12.秘密ができた
コーヒーの匂い、話し声、いつもと違う掛け布団。
そして、少し重い。眠たさの欠片もなく目を覚ました私は、重たく感じる下腹部に目を向けた。モフモフの物体。サラサラした白い毛並みがもぞもぞ動く。私のお腹の上で大きく伸びをするのは、毛の長い猫。かわいい。
ずっと上にいられるのもなんなので、申し訳ないけど体を起こす。びっくりしたであろう猫は、私の方を見たあと、ベッドから飛び降りた。それでも、そのまま私の方を見、逃げる様子はない。
寝起きは少しぼーっとしている。もっと言えば、昨日したことも、忘れてしまっている。しばらくして、どういう状況かを理解する。朝は苦手だ。なんかもう、朝っぽくないけど。
変わらず猫は私を見てくるので、とりあえず手を出してみた。そっと近づき、匂いを嗅いでもらうのを待つ。嗅いでくれたら撫でてみる。何となく、見た目が宵くんに似てるなと思う。ただ警戒心のなさは飼い主から学んだ方がいいぞ、私だって一応はじめましてなんだからね。
全体をわしゃわしゃするも逃げない。持ち上げても、なすがままに伸びる。今の状態を理解してきたし、ひとまず私は猫を抱いてコーヒーの匂いを追いかけることにした。
リビングで宵くんは電話をしていた。スマホをテーブルに置き、スピーカーにしているようだった。
「あいつはまだ寝てます、なんでそんな何回も電話するんすか」
『もう昼すぎだぞ。そろそろ起きてるはずだ。なに、心に何かしたのか?』
私のことについてらしい。しかも兄さんと話してる。昨日の感じからして、宵くんと兄さんは私を挟まなきゃ良い友達になれそうだとは思っている。この状況でこの立場だからめんどいだけだ。
「してないです。起こしにいけとか言うけど実際に俺が起こしに部屋行くこといいと思ってるんすか?兄として」
『許せない』
「じゃどーしろって」
私が出なくちゃか、寝起きから忙しい。
「よ、そ....おはよう」
本名も言わないように、職業もバレないように宵くんに配慮した結果、不自然にどもってしまった。
「あー、心ちゃん。おはよう、とりあえずおにーさんどうにかして」
『名前で呼び合う仲なのか、いや心、母さんたちに連絡しろ、心配してるぞ』
「何もされてないし全然健康です一応泊まらせて貰ってる立場なんであんまりこの人に迷惑かけないでね次は私から連絡するからじゃあね」
早口でまくしたてて電話を切る。そのまま宵くんに渡した。
「ごめん宵くん、あとおはよう」
「あー、まあ。もうおはようじゃないけど」
時計を力無く指さすと、時計の針は12時半を過ぎていた。
宵くんを見ると、着替えたようで、昨日と違う服を着ていた。対して私は昨日と変わらない地雷コーデ。汚れてはいないものの、さすがに汗臭いだろう。不安に思って宵くんから離れる。無意識に猫もそっと床に置いた。
「ん?ああ、シャワー浴びる?」
「……お願いします」
□□□
年齢も知らない人の家でシャワーを浴びている。こんなことになるとは想像もしなかったし、今も現実じゃないと思っている。シャンプーも借りちゃって、なんか今更申し訳ない。私は宵くんになにか恩返しが出来るわけじゃないし。あ、いや。
もしかして、アンダーを変えることが対価になっているんじゃないだろうか。変えるって、どうやって?見当もつかない。泊まるために嘘をついた口を呪ってしまいたくなる。いや嘘じゃない。あの時たしかに、助けてくれた宵くんを見て、突きつけられた現実を感じて、たしかに変えたいと思った。
感情がひとつなのは、物語だけだと思う。色んな気持ちがごちゃまぜになって、人間は生きている。私も、きっと宵くんも。アンダーの人たちだってそうかもしれない。変わるなら、私だけじゃだめだ。
言ったことは守らなきゃ。少しでも、アンダーを変える。方向は決まってない。やり方も決まってない。
それでも、この1ヶ月を、無駄にするつもりはない。
鏡に写った自分が、力強く見えた。
□□□
「シャワー、ありがとう」
「おー。あれ、すっぴん?」
「……いいかなって思って」
「ふーん」
宵くんは腕に猫を抱いて自分の部屋から出てきた。なんだろう、作業中だったか。
「こいつ、シューって名前」
猫を見すぎたようだ。撫でながら宵くんは言った。
「あと、家事の分担表作ったから、見といてくれない?」
宵くんは片手でシューを持ちながらテーブルにある紙を私に渡してきた。
「分かった」
これでやっと平等、というように分担表には宵くんの名前もある。これだけで恩返しという訳にはいかないか。
「あとで冷蔵庫にでも貼っとく」
そう言って宵くんは手を出してきたので、私は紙を渡す。彼は紙を元の位置にもどし、シューの頭を撫でる。
「あ、気になってたんだけど」
「なに?」
彼にとって気になることは沢山あるだろう、どれかなとか思って彼の目を見る。シューに向けられた目は私の方を向いた。
「アンダーに来た目的ってなに?」
「……え?」
宵くんには初対面で説明したはずだ。さっきまで建前だった、「アンダーを変えたい」ということ。
「初めて会った時にも聞いたけど、あれって、俺とあの時会わなくても同じこと言ったのかなって思って」
たしかに。宵くんだから言ったのかもしれない。少なくとも昨日のOD男2人には絶対言わなかった。
「会った場所がもしアンダーだったら、同じこと言ったかなって」
もし、アンダーで会っていたら。もし、あの補導に私がいたら。私は恐らく、伝えられなかっただろう。
アンダーって、こんなに不自由な世界だったっけ?昨日の用水路の方が、自由だったの?
