枯れる
誰もが必ず通り過ぎる淡い思春期の物語です。少女と年上の男性がすれ違います。どうにもならないやるせなさ、あきらめ、悔しさ。感情過多になりがちで、恥ずかしいこと、楽しいこともあるでしょう。ひとつの旅は終わります。そして新たな一歩を踏み出します。
いっそこのまま朽ち果てるのも悪くない。
誰かに必要とされるわけでもなく、誰かに期待されるわけもでなく、ひっそりと一人で朽ち果てる。
まだ宵の口だというのに、見上げる空は真っ暗だ。
襟口から冷気が入り込まないようにマフラーを締め直した。
11月初旬の大通りは、日本海から乾いた風が吹き付ける。寒さよりも痛さを感じる。廃れたアーケード街から西へ一本外れた道はバス通りになっている。駅に乗り入れできない路線が停まる。通りには、ビジネスホテル、予備校、銀行、オフィスビル、ドラッグストア、パチンコ店などが両脇に並んでいる。
何もしていなくても腹が減る。何も考えなくても腹が減る。夕食を食べなければならない。今はホテル暮らしだから、食事の心配だけしていればよい。いつまでそうさせてもらえるかわからない。だが、憂鬱になったり
面倒臭くなったりはしない。もう十分過ぎるほど失望している。
コートのポケットからスマホを取り出し、メールアプリのアイコンをタッチしようとした。メールの確認は習慣になっていた。誰彼構わず送信してくる無意味な一斉メール。今はもう必要なメールは送られてこない。ちがう。必要がなくなったのは私の方だ。
通勤は徒歩。三十分くらいかかる。冬の日本海側は、いつも分厚い雲の覆われており、一日を通して日が差す時間が極端に短い。11月に入れば雪が降りだす。冷たい雨の降る日も多い。舗装の荒れた路面のいたる所に水溜まりができる。強い風と雨でズボンの裾が、すぐに濡れて濃い色に変色する。歩道のない道では大型トラックが汚れた泥水をはね飛ばしてくる。こんな日はとても歩いて通勤できない。しかし、バスは1日に三本しかない。待ち時間が長く、結局、歩いて帰ったほうが早い。夕食前に明日の天気を確認するのが、唯一の日課になった。
「さて」
誰に話すわけでなく、ひと声発した。そうでもしなければ身体が動かないと感じたからだ。
今は読書をして暇を潰している。そして今日も帰りに書店に立ち寄る。
イースト書房、この街唯一の書店。
風除室からエントランスへ繋がる短いガラス通路を歩く。正面から女性が二人近づく。制服を着ている。高校生のようだ。おしゃべりに夢中。こちらに気がついていない。ぶつかる前にかろうじてて脇へよけた。コート同士が僅かに擦れあう。互いに無言で頭だけ下げて謝る。もう一人のキャメル色のコートを着た子が、瞳を私の方へ向けた気がした。
背中のぞわぞわが首筋まで登ってきた。知っている人? 瞳だけで彼を追う。どこかで会った既視感? この心臓のバクバクは何。
未来がわたしの顔をしたから訝しげにから覗きこむ。
「どうしたの」
「ぞわぞわってして、その後ドキッてなって、今ふわふわってなってるの」
「ん? 風邪か?」
「たぶん違うと思う。なんか変なの」
「希唯は元から変だよ」
今日も今日とて何も変わることはない。無意味な日常がいつまでも続く。いつものように食事を済ませ書店に行くだけだ。あのキャメルのコートは、あの時の少女か。
棚に手を伸ばし本の背を人差し指で撫で上げていく。天に達するとゆっくりと棚から一冊の文庫を取り出した。少しずつページをめくる。心なしか微笑んでいるようにも見える。お気に入りの作家の本だったのだろうか。
町の喧騒の中へ戻る。定宿にしているホテルが、信号の向こうに見えている。早歩きになる。普段なら寒さのせいにするのだろうが、今日は違った。彼女が追いかけてきそうな感じがしたからだ。この距離なら急ごうが急ぐまいが大してかわらない。それでも逃げるように歩を進めた。
分厚いガラスの自動ドアが左右に開く。その内側にさらにドアがもう一枚ある。そこまで入って初めて振り返った。二枚の分厚いガラスの向こうに彼女が立っていた。マフラーを顎の上までしっかりと巻いている。スカートの下からのぞく素足が寒々しい。
高校生か。この土地に知り合いはいない。ましてや女子高生など。
誰かと間違えられているのだろう。それしか思い浮かばない。
ホテルの中まで入ってくる様子はない。視線を戻しロビーの奥へと進んだ。
内線が鳴った。ディスプレイには社長の番号が表示されていた。手の空いたときに社長室へ来てほしいとのこと。どうせ行くなら後回しにせず、先に済ませてしまいたい。受話器を置きすぐに社長室へ向かった。
部屋の中は南側全面が掃き出し窓になっておりまぶしいほど明るく暖かい。晩秋のこの時期にシャツ一枚でも熱いほどだ。六人掛けの応接セットに向かい合って座った。「普段している仕事内容を大まかに説明してくれなか」
おかしな質問だ。同じ事務所にいる者の仕事内容を把握していないのだろうか。何か別の目的がある。
今の社長はお飾りだ。社長人事で派閥争いの収拾がつかなくなり、折衷案として彼が選ばれた。思慮が浅く重要事項を決定できない優柔不断さが抜擢の理由だった。一人で物事を決められないことが、害がないと判断された。
こちらが説明をしている間、話したくてうずうずしている。飼い犬が食べ物を前にして主人から待てをさせられているようだ。
「わかった。わかった。もう十分。さっそくだが九州へ行ってもらいたい」 何を言っているのかわからなかった。にやついた社長の顔を見て、怒りと同時に状況が徐々に理解できた。「どういうことですか」 取引先が支給原材料を大量に使い込んでいた。さらに支払いも滞っている。
前々から悪い噂の流れていた会社だ。大量発注の見返りに、社長へバックマージンを送っていると。購入価格も他社に比べて割高に設定されていた。あまい汁を吸い尽くした後はお払い箱だ。未回収金の後始末をさせる腹だ。即答できる内容ではない。考えさせてほしいと伝え席を立ち、その足で直属の上司である専務のもとへ向かった。
「辞めろということですか」
「待て、誰もそんなことは言っていない」
「では、取り下げて下さい」
「儂も賛成なんだよ」
そういうことか。専務と社長は同期だ。間違いなく事前に示し合わせている。
「何故、まったく関係のない私を行かせるのですか。担当者は別にいます」
「あいつは社長の後輩なんだよ。察してくれ」
担当者の妻は社長のお手つきだ。引き出しからぶ厚い封筒を取り出し手渡された。取引先の詳細な情報が書かれている。財務諸表などの表向きの情報だけでなく興信所や銀行だけでは手に入らないことまで書かれていた。
ざっと目を通しただけでもわかる。この会社はもうダメだ。救えない
「2、3年の辛抱だ。そのうちつぶれる。ポストは用意しておいてやる。のんびり骨休めしてこい」
焦げ付きを責任転嫁させようとしているのは明らかだ。これは専務の画策かもしれない。小心者の社長を脅したのだろう。後始末を引き受ける代わりに、次期社長へ推薦しろと。その後の筋道は社長ともども排除される。
まわりにいた者たちが離れていくのは早かった。 仕事のイロハから教え込んだ営業マン、彼氏を紹介した男日照りの続く女性、入社以来公私ともにお世話をしてきたアシスタント。中間管理職として弱い者の見方でいようとした。目下の者は人一倍可愛がった。
存在そのものを一方的に無かったことにされた。