2.いってきます未満
胃にものを入れて損はない。私は、スーツケースに入れ忘れていたものを詰めてチャックをしめる。ついでに、移動用の小さなかばんも準備した。
玄関まで持ってきて壁際に置く。そしてリビングに戻った。
「兄さん、なんか美味しいものない?」
共働きの両親は8時まで帰ってこない。兄さんに頼んで、何か作ってもらおう。
「ドーナツ買ってあるよ」
「ご飯っぽいのがいい」
正直言ってドーナツみたいなものは「アンダー」に着いてからいくらでも食べることができる。もっと家庭でしか得られないものが食べたかった。
「みそ汁作ろうか?」
優しい兄は言った。ひとり暮らしを始めて、頑固さが無くなったような気がする。そんな兄に甘えて、私はおみそ汁を作ってもらうことにした。
兄がキッチンにいる間、私はSNSを見ていた。
ちょうど紗奈がみんなと来た夏祭りの投稿をしている。私はそれに反応して、「私も行ければ良かった〜」ってメッセージに泣いた顔文字を加えて送った。これくらいが紗奈にとっての「心」として納得いくものだろう。
常にスマホが片手にあるような彼女からは、すぐに返信が来た。
適当にやり取りを済ませて、「楽しんできてー!」なんて他人事な文を送り紗奈がそれにリアクションして会話は終わった。
それと同時に兄が私の前におみそ汁と箸をのせたお盆を持ってきた。
15分ほどでできたのは細かい油揚げと豆腐が入ったシンプルなおみそ汁。両親の晩ご飯にも使えるような量だった。用意されたみそ汁と箸を持って、お椀の端に口をつける。
ひとくち飲んで分かる。お母さんと一緒の味。出来たては温かくって、冷房の効いた部屋にマッチしていた。短い時間で作ったのに、とても美味しい。
「ありがとう、兄さん」
薄情者じゃないからお礼を言う。兄さんは「不味くないなら良かった」とだけ言った。
せっかくだし、スープジャーに入れて後で飲もうと思ったけど、1ヶ月も容器を持ち歩き続ける自信が無かったのでやめた。
家族に関するものを持っていくと私としては良くないということもあった。
15分では、おみそ汁を作ることも飲むこともできるらしい。
私はどこか温まった気持ちで玄関に行き、靴を履いた。光沢が眩しい黒のブーツ。季節に反しても、今の私の服装には良く合うものだった。小さめの黒いショルダーバッグを斜めがけにして、リボンとフリルが溢れるようなスーツケースを片手に持つ。後ろを振り向くと、過保護な兄が立っていた。
「いってきます」
「変なことに引っかからず、何かあったら連絡しろ」
変わらず兄は私を心配している。そのことに安心して、私は扉に手をかけた。その時、背後で「いってらっしゃい」と声がした。心配のしすぎで言えなかったのだろう。聞けたことに更に安心した私はもう一度振り返った。意図せず口元がゆるむ。
「いってきます」
兄も微笑んだのを確認して、家を出た。
毎日のように歩いてきた道をたどる。美容院の帰りとは違い、空が濃くなっている。それでも、西日はオレンジ色に照らしていた。不思議なことに東側は青が濃い。綺麗だけど、好きではなかった。
スーツケースを引きながら、空いている片手でスマホを見る。電車には十分間に合いそうだ。
やはりおみそ汁を持ってくるべきだっただろうかなんて考えているうちに最寄り駅に着いた。ショルダーバッグからカードを取り出して改札を抜ける。
私と同じ制服を見る度にどきっとするが、歩いていく制服たちはイレギュラーな格好をする私を見はするけど誰も「心」だって気がつかなかった。当たり前だ、服装も髪型も顔も違う。容姿で判断されていた私を分かる人はいなかった。
制服数人に見られたあと、電車が来た。いつも朝に乗っている方面のものだ。
スーツケースを持ち上げ電車に乗り込む。部活帰りの学生にとってはでかい荷物は邪魔なのだろう、少し眉間に皺を寄せられた。そういえば、紗奈が夏祭りとか言ってたっけ、浴衣も何人かいて、同じように私を見た。
この顔で会うことはもうないのだ。私は気にしなかった。
誰も私が今から「アンダー」に行くとは思ってないだろう。服装こそあの場所にふさわしいが、こんな田舎で見ればガラの悪い奴の中のひとりとしか考えないはずだ。