こんなの、ミラの望む世界じゃない。ミラのように自由な自己表現ができていない。
「……言わなかったと思うし、言えなかったと思う」
「心からして願ったことじゃなかったんだな」
「その時はね。その時は、ただの好奇心に、現実逃避したいって、気持ちが強く出ただけ。だから」
元々変えたいって気持ちはなかった。あの時咄嗟にでてきた気持ちを、さも前々から持っていたように振舞った。事実、あの時の「変えたい」は嘘だったことになる。
「嘘ついて、ごめんなさい」
私は頭を下げる。もう二度とあげないという程の気持ちを込めた。でも、宵くんの言葉は思いもしないことだった。
「今は?今はどう思ってんの?」
「今……」
許してもらってるってことなのだろうか。
「嘘はたしかによくないけど。昨日のあんたは泊まる場所がなかった上、襲われた。外傷はなくても、心のどこかで傷ついてる。アンダーを変えるって言ったことが、過去にその気はなくても、今そうなら俺は別にいい」
私はどこかで傷ついてるなんて、考えてもなかった。それは慣れてしまったからか、それとも、宵くんのおかげなのか、分からない。でも、宵くんは気を使ってくれていた。彼にもお礼をしなくちゃ。
私はアンダーを変えたいと思っていた。そして、アンダーの現状はミラの理想とは程遠い。自由と見せかけて不自由。それは大人や国が作ったことではなく、自分たちで作り上げた身勝手な秩序だった。
私は、アンダーを「変える」じゃおさまらないかもしれない。
アンダーを、壊す。
今の自分に1番納得してしまうことは、破壊だった。
1回全てをゼロにして、新しく構築する。それこそ、どこよりも自己表現のできる場所に。誰も、搾取されない世界に。
でも、アンダーで稼いでる宵くんにとっては、不都合なことかもしれない。アンダーが歪んでいることで、宵くんは稼いでいる。
アンダーに改革をもたらす。それは宵くんも望んでいること。方向性は知らないけど、私はそれに合わせればいい、そう思った。
「今は、宵くんの助けになることがしたい。それがアンダーに通じることでもあると思ってる」
「ほんとに?」
怪しんでいるというより、確認するように聞いてきた。
「たしかに、私にもここに来た目的はある。でも、今は宵くんといるべきだと思う。知識もあなたの方がいいし」
自分で気づいてしまった以上、この破壊衝動は我慢できないと思う。でも、無知な状態で行動に移すことはリスクが大きい。
私はいつか、アンダーを壊す。それがこの夏休みなのか、未来なのかは分からない。ミラのために、私もミラに貢献する。
「……そこまで言うなら、協力してもらうよ」
別角度から見たら、私が宵くんを利用しているだろう。否定しない。自分でもそう思う。
「心ちゃんの望みを叶えるために」
「………ん?」
ちょっと待って、どういう意味?宵くんの助けが、私の望みを叶えること?じゃあ、アンダーの破壊なんて容易いことじゃ、いやそうなったら宵くんも困る人のひとりで……。
「いや、どういうこと?」
「どういうことって、アンダーを変えるって、俺と同じ目標だから」
ああ、そっか。まだ彼には「変える」で止まってるんだ。壊すことは、伝えていない。むしろ、本当に利用してしまうのもありかも。
「おいJK、あんまりアンダーを舐めんじゃねーぞ、俺も含めて」
「声に出てた?どこから」
というか、なんでJKだって知ってんの。前から思ってたけど、そんな私って女子高生って感じする?
「んー、なんかほんとに利用してやろうかって言ってた」
「ごめん」
冷や汗をかく。
「いや、存分に利用して構わないけど、その倍俺はあんたをこき使う。心ちゃん、その覚悟はないでしょ」
「……うん」
「なら、大人しく協力してアンダー変えよう」
「…はい」
壊すことが頭の端っこにあるけれども、宵くんの元にいる限り叶わないことが確定した。もっと、アンダーで権力をつけてからじゃないと。
ん、待って。なんで私こんなにいい扱い受けてるの?普通逆じゃない?なんか裏でもある?
「ねえ 」
「ん?」
「どうして、こんなことやってくれるの?私が宵くんに協力するとしても、あなたの負担が大きすぎる。最初は全然乗り気じゃなさそうだったし、なんで追い出さないの?」
ふとした疑問だったが、宵くんの手は止まる。シューは大人しく腕の中で丸くなっていた。
「……アンダーを変えたいって気持ちがあるから?」
なんで疑問形?聞いた側だから何も言えないけど、私もつられて首を傾げてしまう。
「そんな曖昧に言われても」
「ちょっと意味違くなるけど、目の前で救えるアンダーだったからかも、心ちゃんが」
パチリとした二重がこちらを向く。小さな口は薄く口角を上げ、少しごつごつした手は優しくシューを床に置いた。
「今日、ちょっとアンダー寄ってみるか」