心配性
「大丈夫かしら?なんか雨、降りそうじゃない?」
お昼休み、会社の休憩室で美穂は言った。
「ホントに心配性ね」
同僚の亜紀が言う。
「だって雨が降ったら、武、困るだろうから」
「武くんだって、子供じゃないから大丈夫でしょ。それに傘なら百均だって売ってるから、なんとかするって」
朝、同棲している彼が玄関のシューズラックの上に折りたたみ傘を置き忘れて行ってしまったのを見てから美穂は天気が気になって仕方がない。
「美穂が心配性で、武くんが暢気。正反対な性格なのによく同棲してるわね」
亜紀が言う。美穂もそう思う。
心配性は損な性格だ。悩み事はつきないがそのほとんどは取り越し苦労で終わったりする。彼女自身、嫌になる事もあるが……
「美穂らしくて、いいじゃん」と武は言ってくれる。
「何しよう」
急ぎの仕事が入ったと彼は日曜なのに仕事に行ってしまい、ポッカリと空いてしまった時間に美穂は手持ち無沙汰で困っていた。
久しぶりに駅前にでも行ってみようかしら
駅前にはショッピングセンターがある。郊外にある大型なものではないがスーパー、ドラックストア等、生活必需品を売る店の他に可愛い雑貨やおしゃれな洋服のある店、本屋を兼ねたカフェもある。造られてからさほど年数が経っていないのか、全体的に綺麗で今のアパートを決めたのもこのショッピングセンターがあったからだった。
美穂は雑貨や洋服をゆっくりと見て回った。こんな時間は久しぶりだ。いつも休日は彼と一緒だからこういう場所には来れないのだ。
全部欲しくなっちゃう、とウインドーショッピングを楽しんでいると
武が女の人とカフェにいるのが見えた。
「それ絶対、浮気だって」
翌日、会社の更衣室で亜紀が言う。
「武くんにちゃんと聞いた?」
「……聞いてない」
「まったく浮気だの、不倫だの、みんな困ったものね」
「不倫って?」
「美穂、総務部の坂本さんって知ってる?」
「知らないわ」
「坂本さん、不倫してるらしいわ。カレシの話になるとわざとはぐらかすんだって。絶対あやしい……多分、不倫してるって噂よ」
亜紀の話を聞きながらも美穂の頭の中は昨日の女性の事で一杯だ。
あの人、とても可愛かった、少し派手な気もするけど。私とは全然違うタイプ。
昨日武は夜に帰って来たが、いつもと変わらないように美穂には見えた。
「ちゃんと武くんに訊いたほうがいいよ」亜紀がまた言う。
「でも、打ち合わせだったのかもしれないし……」
尋ねたい気持ちと尋ねるのが怖い気持ちがせめぎ合う。
そう言えばこの頃、武は夜遅く帰って来る。
食事は外でしてきたからと、せっかく美穂が作った夕食も食べない。
次の土曜の朝も休みのはずだった武は急遽、仕事で出かけた。
美穂は部屋着に上着をはおり慌てて武の後をつける。
予想通り、この前のカフェに来るとあの時の女性がいた。
二人のテーブルから少し離れた席に陣取った美穂だったがそこでは肝心の会話が聞き取れなかった。
もう少し近づけば聞こえるのだろうが、それでは気づかれてしまう。
どうしよう……
思案していると女性が荷物から何かとりだした。
パソコンだった。
打ち合わせだわ、仕事だわ……
夕方に帰って来た武を美穂はご馳走を作って待っていた。
「どうしたの?なんか豪華じゃない?」
「べつにフツーよ」そう言いながら胸が弾んで嬉しさを隠しきれない美穂だった。
翌日、武は昼近くまで起きてこなかった。疲れているのだろう。
一緒にお昼を食べた後コーヒーをいれる。
「映画でも見る?」
「話があるんだけど……」
「なに?」
「ごめん、別れてくれないか」
荷造りをしている武を背中に感じながら美穂はソファーに座り彼の言葉を何度も思い返していた。
「なんで?私達うまくいってるわ。相性だって悪くないと思うし……別れる必要なんかないじゃない」そう言って、いくら話し合っても納得しようとしない美穂に武は言った。
「美穂は心配性で俺とは性格が正反対だから相性はあまり良くないと思うよ。やっぱり似た者同士の方が相性はいいんだよ。俺は沙紀と出会って気づいて……」
「沙紀?」
「あっ、いや、美穂にも似合う男がいるよ。きっと」
武は美穂を気遣って言ったつもりだろうが、彼は大きな間違いをおかした。
『心配性だから合わない』それは美穂を一番、傷つける言葉。彼女の一番、聞きたくない言葉。
『他に好きな人が出来た』と言えば良かったのだ。
彼女の中で何かが壊れはじめた。
「じゃあ、後の荷物は処分してもらっていいから」
呼んでいたタクシーに段ボール箱を二つ積み込むと武は言った。
