今
結局、美沙へは電話をしなかった。
人生の先が見えた気がした。こんな人生も良いのかも。このまま静かな日々を過ごし定年を迎える。六十歳過ぎた自分の姿が想像できた。そう思えてきた矢先の出来事だった。
優しさは諸刃の剣だ。落ちていく者には無用の長物。下り坂にさしかかった人生は、あっという間に奈落の底までころげ落ちる。必要とされていると思っていた。勝手な妄想だと気が付かされた。優しい言葉を掛けられても、かえって惨めになる。誰にも会わず、誰とも話さず、できることなら一生 逃げ回りたい。
美沙は手の掛かる女だ。仕事覚えが悪く、会話能力も低い。男性と話すとき、極度に緊張する。そんな彼女と普通に話せるようになるまで数年を要した。彼女の良さを理解するのには相当の時間が掛かる。
最初に私から離れって行ったのは彼女だった。二年前にアシスタントを卒業させ独り立ちした。仕事の関わりが減っていった。関わらないならば話す機会も少ない。考えてみれば、離れていったのではなく、自然な事だったのかもしれない。
辞令が出てから、一度も言葉を交わすことなく、この地に赴任した。
彼女が現れるパターンがだいたい分かってきた。月曜日と木曜日にやって来る。休日は今のところまったく分かっていない。少なくとも夕方、見掛けたことはない。
案の定、彼女はイースト書房の前に佇んでいた。いったいいつ頃からそうしているのだろうか。制服を着ているところを見ると、学校が終わってからずっとだろうか。先にこちらが見つければ対策が取れる。
ガラス張りの壁から店内の光が漏れている。広い歩道いっぱいに下屋がさしだして、上からも照らされている。目の前に基幹バスの停留所があり、夕暮れ時ともなるとひっきりなしにバスがやって来る。コンビニエンスストア、ファーストフード店、DVDレンタル店、予備校に銀行などが、輪を掛けて人を集める。
いつもにもまして、今日は北からの風が強い。時折、雪花が散る。歩道を歩く人々も首をすぼめ、足早に家路を急ぐ。
迂回するかどうか迷った。私を待っているとも限らない。バス停の前にいるのだからバスを待っていると考えるのが普通だろう。仮に、またついてきても同じように話さなければよい。
気づかないふりをして彼女の前を通り過ぎた。
「あのおっ」
初めて聞いた声は、裏返っていた。勇気を振り絞って発したのだろう。想像していた声色とかけ離れていた。足を止めてしまった。一歩踏み出す前に、彼女が正面に回り込んた。
二言目はくぐもっていたが、しっかり目を合わせて話した。
「お金」
マフラーで鼻から下が見えない。相当緊張しているのだろう。涙が溜まり下まぶたが閏んで輪郭がぼやける。半分だけ見えている耳が真っ赤に染まっている。
「返します」
「お金?」
「ファミレスの」
「あの時の」
すぐ後ろを彼女が着いてくる。県道に入ったところで風が止んだ。雪が降り始めた。粉雪ではない。ポタポタと落ちてくる。車のワイパーがせわしなく動いている。
「すぐに帰りなさい」
振り向いて話しかけると、小さな子供がイヤイヤをするように顔を数回横に振った。後ろを歩く彼女からズルズルと鼻をすする音がずっと聞こえ続けていた。随分長い間、イースト書房の前で待ち続けていたのかもしれない。「風邪を引いたんじゃないか」
今度は下を向いたまま何も反応しない。私のような独り身は、病気になるとひどくこたえる。彼女には帰る家もあるだろうし、待っていてくれる暖かい家族もいるだろう。勝手についてきたのだ。この若さなら、こじらせさえしなければ、風邪を引いても2、3日も休めば治るだろう。かまわず進んだ。
いつもの神社の中に入り、いつものベンチに腰掛けた。隣に少しあけて彼女も座る。苦しそうな息づかいが聞こえる。やはり体調がよくない。
「ここで待っていなさい。暖かいものを買ってくる」
手袋を外し彼女に渡し、コンビニへ向かった。
ビニール袋を下げて境内に戻ると、ベンチの前に5、6人の詰め襟姿の学生が見えた。彼らが壁になって彼女の姿が見えない。背恰好から高校生のようだ。
やっかいごとはごめんだが、放っておくわけにもいかない。まともにやり合っては勝ち目はない。多勢に無勢だ。
「君たち、娘に何か用かい」
