すれ違い
出来たと思うと出来ていない。出来ていないと思うと出来てる。なぞなぞじゃない。試験の出来映え。今日の午前十時からインターネット上で合格発表がある。
うちは休日でも朝寝坊させてもらえない。卒業したけど、起きる時間は変わらない。わたしの部屋にはシャワールームと小さな洗面台がある。たとえ家族でもパジャマのまま顔を合わせることなんてない。しっかり身支度を調えてダイニングへ降りていく。
母が既に席に着いていた。その横にお手伝いの婆やが控えている。「おはようございます」と挨拶し正面の席へ向かう。朝食はわたしの大好きなフレンチトースト。シュガーパウダーの白色がおしゃれ。これがあるとないとでは見た目がまったく違う。
婆やがじっと、わたしを見てる。なにか変な恰好してるのかしら。ちゃんと姿見でチェックしたし。母が静かに「手」とだけ言った。視線を落とし両手を見た。フォークとナイフを持つ手が小刻みに震え、お皿をカチカチ叩いてる。なんで? 緊張してるの? 拳に力を入れ強く握りしめる。カチカチがガチャガチャに変わり、かえって酷くなる。
「貴女、緊張してるのね。時間は充分にあるから落ち着いてゆっくりお食べなさい」
その瞬間、するりと手の中の物が滑り落ち、数段大きな音が鳴り響いた。ギロリと睨み付けられる。
「すみません」
婆やが新しいフォークとナイフに取り替えてくれた。今度は大丈夫みたい。
部屋へ戻りノートパソコンを立ち上げる。募集要項にあるアドレスをタイプしページに飛ぶ。合否案内のリンクをクリックするが、発表時間のメッセージが表示されているだけ。2種類のブラウザーへブックマークし、電源を落とす。誰かに電話してみようかと思うが、誰も思いつかない。名目だけの友だちは、いっぱいアドレス帳に入っているが、このタイミングで連絡をできる子はだれもいない。ほんとに暗黒の高校三年間だったなと、いまさらながらに思う。でも、御崎さんと過ごした四ヶ月間があるから、それだけで充分だ。価値のある三年間になった。
未来に電話してみようか。中学校までずっといっしょだった友だち。今でも一番仲の良い友だち。幼稚園に入る前からの付き合い。唯一、御崎さんのことを話している、ちょっとだけ。高校はわたしが私立へ進んだので別々になった。彼女は公立で一番の進学校へ入学し、ずっと上から一桁の成績をキープしていた。東京の国立最難関を受験した。合格発表日は、二日後だ。
静かにこの緊張感を楽しんでみよう。もしかしたら二度と味わえないかもしれない。スマホの電源を切った。誰にも邪魔されたくない。未来はよほどのことがない限り、自分から連絡してくることはない。でも、今はよほどのことがある。未来は電話してこない、絶対に。気持ちを紛らわすよう、ただ時間を浪費するようなおしゃべりはしない子だ。
少し乱暴に勢いをつけてベッドで横になる。仰向けになり胸の上で手を組む。目をつぶる。もし眠ってしまったらどうしよう。大丈夫、こんなときは絶対、眠れない。気が立つのではなく、感覚が研ぎ澄まされていく。
ノートパソコンのタスクバーにブラウザーが二つ並んでいる。それぞれF5で更新をかければ良いだけ。時刻は九時五十分。このパソコンは随分と使い込んだ。部品を取り寄せ交換したキーボードの刻印がかすれている。テカりも酷い。もし淡い色のキートップだったら、手垢で真っ黒になっていたかもしれない。合格したら買い換えたい。
今はそんなこと考えている場合じゃない。
普通の子は、どうしてるんだろう? やっぱり親といっしょに見るのかな? 友だちといっしょ!? それはないと思う。だって、どっちかが受かって、どっちかが落ちたら悲惨だもん。群れても今度ばかりは、隠れ場所が無い。白と黒がはっきり分かれる。みんないっしょに合格したらうれしさは倍増するのかな、それとも二乗して行くのかな。
いけない、集中力が切れかけてる。今、することは? できることは?