「今までありがとう。元気で」
「ええ」
タクシーがアパートの駐車場を出ると美穂は急いで自分の車に乗って後をつける。
十五分後、隣町のアパートの駐車場に入って行くタクシーを車の中から美穂は見ていた。
アパートの二階の右から二番目のドアから出てきた女性は笑顔で階段を下りてくると武と段ボール箱を一つずつ持ちおしゃべりしながら楽しげに階段を上っていく。
そんな二人を見ながら十五分前までは一緒にいたのに武の中では自分はもう過去になってしまっていることに美穂の心は冷えていく。
そして冷えた心は彼女を完全に壊してしまい、残ったのは
殺意だけだった。
美穂は車を近くのパーキングに止めるとアパートの階段下に身を隠した。
手には車のトランクから持ってきたテニスのラケットがあった。
つきあうまでは毎週テニススクールに通っていたが武との時間を大切にしたいから辞めた。
我慢してきたのに・・ずっと、ずっと
小雨が降りだしても何かに取りつかれたように美穂は待っていた。
武はよく夜更けにタバコをきらしてコンビニに買いに行く、きっと出てくる
やがて体が冷えラケットを持つ指先が氷の様に冷たくなった頃に二階で物音がした。
階段を下りてくる足音がする。
美穂は階段下からそっと顔をのぞかせて見た。
ウインドブレーカーの背中が見える。小雨をよける為にフードを被っているがそれは確かに見覚えがあるものだった。
武だ。
彼女は階段下から走り出ると……ラケットを振り下ろした。
翌日は会社に行く気力も無く風邪気味だ、と嘘をついて休んだ。
そして次の日に出社すると何かいつもと違う、社内がザワついていた。
亜紀がいた。
「ごめんね、昨日休んじゃって」
「大丈夫?」
「もう平気。なにかあったの?」
亜紀は急に声をひそめて
「総務部の坂本さんが亡くなって警察が来てるの。私も昨日、話を訊かれた。美穂も訊かれるかも」
「でも坂本さんって、私、顔も知らないのよ。それに警察が話を訊くって、どうして?普通じゃないわ」
「自宅アパートの前で殺されてるのが見つかったからよ」
「……」
それから一時間程した頃、話を訊きたいと会議室に呼ばれると背広姿の男がいた。
「お仕事中、申し訳ありません。どうぞおかけ下さい」
椅子をすすめられ、質問される。
「坂本沙紀さんについて、お伺いしたいのですが」
坂本沙紀さん……沙紀、やっぱりそうだったのね。警察が殺人事件で来てると聞いた時からわかっていた。
美穂はあの夜、間違えて殴り殺してしまった沙紀の死に顔を思い浮かべながら、坂本さんとは面識がありません、と警察に言った。
仕事を終えアパートに帰ると玄関の前に武がいた。
予想はしていた。
彼の横には積まれた段ボール箱が二つあった。
「どうしたの?」
「ごめん、まず中に入れてくれ」
武はあの夜、タバコを買いに行ったきり帰って来ない沙紀を探しに外に出て、変わり果てた姿の彼女を見つけたのだ。
そして腰をぬかさんばかりに驚いた彼は警察に通報することもせずに段ボール箱を持って逃げだし、今日までビジネスホテルに身を隠していた。
「ちゃんと警察に行って正直に言ったら」
「でも、俺が犯人だと疑われたらどうしよう」
「……」
亡くなった沙紀は美穂と同じ会社に勤めていた為、周りに武と付き合っている事をひた隠しにしていた。そしてその不自然な様子は不倫していると社内ではもっぱらの噂になっていた。
警察はその噂を聞きつけ参考人として交際相手の男を探していた。
「そうね、やっぱり警察には行かない方がいいかも」
「ああ、どうしてこんな事に……どうすればいいんだ」
「……」
二か月が過ぎた。
今も武と美穂は一緒に暮らしている。
沙紀の件で二人は運命共同体になった。これからも一緒にいるだろう。
ただ、それだけじゃない。
武は変わった。
アパートの近くで知らない人間を見れば刑事に見張られている、と思い込む。
玄関のチャイムが鳴れば、誰が来たのか、とビクビクする。
すっかり心配性だ。
武が暢気な性格の時は美穂との相性は良くなかったらしいが武が心配性になった今、二人の相性はきっと良くなったに違いない。
ビクビク。ビクビク。
武は一生、おびえて暮らさなければならない。
ビクビク。ビクビク。
だから二人は、ずっと幸せ。
最期までお読み下さいましてありがとうございました。もしよろしければ『弱小、超常現象研究部』をお読みください。今までの短編をまとめた一話完結の短編集になっておりますので、お楽しみいただけたらと思っております。