電車の中の時間はあっという間で、ミラのSNSを覗くだけで終わった。
終点且つ毎朝降りる駅で、再び私はスーツケースを持ち上げる。
さっきの浴衣は乗り換えに急いでいた。私は階段を避けてエスカレーターに乗った。いつもは階段で上がるけど、大きな荷物があるんだから仕方ない。
数時間前も通ったような改札を抜ける。
部活の帰りらしき他校の生徒と目が合ったが、すぐにそらされた。彼はきっと気づいているのだろう。妙に信頼していた彼と、もう話すことはないけれど。
そんなことはどうでもいいのだ。
高校から1番近いこの駅は、地元の駅とは違い、新幹線も通り、構内にはカフェや雑貨屋が多くある。近くにベンチがあったので、そこで座って休むことにした。
私が使うのは都市直通の夜行バス。夜の8時半に出発して、朝3時につくものだ。バスが止まるのはトイレ休憩のためのサービスエリアのみなので、今のうちに晩ご飯を買うことにする。
コンビニで済ませるのが手軽だが、それだと味気ない。
少し迷ったが、結局近くのカフェのサンドイッチにした。
紗奈たちと放課後によく来ては新作ドリンクを飲んでいた。彼女たちは夏祭り、他の同級生も長期休みに心浮かれているため、ここにはいない。それが私の安心材料にもなっていた。
店に入ってサンドイッチをテイクアウトする。ハムとカマンベールチーズの挟まったサンドイッチは、私の好みでもあった。
ここのカフェは店員さんの愛想の良さが売りで、サービス満載なのが人気の理由だ。私もサンドイッチを頼む際に、
「サンドイッチにはこのドリンクがオススメですよ」
なんて言われた。売上のためにおすすめする訳では無いことは、表情によく表れていた。
店員さんの笑顔に従って飲み物としてキャラメルマキアートも頼むことにした。
夜ということもあってか、人が少なくそこまで待つ必要は無かった。会計を担当してくれたお姉さんが私にサンドイッチとドリンクを渡す。
「良い夜をお過ごしください」
なんて綺麗に並べただけみたいな言葉、あのお姉さんが言っても不自然ではなかった。私も笑顔で会釈をして、商品を受け取った。
店を出て、さっきのベンチに戻ってくる。
やはりおみそ汁だけじゃご飯として不十分だろう、カフェで得たものを食すことにする。
ドリンクの側面を見ると、「Thank you」とかわいいウルフカットの女の子が書かれていた。
どこまでもサービス精神に溢れているのだと感じた。もちろん、私の今の容姿はこの地域じゃイレギュラーなもので、関わらない方がいいというのが正しい判断になる。
もしかしたら、お姉さんもこういう文化が好きにかもしれない。でもそれはもう試しようのないことなので思考を放棄することにした。
サンドイッチの袋を開け、ひとくちかじる。クリームチーズがいい働きをしていて、とても美味しい。おみそ汁とはまた違った良さのある食べ物だった。
人の流れを見ながら黙々と食べていたからか、誰も知らないと油断していたからか、私は話しかけられるまで全く気が付かなかった。
「何してんだよ、心」
聞き間違いかと思った。
そう思いたくて、振り返った。
軽いマッシュヘアを持つ運動部の人間は、黒いリュックと手提げかばんを持って不思議そうに眉をひそめこっちを見ていた。
「せ・・・な?」
さっき見かけた彼とは違う。けど、彼も目の前のこの人を知っている。
顔の原型が分からないようなメイクなのに、どうして気がついたのか。紗奈には1回もバレなかったのに。何を目的に話しかけてきたのか。とりあえず挨拶した方がいい?口封じに軽く脅迫するか?
とりあえず笑って取り繕うのが適当なのか。
ものすごい勢いで対応策を考え、あることに気がついた。
いつも使っている表情筋が動かない。笑って誤魔化さなきゃ。部活おつかれーって、おとといくらいに会った時のように言わなきゃなのに。
それもそうだ。今の格好の私は、感情に従順に微笑んでいた。兄へも、あのお姉さんにも。
今更、保身で笑えるわけなかった。
何も出来ない私は、ただ目をそらさないことに精一杯だった。
目の前の彼、星波は聞き間違いでは無いことを強調するように続けた。
「心、なんでこんなとこにいんの?」