祈る。信じる。気持ちを強く持つ。
御崎さんのいる方向へ椅子を回して身体を向けた。見守っていてください。どういう結果になっても、ちゃんと会いに行きます。
九時五十八分。
インターネットで画面右下の時計を合わせる。F5を押してみる。まだ早い。吐き気がする。腕からも脚からも力が抜けていく。心臓が飛び跳ねているように鼓動する。手首の動脈にそっと指をあてる。大きく忙しく脈打っている。目がかすみ視野が狭まる。
あと三十秒。
F5を五秒ごとに押す。七度目で画面が切り替わった。五桁の数字が小さい順に縦横に並んでいる。上二桁だけ見てどんどん進んで行く。画面の中程で数字は終わっていた。
「ない」
ページトップの学部と学科を確認する。もう一度、最初から震える指先で数字を追う。やっぱりない。F5を連打連打連打。真っ白なバックにたった一行表示された。
『アクセスが集中しております。しばらくたってからもう一度ご確認ください』
ブラウザーを切替、今度はマウスで更新ボタンをクリック。アクセス集中のメッセージが表示されるだけ。大きく深呼吸を繰り返し、再度画面更新。さっきと違う。五桁の合格番号がずっと続いている。スクロールしないと全てを見ることができない。一纏めになった合格番号が数値ではなくイメージとして表示されていたのだ。アクセスが集中してページが途中で途切れていた。
わたしは受験番号の上二桁を念仏のように唱えながらゆっくりゆっくり慎重に慎重に進んで行く。一致した。三桁目から五桁目はいっぺんに目に飛び込んできた。
「あった」
前身の力が抜けていく。背骨が曲がり猫背なる。机の下で閉じていた両膝が開く。顎が垂れ、だらしなく口が開く
「あったよ、御崎さん。受かったよ」
そのままノートパソコンを枕してに机に突っ伏した。このままだとほっぺたにキーボードの跡がつくだろう。
未来に電話を掛け結果を告げた。自分のことのように喜んでくれた。わたしのために泣いて喜んでくれた。まるで両手をやさしく包み込むように握られているような気分だった。彼女と友だちで良かった。ほんとうに良かった。未来も受かって欲しいと、強く強く願った。
居間の扉をノックして開けた。ソファーに母が座っている。
「あら、髪の毛が乱れているわよ」
さっき、机に突っ伏したからだ。
「お母様、無事 合格しました」
「おめでとう」
抑揚のない言葉が、さらりと唇から吐き出された。いつもより少しだけ目が大きく開いている。母は感情を表に出さない。でも、よろこんくれているのがわかる。
「今晩は、お父様が帰っていらっしゃるから家族でお祝いしましょう」
御崎さんの言ったとおりになった。
「お友だちには連絡したの?」
たった一人だけどちゃんと連絡した。
「他は大丈夫?」
「学校と塾は明日、直接伺います」
どちらもわたしの受験番号を知っている。今頃はもう合否を把握している。
「他は大丈夫?」
「連絡先が分からないんです」
応えてから気が付いた。母が変なことを言った。御崎さんとのことを知っているのだろうか。
「会いに行けばいいじゃない。行ってらっしゃい。お父様が戻られるまでにはちゃんと帰って来るのよ」
ついつい勢いで出かけてしまった。イースト書房に来てみたけど、当然、御崎さんはいない。二日前だし、午前中だしいるわけがない。合格した喜びというか、開放感というか、同じ感覚を共有したい。彼は気に掛けてくれていただろうか。たまには、わたしが無事合格するように祈ってくれていただろうか。数えるほどしか話したことがない。片手じゃたりないけれど、両手ではあまる。でも、これだけは分かる。明後日、彼は必ず来てくれる。約束を違えるような人では絶対にない。
今度会ったら、絶対に電話番号を聞き出し、あわよくばSNSの連絡先も交換しよう。名前だけじゃどうにもならない。
いよいよ今日は彼と会える。
昨日のうちに挨拶回りは済ませた。一応、グループの子たちにも合格の連絡をした。彼女たちの結果も聞いた。悲喜交交で国公立に受かった子と滑り止めに行かなければならない子が半々といったところ。残念な結果を聞くと、心臓がキュッと縮まる感じがして涙目になる。
合格した子たちと、はしゃぎすぎると調子に乗ってるとか落ちた子の気持ちがわからないとか、陰口をたたかれそうだし、控えめに喜べば、すかしてるとか受かって当然って取られて高飛車に見られる。
人前で、どんな表情をしたらよいのか分からない。難しい。
そんなことよりも今、一番に心配なのは未来だ。御崎さんには申し訳ないが、未来の合格発表のほうが数時間早い。先にこちらへエネルギーを使わせてもらう。ごめんなさい。
