8.到着とヒーロー
バスが止まった。
机にひろげたサラダが入っていたプラスチックと箸、からあげが刺さっていた棒をレジ袋の中に入れる。代わりにおにぎりを取り出して、ショルダーバッグに突っ込んだ。
できるだけ元通りになるよう個室の中を片付ける。リクライニングも元に戻した。
カーテンを開け、忘れ物がないかを確認してバスを降りる。
大都会、深夜でも光が溢れていた。深夜3時。昼のように明るい。本当に来てしまった。
駅のトイレに行って、化粧をする。顔が分かるほど眩しいのに、すっぴんで過ごす理由がなかった。ゴミは構内のゴミ箱に捨てた。
親への連絡は後回しにする。めんどくさいとか、そういう気持ちもあるけど、とりあえず浸らせて欲しかった。
10時の補導から5時間が経過した。そろそろまたアンダーに戻っているだろうとSNSを開くと、よく投稿を見かけるアンダーの一般人は今夜はずっと見回りがあるらしく、ホテルに泊まっているようだった。ほかの人も、家に帰ったりだとか、恐らく寝ていたりだとか。この時間に希望が持てないことだけは分かった。
とりあえず、ネットカフェで部屋でも借りようと思い調べる。未成年でも目をつぶってくれるような店は、駅から歩いて20分ほどだった。
歩いていると、界隈で有名な用水路があった。水路沿いの細い道に群がって、アンダーたちが酒を飲む。待っていたかのように掃除屋が晒す。橋のような道路から見下ろされるアンダーたちの構図。何度見ただろうか。
せっかくだ、と思って階段を降りる。スーツケースは不便なので階段の脇に置いておこう。きっと、水路を点検するような人が歩くべき場所なんだろうけど、スプレーアートで壁や地面が落書きされていた。
ひゅーっと風が通る。緑色をした水独特の匂いがする。私の町にもあったな、こんな感じの色の田んぼ。
道路のすぐ下はトンネルのようになっている。ホラー映画とかだと、よく出るんだよね。あいにく、私は恐怖とかにめっぽう強いタイプだった。紗奈たちとゴールデンウィークにお化け屋敷に行った時、進むまでが大変だった。こんなに怖がるものなのかって、呆れたことがある。
トンネルの中を少し進む。道路しか挟まないと、近くの電気が眩しくて出口がはっきりしてしまう。
聖地、とまではいかないが巡礼できたのは良かった。お気に入りの落書きは、写真に撮っておく。
トンネルをくぐり抜けたとき、人影に私は目を見開いた。
スケートボードを持った男2人。タバコを吸っていて、腰にカバンを提げている。若いファッションをしているが、あれは違う。もうすぐ30といったところだろう。そういう中途半端な年齢はいちばん良くない。どこかのボスでもなく、下っ端でもない。年齢に合わない服装は、ろくなものを持っていない。
ひとりが私に気がつくと、もう1人の肩を叩いた。まずい。逃げなきゃ。2人はにやりと笑った。
「よう、嬢ちゃん。俺ら、怪しい薬なんか持ってないぜ?」
そういって出してきたのは市販の風邪薬。それも何箱も。ニュースで見た、最近の愚かなアンダーの流行。違法薬物よりも手頃で真似しやすい。
市販薬を一度に過剰に摂取することだ。「オーバードーズ」といって、問題視されている。
私はすぐに引き返した。2人は歩いて近づいてくる。ヒールの高い靴を生まれて初めて恨んだ。
息が荒くなる。呼吸がつらい。
来るんじゃなかった、来るんじゃなかった。まだ早かったんだ。親にもちゃんと連絡していない。
後悔しても遅い。こんな深夜、誰も助けに来ないのは当たり前だ。
どんだけ走っても、男2人を巻けることはなかった。
追いつかれ、手首を掴まれる。やっとスーツケースのある階段が目の前なのに、壁へ追いやられた。
「悪いやつじゃないって、嬢ちゃんが楽しくなるようなことだからさー」