一斉に彼らが振り返った。
「風邪を引いているんだ。熱がある。今日だけは勘弁してくれ」
互いに顔を見合わせる。正面に回り、持っていたビニール袋を彼女に渡した。金を渡たして治めようかと思ったが、逆に足下を見られそうだったので思いなおした。
「おっちゃん、こんなところに女の子、ほっぽいたらいけんで。遊んで欲しいって言ってるもんや。俺らだからよかったけど、この辺は悪ヤツがいっぱいいるんで」
「ゴメン、ゴメン、そりゃ悪かった。気をつけるよ。そうか、見張っててくれたんだな、ありがとう」
「こんな可愛い子、すぐにやられてしまうで」
バツの悪そうな顔で言った。
「この神社は受験の神様なんだよ。この子は受験生なんだ」
もちろん口から出まかせだ。
「タクシーで行こうって言ったんだけど、歩いて来なければ御利益が半減するって、言うこと聞かなくって。そしたら風邪が悪化してしまった」
「元気になったらつき合ってよ。待ってるで」
彼女へ話しかけた。
「本人同士が良いなら任せる。でも、高校の間は悪いけど干渉させてもらうよ。卒業したら好きにすればいいさ」
「そう言うの親馬鹿かっていうんだろ」
笑いながら応えた。何人かは口惜しそうに舌打ちしたり睨め付けてきた。門代わりになっている鳥居をくぐって出ていった。言葉使いが違うのは指摘しなかった。
「あのおっ」
声が裏返っている。まだドキドキしているのかもしれない。
「ありがとう・・・・・・ございました」
声が震えている。
「私がさっきの子たちみたいに、貴女を襲わないって保証はないんだぞ」
「この神社が受験の神様って本当ですか」
話を聞いていない。
「何の神様か知らない」
「嘘つき」
「大人は嘘をつく」
「どうして受験生って分かったんですか」
「それも適当。それより受験生がこんなことしてる場合じゃないだろ」
彼女の膝の上にあるビニール袋から、コーヒーとミルクティーを取り出した。
「どっちがいい」
「どうしてミルクティーが好きなの知ってるんですか」
「適当に選んだ」
まだ熱い缶を、手袋をしたまま両手で握る。泣いているのか、風邪のせいか、目元が腫れぼったい。
「落ち着いたか」
「たぶん」
「帰りはタクシーを使おう」
「こんなところでタクシー、走ってるんですか」
「スマホで呼べばいい」
「あっ そうですね」
近くのコンビニへ移動した。ここでタクシーを待つよりも暖かい店のなかにいたほうがよい。
「あのおっ」
また声が裏返った。話し掛けるのに相当気合いを入れている。
「ちゃんとお話ししたいんです」
「受験生がそんな時間ないだろ」
「お願いです。わたし、自分でもなんでこんなことしてるのか、わからなくって。気が付いたらいつも貴方を捜してて。学校でも貴方のことが頭から離れないんです。変なんです」
「変だな。でも、それは私には関係ない」
「勉強も手に着かないんです。たぶん、キチンと話しができたら落ちつけると思うんですけど」
大学生の息子が二人いる。受験生の心理はいくらか分かるつもりだ。この時期にフラフラしているようでは、志望校へは合格できない。ここからが正念場だ。現役生は今から成績が伸びる。見ず知らずの子だか、できるならうれしい春を迎えて欲しい。弱点を突かれた気分だ。
「六時半頃、イースト書房の前を通る。それまでは中で待っていなさい」
彼女がタクシーに乗り込むと、財布から一万円札を抜き取り運転手に渡した。
「名前を教えてく・・・・」
言い終える前にドアが閉まった。
どうして見ず知らずの土地で見ず知らずの高校生と話さなければならないのだろうか。望んでいることと、現実は正反対だ。
変化のない仕事など仕事でない。ぬるま湯につかったままなんて、まっぴらごめんだった。いつも自分から追いかけて、次から次へと新しい事を見つけ挑戦し続けた。
やっと気持ちを切り替える準備ができたのに。ここに落ち着くまで、どれだけのやるせなさに襲われたことか。悔し涙が流れたこともあった。
過去の自分ならどうしただろうか。考えるまでもない。今更戻れるわけでもく、そのつもりもない。
「ありえないだろ」
コンビニの照明に煌々と照らされた駐車場で、夜空を見上げる。
手袋がないことに気が付いた。