彼女の受けた大学の発表日は国公立前期試験の最後。発表時刻はわたしと同じ。ネットで確認した。どうか未来が合格していますように。大学は別々だけど、春から二人とも無事、大学生になれますように。神様お願いします。
机に向かい入学手続きの冊子を開く。最初から順番に読み始める。落ち着かない。パラパラと飛ばし読みする。だめ。全然頭に入らない。平常心が保てない。わたしってこんなにメンタルが弱かったかしら。
両手でスマホを握りしめ目をつぶる。机の天板に肘をつき少し俯く。こめかみの髪が顔の前に、音を立てずに流れ落ちる。
スマホが震えた。一瞬で目を開き画面を睨む。未来からだ。着信をスライド。
「受かったよ!」
「ホントに! ホントにホントに! おめでとう!!」
「ホントに決まってるでしょ。嵌めようかって考えてたんだけど、勝手に口から『受かったよ』って出ちゃった」
笑いながらわたしの頬を涙が流れ落ちた。
「ちょっと、泣いてるの?」
「だって」
おかしいな、こんなに涙もろいはずじゃなかったのに。わたしって、悲しくてもうれしくても涙がでるんだ。受話口から息を何度も吸い上げる音が聞こえる。
「ありがとう」
これから会う約束をした。そうだ、御崎さんのことをいっぱい話そう。
制服姿の未来を見つけた。学校へ報告してきたのだろう。わたしも昨日は制服を着て学校へ行ったのに、なんだか随分昔のように感じる。これって、これから先 制服を着ることがないから、ちょっと違う、制服を着て高校へ通うことがなくなったからだ。嫌な思い出のほうが多いけど、やっぱり寂しい。いつか笑って懐かしめるようになればいいな。
大きく手を振りながら走ってくる。いきなり抱きつかれた。抱きつかれたと言うよりも飛びつかれたと言ったほうが正確。両手を首に回しぶら下がっている。ちょっとだけ恥ずかしい。
「合格したよ」
「うん、おめでとう。ホントにホントにおめでとう」
「あんたに一番最初に電話したんだよ」
「当ったり前じゃん」
近くのカフェに入り向かい合って座った。しゃべるしゃべる。マシンガントークなんて比じゃない。息継ぎできなく窒息しそう。話は噛み合っていたり、噛み合わなかったりむちゃくちゃ。何を話したのかよくわからない。
店員がオーダーを取りに来た。二人揃って彼を見上げ声を揃える。
「キャラメル・マキアート」
お冷やを一気に飲み干し、ようやく落ち着いた。
ポツポツと未来が話し始める。三年の最後まで部活をしていた彼女は、あと一歩のところでインターハイ出場を逃した。周りの生徒が次々と引退し塾や予備校へ通い始める。業間休みも昼休みも、みんな受験勉強に必死。部活の練習時間がもったいないと感じていた。机に向かえば成績下位者の追い上げに恐怖し、試合中は勉強できない焦りからイライラがつのる。
「希唯だから言うけど、最後の試合で負けたときホッとしたんだよ。やりきった感とかじゃなくて、これでやっと勉強に集中できるって。いい加減な気持ちで水泳してたわけじゃないけど、自分にとって大事な物が変わってたんだ。あんなに泳ぐのが好きだったのに、憎たらしくて憎たらしくて早く終わって欲しかった。今だから言えるけど、一度に二つのことはできないんだから、一つ一つを大切にして行けば良かったんだ。確かに勉強時間は他の人より少ないけれど、充分挽回できたし。でもね、後悔はしてない。私の実力は県大会までだったんだよ」
彼女の表情はスッキリしてた。未来がこんなに語ったのはたぶん初めて。弱音も混じってたけど本音を話してくれてとてもうれしい。意地っ張りだから、一人で自分の気持ちを抑え込んでいた。誰かに聞いて欲しかったんだ。
頭をなでてあげようとしたら、彼女も手を伸ばした。
「それは私の役割。あんたも酷い高校生活の中でよく頑張ったね。春からはきっと楽しいことばっかりだよ」
お互いの頭を撫で合う。変な感じ。目と目が合う。同時に吹きだした。
「早い目に行きな。私のせいで遅れたなんて勘弁してよ」
「分かった」
「ちゃんと結果報告するんだよ」
「うん」
駅の改札前でICカードを鞄から取り出そうとしていたら、後ろから腕を捕まれた。振り向くと高校の時のグループの面々が勢揃いしていた。みんなでお祝いをするそうだ。当然誘われたけど、これから用事があると断った。
「ちょっとだけでもおいでよ、途中で抜けたらいいし」
待ち合わせの時刻には余裕がある。少しだけならいいか。こうやって会うことは、もうないから。受験が終わり気持ちにゆとりができたせいか、前みたいに嫌な気持ちにならない。誰にでも優しくなってる。