気持ち悪い。殴ってやりたい。叫んでやりたい。
「全然怖がることないよ!口開けてみ?」
声が出ない。抵抗できない。
こんなに弱かったんだ。私。覚悟も、なにも足りてなかった。
笑顔のまま顔を触ってくる2人に対して、私はただ涙が溢れていた。
「あれ、取りこぼし?」
頭上から声がした。声の方を向くと、道路の柵に寄りかかった女がいた。いや、女じゃない。
「補導のとききつく言っといたのになー」
さらに私を見て一言。
「あー違う、新入りだ」
こんな夜にサングラスとマスク。髪が長い。月の光が逆光になってよく見えないけど、髪が透明に見えた。
「ねえ、お兄さんたち聞こえてんの?」
声に気を取られている隙に、私は手を振り払って逃げ出した。
「っ、こら待て」
階段も通り越して、私は救世主と思える人の立つ道路の下を走る。
「待てっつってんだろ」
後ろから声が聞こえる。追いかけているうちのひとりだ。トンネルの中のように声が響く。後ろを振り返って男たちを見る。
くぐり抜けて電灯の光を浴びた時、前を見ていなかったからか、私は誰かにぶつかった。慌てて見上げると、手で目を隠された。
「ねえお兄さんたち、やめてあげなよ」
上からしていた声がすぐ近くで聞こえた。彼らから庇うように私を背後に送る。
「その嬢ちゃんとは知り合いだ、なにもないから返せよ」
「そうだ。部外者が入り込んで来んじゃねえ」
「ふーん、じゃあ何?金になってくれんの?」
嘘を吐く彼らに対して、掃除屋はそう言ってスマホを取り出して、カメラを男たちに向けた。
「緊急生放送でーす、補導から約5時間、カラーギャングで有名なあそこで、オーバードーズの強制を目撃しちゃいました!」
「はあ?やめろよ、写すんじゃねえ!」
ひとりが声をはりあげて顔を隠す。もう1人も走って逃げていく。
「ろくでもない人間がいるもんだねー」
なんて、配信は続く。執拗に追いかけ、私が走った道を戻る掃除屋。男たちはさらに走り、水路にタバコを投げ捨てて去ってしまった。
「なんで、、そこまでするの、、?」
走って追いかけた私は尋ねた。
「え、だってあれ」
掃除屋は、落ちたタバコを拾いながらそう言って指をさした。その先には私のスーツケースがある。
「あと、これちゃんと配信してないから、安心して。変なやつを逃がすには効果あるんだよ」
タバコをカバンの中に入れる。なんだろう、ゴミ袋でも持ち歩いているようだ。
「そうじや」
「知ってたんだ」
返事はあっさりしていた。私に目もくれない。
「俺のことSNSに晒さないでね」
(俺?)
スーツケースを取りに行くと言われた。別に、そんなつもりはない。
「そんな事しない」
「まあ一応ね」
そんな会話をしながら階段を上がる。
「ありがとう。あなたのおかげで救われた」
最後の段を上ってお礼を言う。掃除屋は財布から何かを取りだし、私の手に握らせた。
「はい、1万円」
サングラスの奥で笑っているのだろう、なんのことかさっぱり分からなかった。
「え、あの、これって」
「さっきので思い知ったでしょ?アンダーは怖いんだ。きっとアンダーになるつもりなんだろうけど諦めた方がいい」
「っやでも」
「1万円で足りる?足りなかったら出すよ、タクシーでもつかまえてすぐ帰りな」
話を聞こうとしない。帰らせたいんだ。安全に過ごしてもらうためのこの人なりの配慮なんだろう。でも、それじゃあダメだ。私の計画が水の泡になる。一旦話を止めるにはどうしたらいいのか、ここに留まるには、どうしたら。
戸惑いつつも、色んな意味に捉えられるだろう言葉で、賭けに出た。
「あの!」
「何?」
めんどくさそうな目が刺さるように感じた。
「私、夜行バスで7時間のとこに住んでるの」
「……うーん?」