回せば、燦々とした陽光が靡くカーテン越しに差していて、外では子供と甲高い小鳥の囀りが鳴り響いていた。
「王宮の寝室付きの客の間で御座います。闘技場で気を失われ、猛毒に侵された先代様は、多くの人々の協力の元、辛うじて虫の息で緊急治療室に運ばれ、瀕死の重体から我が国随一の名医と先代様の底知れぬ忍耐力と溢れた生命力により、持ち直しました。そして、現在が翌日の丁度真昼時になります」
「そうか……」
事細かな過去を饒舌に且つ淡々と説く様は随分と機械味を覚え、同時に小慣れた作業に目を見張る。
「それと勇者様から伝言があります」
「……?」
『無事に私とアルメリア王の近衛兵と派閥軍及び、尻軽なクローディア王支持者によって、意気消沈する王の意に介さぬ幾多の来客をもてなし、無事に我々一同、五体満足で戴冠式を迎えられそうです』
「との事です」
「そうか…………戴冠式は今日か?」
「はい」
彼奴も意外と方向転換の早いタイプだな。
「お食事はどうなさいますか?」
「いや、い――」
【栄養が不足しています、バランスと血液補給を心掛けた多くのエネルギーを早急に吸収してください】
数多の感情が脳裏を幾度となく駆け巡っていき、絶えず体の芯に響く鈍い痛みと燃えるかの如く胃酸で吐き気が襲い続けて、とてもそんな気分じゃ無かったが、案内の無駄に頭に響く警告に根負けし、まるで腹の虫が鳴らないが泣く泣く、小さく頷いた。
「では、直ぐにお持ちします」
「ハァ……」
その間に体を休めようとするも――「お待たせ致しました、こちらが昼食になります。足りなければ有り余るほどに御座いますので、お声掛けください」
と、ミニ机擬きの純銀らしきお盆の上に載せられた、絶対嫌がらせであろう胃にもたれること間違いなしの錚々たる御馳走が湯気を立ち込めていた。
「これ、なのか?」
「はい」
メイド兼ナースなのか、栄養バランスは彩りも加味して及第点を上回り、どれも垂涎ものであった。だが、思わず蹲ってしまうような熱い感覚と身体中の痛みと、錆びた鉄の味がする鮮血に、決して優しく包んでくれそうにない香ばしい匂いが突き抜け、今も尚生の実感を心の底から味わっていたのだが。
「うっ!」
胸の内に秘めたどうしようもない遣る瀬無さが、その全てを等しく嫌悪感へと変貌させてしまう。
「冷めてしまっては、味が落ちてしまいます。家の優秀な調理師が数十人掛かりで、腕によりを掛けて作りましたので、どうかお早めに召し上がり下さい」
「……そりゃ嬉しいな」
そう豪語されても一向に手を付ける気になれない。仮に野菜の溢れる優しいスープの一滴であっても、口に入れた途端に、全てが溢れ出すのだから。
「では、どうされますか?」
「少しだけ、あともう少しだけ待ってくれないか」
これもいずれ収まるだろう。時が経てば、また。
「僭越ながら感情を表に出すことをお許し下さい」
「……?」
「――感情が蠢き、五感を感じ、体が動く以上、どれだけの出来事が起ころうとも食事を摂らなくてはなりません。明日も生きて、望みを叶えるために。貴方様は、皆に愛された先代勇者様なのですから」
「ぁぁ。あぁ、そうだな」
俺も……先代勇者だったな。
「それとも私がお手伝い致しましょうか?」
「いいや、もう十分だ。一人で食べられるよ」
カウンセリングも熟せるのか、全ての要件を済ませたメイドは颯と背を向けて、扉に向かっていき、腰に携えた鞘に収める一本のナイフが露わとなる。
いや、同業者か。
「では何かあれば、そちらのベルでお呼び下さい」
金のベルが立てられた机上の傍らには、洗濯された俺の服が、シミもシワ一つなく掛けられていて、おまけに体の汗や血の跡も跡形もなく消えていた。
「失礼しました」
檄を飛ばしてくれたメイドが姿を消してから数秒、俺は意を決して全ての皿を勢いよく掻き込む。幾度となくリターンせんと瞬く間に込み上げるが、最後のデザート代わりの濃い緑の薬を飲み干して、自然と目が潤む程に苦味が口一杯に広がっていく。
その甲斐あって吐き気がどうとかでは無くなり、無事に気合いで全ての皿を空にすることが出来た。
「……つーか、包帯はどうするんだ。これじゃあ、何処にも行けないだろ」
愚痴とともに魂と御馳走が零れ出そうな深い嘆息を漏らせば、包帯は刹那にするりと解けていった。
「べ、便利」
何気に拷問に近しい罰を終えた俺は花の爽やかな香りが突き抜けていく服を身に纏って、足を運ぶ。
再び王宮前の忌々しい銅像が建てられし元へと。
「まぁ、だよな」
綺麗さっぱり元通り、僅かな血の跡さえも残っておらず、兵士連中が周りを行き交う事も無かった。
少し、歩くか。
更に鈍った病み上がりの体に無情にも鞭を打ち、人気の無い方へ流されるように歩みを進めていく。
陽が隠れてしまって、次第に影が広がってゆき、下から掬い上げるような涼しげなそよ風が吹く。
「まだ肌寒いな」
そして、靡く前髪からも花の華やかな匂いが降り掛かるとともに僅かな隙間から花畑が垣間見えた。
「……花……か」
俺は引き寄せられるように立ち寄ってしまった。
一瞬あの時の光景を重ねてしまった、花畑へと。