コーラ二杯でお腹がパンパン。げっぷが出そうでつらい。女子高生、正確には元女子高生が話し出したら、ちょとやそっとでじゃ終わらない。みんな四月から始まる大学生活に胸を踊らせている。期待に胸を膨らませている。楽しいことがたくさん待っている。もちろんわたしも同じ気持ちだけど、不安もある。どちらかと言えば、不安のほうが大きい。暗黒の三年間を延長したくない。黒歴史七年間なんて洒落になんない。彼女たちからは、負の感情が微塵も感じられない。ある意味羨ましい。
ついこの間まで、いっしょにいても、わたしだけ存在していていないように扱われていたのに、今日に限ってバンバン話を振ってくる。ずっと昔から親友だったように。彼女たちも優しくなってる。
折角話しかけてくれるけど、ノリが合わないと言うか、話に乗っかるのに苦労する。合格した子たちと、はしゃぎすぎると調子に乗ってるとか落ちた子の気持ちがわからないとか、陰口をたたかれそうだし、控えめに喜べば、すかしてるとか受かって当然って取られて高飛車に見られる。人前で、どんな表情をしたらよいのか分からない。難しい。
そう言えば、高校入学当初、話に入ろうとして頑張ってたなあ。無理に笑って、無理におどけて、無理にはしゃいで。無理に合わせて。
いつからだろうか、グループの端っこで金魚の糞みたいにくっついていたのは。一年生の夏頃か、もっと前かも。おっと、もうこんな時間だ。そろそろ行かなきゃ。過去を分析してる場合じゃない。
「そろそろ行くね」
鞄を持って立ち上がった。端っこに座っていた子が、いきなり泣き出した。えっ、このタイミングで。隣の子が肩を抱いて「どうしたの?」って尋ねる。しゃくり上げるばかりで言葉にならない。泣いている子を見ると、こちらまでもらい泣きしそうになる。目が痛い。充血してるみたい。やばい、涙がこぼれそう。あと五分だけ、あと五分だけ我慢しよう。それ以上は遅らせられない。
一人だけ隣県の短大へ進学する子で、ギリギリまで決まらなかった。最初は近くの国公立大学を目指していたが、大学入学共通テストの点がまったく届かなかった。私立も片っ端から落ちた。二月中旬になって、まだ願書を受け付けているところを探し、どうにか引っかかった。どうしても、その短大に行きたくない。上手く聞き取れない。自分だけ名前も聞いたことがない大学へ行くのが恥ずかしい、同窓会にも出られない、友だちとも会いたくない。みんな「そんなことないよ」「大丈夫だよ」と慰めるが、全然聞いていない。
時間だけが刻々と過ぎていく。可哀相だと思うし、わたしでよければいっしょにいてあげたい。でも、御崎さんのほうが大事。心臓がバクバク鳴っている。もう一度言わなくっちゃ。これ以上は無理。
「ゴメン、どうしても行かなくっちゃいけないの」
一瞬にして、全員凍り付いた。泣いていた子まで、腫れたぼったい目でわたしを睨め付ける。テーブルの周りから音が消えた。
「希唯、何言っているの」
一人が口火を切る。もう止まらない。
「自分だけ旧帝受かったからっていい気になってるんじゃないよ」
「可哀相だと思わないの」
「さんざん面倒見てきてあげたのに、何よ、その態度」
「誰のおかげ一軍にいれたと思うのよ」
グループ最下位のわたしには発言権がない。卒業しても変わらない。少しでも意に沿わないことをしようものなら徹底的にたたきのめされる。
「でも・・・・」
「でも、なんなのよ」
でも、今、行かなきゃ会えなくなっちゃう。みんなには言えない。言いたくない。集中砲火は止まらない。鳴き声はとっくの前に消えた。
行かなきゃ、間に合わない。わたしの居場所はここじゃない。早く。どう思われても良い。ここで縁が切れてもかまわない。御崎さんが待っている。彼がいなくなってしまう。
勢いをつけ立ち上がった。同時に、氷の石像がわたしの周りを囲む。絡みつく無数の腕を振りほどいて走り出した。
電車から飛び降りる。人混みをかき分け改札口を駆け抜ける。会社帰りのサラリーマンや学生で混み合うペデストリアンデッキは、ローファーじゃぁ思うように走れない。息が上がる。胸が苦しい。額から汗が流れ落ちる。足が石のように重たい。何度も何度も転びそうになる。
お願い、待っていて。あと少しだけ、あと少しだけ、そこにいて。
イースト書房のエントランス前に立った。幾度も幾度も首を振り御崎さん探す。徐々に呼吸が落ち着いてくる。コートのポケットからスマホを取り出した。サイドボタンを押し時刻を表示させる。
もう会えない。