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「――そう言えば名前も名乗ってなかったね……」
彼女の言葉で初めて僕もそのことに気が付いた。
「確かに」
こっちに来てからというものの、名前を名乗るという習慣がなかったものだからすっかり失念していた。そもそも僕は記憶が混濁していて、正直なところすべての記憶が少しだけずれているような感じだ。この国に来た理由も今のところ思い出せない。そして何より、きちんとした名前が思い出せないわけだ。
しかし雇い入れてもらう上で名無しでは困る。とりあえず適当な名前を名乗っておくとしよう。
「僕はユージン」
「そう。よろしくねユージン。私はセアラー。セアラー・カルブンクルスよ」
カルブンクルス……聞いたことない名前なはずなのに、どっかで聞いたことがあるような名前だ。まあ前世で聞いたことがあってもおかしくはない。
既視感ならぬ既聴感というやつだろうか、まあわからないことを考えても仕方がない。
「よろしくセアラー社長」
「社長はやめて……」
照れてるのか両手で目を覆い隠しながらセアラーは力なくそう呟いた。
社長と呼ばれるのが嫌な気持ちは何となくわかる。だけど社長を呼び捨てするわけにもいかないし、さん付けするのも何となく嫌だし……どうしたものだろう。あだ名で呼んでみるか。かなり失礼な気がするけど、渾名よりかは社長呼びのほうがいいってなるかもしれない。
「じゃあ、シアって呼ぼうか?」
そんな僕の提案にセアラーは予想外の好反応を見せる。
「社長よりかはましね」
シア呼びのどこが社長呼びよりましになるのだろうか、彼女の心の内はあまりにも読むのが難しい。しかし、社員にあだ名で……それも愛称からちょっとひねったもので呼ばれるのはどうなんだろう。威厳ってものを気にしないのだろうか。
「余計なことを気にしなくていいわよ。あなたは私の部下である前に婚約者でもあるんだから」と、シアは僕の心を読むように続けた。
「なるほど、じゃあ僕のことはユーとでも呼ぶか?」
「いいわね。それ」
冗談で口にしたつもりだったが、どうやら僕の呼び名は『ユー』で決まってしまったらしい。
愛称で呼び合うってどんだけアットホームな会社なのだろう。冒険者の会社ってことも相まって、余計にブラック企業臭が漂ってくる。こんなんじゃ余計に誰も入社しないだろうな。なんて勝手なことを僕は考えていた。
◇
どうやら、シアの会社は福利厚生だけはかなりいいらしい。なんといっても、給料とは別に部屋まで用意してくれるらしい。
勝手に脳内でブラック企業に変換していたことを申し訳なく思いつつも、あてがわれた部屋を見てその気持ちが再びふつふつと蘇ったりと僕の精神はかなり忙しかった。
「いや、汚いな!」
せっかく部屋をあてがってもらえたんだからもちろん第一声は感謝の言葉を述べるつもりでいた。だけど部屋の惨状を見れば、きっと誰だって同じ反応をしたはずだ。
「あなたって本当に失礼な人ね」
「悪い。思わず本音が」
汚いとはいえ、浮浪者生活を行ってた頃に寝ていた場所と比べると天国とも呼べる部屋だ。
流石は貴族が暮らしたであろう屋敷と言ったところで、単なる1部屋に過ぎないにも関わらず、棚や机、ベッドまでもが完備してあり、極めつけは水洗トイレや洗面所すらも備え付けられている。
外の状況から勝手に中世ヨーロッパ並みの技術しかないとばかり持っていたが、上下水道も整備されているらしい。こうなれば僕の前世の知識なんて本当に何の役にも立たない。まあ、そもそも上下水道の仕組みなんて全く知らないけど。
神の加護によって食べ飲みをしてこなかった僕には排泄行為とは縁がなかったが、シアの手前という事もあり食事をしないというわけにもいかないし、水洗トイレが完備しているのはありがたい。
「珍しいでしょ? 貴族の家では珍しくないけど、水魔法システムっていうのよ。それ」
「水魔法システム?」
「私も詳しくは知らないけど、水魔法で清水を給水して汚水を水魔法で浄化するシステムだとか」
シアの説明を聞いてもよくわからないが、どうやら上下水道とは違うらしい。
なんにしてもトイレと水道が使えるのは、現代っ子の僕にはありがたいことだ。これがあるのなら、部屋が汚いことなんて目を瞑って神に感謝すら出来る。
「いや、私に感謝してよ。別に感謝してほしいわけじゃないけど」
「あれ、声に出てたか?」
「『部屋が汚いことなんて』うんぬんかんぬんのことなら全部出てたわよ。本当に失礼な人ね」
シアは怒っているのか笑っているのかわからないような表情で続けて小言を吐き出した。
「悪気なんてない。でも僕は思ったことを口に出してしまう。癖なんだよ……だからよく人から煙たがられる」
矯正がきくころに悪癖を治そうともしなかった自分が悪い。だから、自分の不幸を恨んだりなんてことは一切するつもりもなければ、誰かに同情してもらおうなんていうつもりもない。ただ、何となくシアに対する罪悪感があったからこそ、そんなことを口に出してしまったのだろう。
所詮は僕もただの人というわけだ。
「正直なのはいいことだけど、それも貴族の前ではしない方がいいわよ。言わなくても分かってるとは思うけど」
「じゃあ貴族とは会わないようにしないとな」
出来ないことはするべきじゃない。それが僕の持論だ。
そんな僕にシアは呆れたようにため息を吐く。
「私たちが相手にするのはお金持ちよ? この国で言うところの豪商とか貴族のこと……私の会社にいる上で、貴族と会わないなんてことは十数年の間は無理よ」
「なるほど……じゃあ死ぬしかないわけだ」
「なんでその二択なのよ。少しは努力をしなさいよ。婚約者じゃなかったら、この時点で不採用にしているところよ?」
「婚約者だからこそ、ちょっとぐらいは無茶が通るだろ?」
なんて、本当はそんな打算的なことを考えているわけではない。ほんの数刻前まではまともな人生を送ることを諦めていた僕だ。本当のところはシアには感謝している。感謝しているからこそ、僕のせいで彼女の品位を貶めるわけにはいかない。
一般人でそれもボサボサ髪の浮浪者が貴族の前に出るなんてそんなことが出来るわけない。そんなことをすれば、それだけで不敬罪だ。雇い主のシアだって少なからず何らかのペナルティを負うことになるだろう。彼女に迷惑をかけたくない。それが本心だ。
そんな僕のうちを知る由もない彼女は半分にやけた顔で冗談を口にする。
「もちろん通さないわよ。不慮の事故とはいえ、カルブンクルス家の婿になるかもしれないなら礼儀作法は完璧にしてもらわないとね」
婿か……どうして僕が婿入りすることになっているのか分からないが、自分の軽はずみな行いのせいでこうなってしまった手前、あまり強い口調で否定することも出来ないな。
シアは婚約解消を諦めていないようだけど、誰も見つけることが出来なかった契約解除の魔法を見つけることなんて出来るとは僕には到底思えない。
まさか根拠のない自信というわけでもないだろうし、何か手がかりのようなものでもあるのだろうか。
「まあいいけど……そんなことより、契約解除の魔法を見つける算段はあるのか?」
「もちろんないわ」
僕の質問にシアが自信満々に答える。
『ないんかい!』と突っ込みたくなる気持ちをぐっとこらえて、今度は僕がため息を吐く。
「じゃあそれを探すことから始めなきゃいけないってことだな」
「そう。そして重要なのが情報収集ってことよ」
「情報収集……」
つまりは何の当てもないってことか。